先祖解放の動機(ご利益信仰を乗り越えよう)




清平の先祖解放を薦める方々は、清平に行ったら、病気が治るとか、子女が授かるようになるとか、登校拒否が直るとか、様々な家庭問題や自分を取り巻く諸問題の解決、いいかえれば、家内安全商売繁盛のようなことをうたい文句を、ワラをもすがりたいような信徒たちに薦めます。

世間ではこれを「ご利益」という。ちなみに、創価学会はこれを売り物に拡大してゆきました。ご利益は必ずしも悪いわけではないのですが問題は、その通りになればいいのですが、そのようにはならないことが多々あります。

この時に、下手に、「貴方の信仰が足らないからだ」などと言ったものなら、そこらそんじょの新興宗教と同じレベルになってしまいます。

事実、清平の修練会に行って、逆に、病気になって帰って来た人が沢山いました。気管支炎をこじらして、肺炎にまでなってきた人がいます。なにやら、完治出来なくて今でも安静に暮らしている。

あるとき、777双クラス(高齢者)の女性の修練会があり、ほとんどの女性が重い風邪にかかって帰ってきました。これは当時流行した「清平風邪」の軽い次元ではない。

ちなみに、清平風邪の原因は悪霊が抜け出たので風邪をひいたという理解に苦しむ説明である。これでは、悪霊が抜けない方がいいようなことになりかねない。

また、痰が修練会中に仕切りなしに出て来る。これは悪霊のせいだという。このように、当時は信仰の論理に基づいて不思議な説明がなされていましたね。

それから、数年以上たって古い信徒から順に清平に来いというアボジの命令で行って見ると、みんな、マスクをつけて、パンパン背中を軽く叩いている(昔は痛いほど力を入れて叩いていた)。

事情に詳しい信徒にどうしてこんなにも変わったのかを聞いてみたら、ホコリがでるので、マスクを付け、死人が出たので軽く叩いているいるというのである。

また、病気になるのは寝袋を洗わないせいであるという。信仰の論理から客観論理へ移行した説明である。まるで、キリスト教史を見ているようである。

結論として、出来ることなら、先祖を解放したら、現世にご利益があるというようなご利益を求めて先祖解放に行くのではなく、気の毒な先祖の方々(アダムの子孫、神の氏族、one family under God)を解放しに行くという為に生きる精神、意識を持って行くことを願います。

その結果として、持病が直ったとか、子供が授かったとかいう功徳があるような証にいたしましょう。

ちなみに、私は自分が天国に行きたいから献身したのではなく、アボジの「本当は4っか5っの博士号を取るような学者になりたかった。しかし、あまりにも悲惨な神の事情を知ってしまった。

そんな神を見捨てて行くことが出来なかった。だから、メシヤの使命を引き受けたのだよ」という言葉に応答して献身したのです。

また、私の心に残っている人物としてアボジの親戚の文社長です。一和産業を救う為にスイタクリの土地を売り始めた時に、アボジは「お前は、天の土地を売るのか」と咎められた時に、この方は「自分一人が地獄に行くことによってこの「一和」を救うことが出来るのなら,天の土地を売ることもいとはない」と答えたという。

やったことの良し悪しは別として根底にある心構えは見上げたものです。これは私の「座右の銘」になっています。

だから、天国に行きたくてジタバタと天からたれた蜘蛛の糸に群がるような食口の行為を見る時に、とても違和感を感じるのです。高潔な魂を持ち続けたいと思います。



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今は実態の時代(UCを見しものは神の国を見しものになっているのか)




今はみ言の時代ではなく、実態の時代です。

初期はみ言以外に何も見せるものがありませんでしたが、もう半世紀もたちまと、そのみ言に基づいて実践した結果を人々は信徒であろうが世の人々(人類)であろうが見たがるものです。

それは人間の自然の発露なのです。その結果がオ-ムと同じようなカルト(反社会的宗教団体)では証にならないのです。それは神が願ったものでもないし、TFが願ったものでもない。おかげで、TFは入国すらできませんでした。

人々がUCの実態を見せてくれといっているのに、まるで、闘牛士みたいにサット身とかわして原理講義、八大教本の方に注意を向けさせている、と笑われているのです。み言を実態からの隠れ蓑にしてはいけません。

ちなみに、イエス様は「私を見し者は神を見し者なり」と言いましたが、再臨時代は「再臨主の家庭を見しは神を見し者なり」と言えるようでなければなりません。祝福家庭も同様に「我が家庭を見しは神を見し者なり」と言えるようでなければなりません。

しかるに、二世の実態はどうでしょう。父母マッチングの集会に参加するたびごとにうちの子は祝福受けたがらないとか、アボジのマッチングで壊れたとか、しまいには非原理の人と結婚してしまったとか、とても証から遠いものです。

また、無事に祝福を受けて家庭を持っても、み旨をするわけでもないし、献金するわけでもない。そして、教会には行かない。

ビスマルクは「私に汝の国の若者を見せよ、さすれば国の未来を予言しよう」と言ったといいますがこれは我々の二世に当てはまることです。放任しておくわけにはいかないのです。

そして、さらに「UCを見し者は神の国を見るものなり」と言えるようでなければなりません。しかるに、実態が借金地獄と自己破産奨励と自殺ではみ言は口先だけの単なる観念論になってしまうのです。

私がこのように論じると、TFが摂理のために膨大なノルマを課してくるのだからどうしょうもないではないかという人がいます。

そうでしょうか。ほんとうにどうしようもないのでしょうか。そして、そのために私が羅列した問題は正当化されるのでしょうか。もし、正当化すればそれは全部アボジのせいだということにならないでしょうか。



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S烈女についての思い出(私の受けた啓示と私の神観の原点)




最近、777双のS烈女が聖和されましたが式典は家庭連合の会長を初め、大先輩たちも参列し、盛大に挙行されたようです。私にはもSさんについては悲喜交々の思い出があります。

私が福井教会に人事になった時、数年後に777双になる小林氏が教会長として赴任してきました。

当時福井教会は前任者の教会長がS烈女に完全に主管されてしまい、問題の教会として教区や本部に知られていました。それで、新しい教会長として小林氏がやってきたのです。

小林さんが上京で留守の時には私を代理使命して行きました。ところが、彼女は自分が代理者と思い込み、教会を仕切りだすのです。

その結果、私と真正面からぶつかり、大喧嘩になったのです。それ以来、S烈女とは犬とサルの関係でした。

彼女は教区本部に人事になり、小林さんも移動し、私が福井教会長になって行った経緯がありました。

やがて777双の祝福がやって来た時に、アボジは自分に最もふさわしい人の名を5人、書けというのです。

そこで、私は一番嫌いな人、この人とだけは祝福を受けたくはないという人の名を順番に書いて行きました。

私がその一番先に書いた人の名がS烈女でした。なぜなら、私はクリスチャンですから、”敵をも愛せよ”のみ言葉に従べきだと思ったからです。するとどうでしょう。心が真っ白になり、実感として神が100%、相対してくれました。そこで私が受けた啓示は”神の愛は平等”だ、ということでした。

教会では功労者の順番があって、私の相対者は16番目でした。しかし、神の啓示は彼女を16番目に愛しているとというものではないのです。功労があろうが無かろうが人間を、人類を、我が子として平等に愛しているという教示でした。

だから、アボジが「この女性に最もふさわしいと思う者は手を挙げなさい」と言えば、自動的に何のためらいも無く手が真っ直ぐ挙がるのです。

・ここからは、私の悟りになってきますが、神が平等に人類を我が子として愛しているということは、善人も悪人も関係なく、平等に愛していることです。

なぜなら、神は創造本然の状態で人間を我が子として愛しているからです。だから、神は創造原理に絶対的な価値を付与するために堕落行為に干渉しなかったというのです。

イエスは神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせっる、と言いましたが、創造本然の観点からは当然のみ言葉なのです。

本然では悪などは存在しないのです。それゆえ、この観点から「人を憎まず悪を憎め」という格言が出てくるのです。

・今年の5月30日に西川先生の夫人である美植ママさんが友人の家に泊まりに来た時に、疑問に思っていたことを聞きに行きました。

疑問とは、果たして、血分け教団であるイスラエル修道院の金百文が文師を洗礼ヨハネの立場でメシアとして受け入れたからと言ってキリスト教界、さらにはキリスト教国家群が文師を再臨主として受け入れ、1945年頃には神の国実現の道筋が立つのか、という問題です。

なぜなら、血分け教団であるイスラエル修道院自体が世界の主流派の教界から異端またはカルト扱いされているからです。

美植ママはとても理性的で、客観的な方なので、私の質問内容を十分に理解出来たようでした。

・UCの様々な問題を語り合っているうちに、そこに来ていた12双のS夫人が「師観さんは統一教会から最高の女性を奪って行った」というのです。

なにやらS夫人レベルの人達はみんなそう思っているようです。だからUCに対して余り辛らつな批判をするなと言いたいのでしょう。

その時に分かったことは12双の信仰の大先輩と言えでも、私が体験した「神の愛の前」では人は平等だという神の価値観とは違う人間的な価値観に未だ留まっているということです。クワバラ、クワバラ・・・

・私のホ-ムチャ-チの礼拝に集まってくるシック達に、さっそくその話をしたら、とても霊的な姉妹が霊界から知らされたような顔つきで、「先生は幼児の時に大変な蕩減を払っていますね」というのです。

戦時中の空襲後に、線路の脇に血まみれになって真っ青な顔をして倒れている私が見えたそうです。天は私が人間的にも大変な代価を払っているので、それを補ってくれるすばらしい相対者を与えたと言うのです。

・この話はマンザラでもない話で、同じような話を托鉢僧が私を見て言ったという話を母から聞いたことがあります。

私は幼少の頃にありとあらゆる重病に掛かり、何度も死に目に会い、死んだと思われてお坊さんまで呼ぶほどだったという。そして、最後に左腕を失ったのです。托鉢僧によれば、私は我が家の因縁を全部背負って生まれてきた子供だと言う。

なので、将来、出家僧にしないと死ぬという。結果的には誰も勧めないのに、学生時代はカトリック教会に行き出し、修道僧に憧れていたのです。今思えば運命・天命だったのでしょう。

・代価と言えば潜在意識的には身に覚えがあります。左腕を失った骨がギザギザだったのです。田舎の藪医者がそのまま皮を引張って縫ってしまったのです。

それ故に化膿してしまい、苫小牧の大きな病院で再手術をしたのです。戦時中で麻酔が無いため、泣き叫ぶ幼児を皆で押さえつけて、皮を捲り上げて骨カンという道具でギザギザの骨を丸くきれいに切ったのです。

その苦痛ははかり知れないものでした。恐らくアボジですら認めざるを得ない代価の蕩減だったのでしょう。したがって、今ある人生はその代価の上に成り立っているのです。

代価はそれで済んだ訳ではなく、更なる代価はそのハンデイを持った状態で健常者と同じ条件で人一倍の努力を持って克服して行かなければならない人生が待っていたのです。

・しかし、マイナス面だけではなく、自分の姿に神の姿を見ることが出来たことです。神自身がハンデイの体を持って歩んでいたのです。

だから、マザ-テレサがカルカッタ-で異臭を放ちながら道端に倒れている老人を見た時に、その老人の顔がイエスの顔に変ったという神体験には共鳴出来るのです。

それゆえ、神を喜ばす為には自分の障害のことで悲しむことが出来ないのです。如何にそれを感謝し、喜びに変換できるかが生涯の課題なのです。幸いに私に会った人は、皆、私は明るい人だ、言ってくれるので救われています。

・最後にはS烈女に感謝しなければなりません。彼女のおかげで逆説的に神の愛について体験出来たからです。そして、これは私の神観の原点になっているのです。



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残念な韓国中心のUC文化(本当の神様が願う文化を創造しよう)




あるMLで論客の一人か以下のような質問がありましたので、私なりに考えてみたいと思います。


なぜ日本にUCの教育機関がないのか?韓国には天安に鮮文大があり、清平に神学大学院があります。アメリカにはUTSがあります。

信者の一番多い日本にない方がおかしいです。海外留学は大変な経済負担となります。

日本人が日本で学ぶならば、バイトしたりしながらでもできるので、経済負担が少ないでしょう。

日本に作るのは、二世教育の門戸を広げるところにあります。学校を作るのは大変だが…?



これに対する師観のコメント:

・そもそも日本UCに金を作らせ、根こそぎ韓国に持って行くという思想に問題があると思えます。

アレだけのお金をつぎ込んで、韓国の信徒が一万五千人に落ち込んでいる(2014年9月号の『新潮45』)という。自分達の力でやったものは何もないように思えます。挙句の果てに、韓日祝福の名目で、7000人の日本の女性達たちを韓国に動員したのです。

かなり前の話になりますが、私が全羅道のある統一教会を尋ねたら、ほんの数名の高齢の韓国人シックが礼拝に来ていました。後は全部日本人です。

一人の韓国人の教会長の下に7人ぐらいの韓日祝福での夫人達が手足となって働いているのです。これを見て、さすがに唖然としていました。

韓国の教会をやたら美化したニュ-スが入ってきていましたので、期待して行って見たら、実態は日本人でかろうじて支えらている状態でした。

これでは、韓国人シックは伝道できるはずがありません。あるのは見栄と極めて人間的なプライドです。

何もかも日本に頼った他力本願なのです。その結果、自力では伝道は出来ないし、会社や箱物を自分達で維持できず、今尚、日本UCに依存しないと何も出来ない始末なのです。

口実は日本は中国、北朝鮮、ロシア(当時のソ連)などに滅ばされて、無くなる国だから、全ての資産を韓国に移すというのです。更に悪いことは、金の鳥である日本のUCまで食い尽くしているではないですか。

おまけに、残された韓国内の資産をアボジの死後、誰が奪うかの競争です。

それゆえ、ロ-マ法王は韓国は生まれ変わらなければならないといったのです。これは、統一教会は生まれ変わらなければならないと言う意味ににもなります。

・日本において、様々な教育機関や事業体を建設した方がはるかに発展したでしょうが、問題は韓国人がやって来て金目の物は全部自分で主管しようとするのです。

金明大氏は日本にやって来て、赤字の摂理企業には手を出さず、当時、黒字だった世一観光と天正教を主管しだしたのです。始めは日本人にやらせておいて、成功したものだけを自分達が取って行くのです。

そして、反抗出来ないように、絶対服従を掲げるのです。恐ろしい文化です。F氏のように、韓国人は主人で日本人は犬なのだ!と公言するような人しか生き残れないような組織が出来て行くのです。

・これは神とは明らかに違う文化・制度ですから、教祖の死後、この教団は分裂し、現在の状態になって行くのです。実を見れば木が分るのです。これは韓国文化が生み出した必然の結果でしょう。

・解決策は韓国人は自分の国に帰り、日本に頼らないで、自力で教会を発展させ、関連事業を発展させることです。

そして、日本の教会は独立することです。ある韓国の先生が、自分の友人に、「あなたも統一教会に入らないか。ここでは日本人を顎で使えるぞ!」と言った言葉は有名です。

・西川先生は日本に来て、日本人を顎で使うために伝道したのでしょうか?先生においても、不本意なことでしょうから、日本のUC・家庭連合の独立に一役買ってもらわねばならないでしょう。なぜなら、自分が日本を伝道した責任があるからです。



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UCの原点は何か?(思いを尽くし、心を尽くし、魂を尽くして、地上に神のみ旨を成そうとする人)




これまで、日本の信徒は30年、いや、それ以上の年月をかけてUCに献金して来ましたが、果たして、どれだけ天の為に死に金ではなく、生きた金として使われたのでしょうか。この問題はアボジにおいてすら言える問題です。

一つの例を挙げると、ハッピ-は毎月、100億円をイ-ストガ-デンにアボジの命令で持って行かねばならなかった時があったという。それが、4年間続いたという。

そこでは、名目は御前会議ではあるが、会議が行われ、実際は韓国の先生がたがそのお金を奪うようにして持っていったという。そこには、具体的な事業計画書も精算書も無く、ただ、自分達はこのような事業をしたいと、口先で言うだけです。

従って、そのお金が本当に天の為に使われたかどうかは全く分らないのです。お金の運び役を続けてきた人は、「この団体は駄目だ!」と実感したという。

彼は昔はミスタ-原理とまで言われたとてもアベル的な純粋な先輩です。そのことがあって以来、UCには距離をおいています。

こんな例は、ほんの一例であって、挙げれば切が無いほどあるのです。パンダ摂理の献金の行方も然りです。あの多額の献金は何処にどのように流用されていったのでしょか。

誰か専門の学者がUCの献金がはたしてどのように使われたのかについて、第三者が調べ、本を書くことが必要でしょう。

ことのことを通して、私が恐ろしく思うのは、不完全な人間が神の名において、献金を集め、それを使うことです。現実は神がお金を直接集め、直接使うわけではないからです。

宗教戦争も同じです。神の名において、人間が戦争するのです。UCの教義の盲点は「人間が神の実体になる」という教義です。

神の実体対象とは、はるか彼方の目標であって、現実の信徒は堕落性に満ち溢れた不完全な人間なのです。

にも拘らず、原理を聞いて、信者になり、アベルの位置を与えられると、自分はメシアの代身であることを主張し、神の実体になったような錯覚に陥り、自分が使うお金は神が使うお金だ、と思い込むようになるのです。

以前の総会長はその典型的な例でしょう。残念ながら、UCはそのような人で満ち溢れているのです。

UCのもう一つの盲点は無原罪論です。無原罪と言うだけで、何か特別な人間にでもなったような錯覚に陥るのです。

万を超える無原罪の祝福二世は沢山いますが、適齢期の若者の1/30しか祝福を望まず、祝福を受けても家庭を持つ人は更に少なく、神に相対できる二世は皆無に等しいほど少ないという。

これは統一家においても程度の差はあるでしょうが、似たようなものです。アダムもエバも無原罪でしたが立派に堕落しました。

それゆえ、第二アダムであろうが、第三アダムであろうが、無原罪だけではメシアの使命を果たしたことにはならないのです。問題は神にどれだけ相対して、み旨を成し遂げたか、なのです。

ちゃぬの日記によれば、アボジの成し遂げたものは神が離れてしまった教会だという。

*『教会が一つから二つに分かれ、二つから四つに分かれ、このように三度だけ 分かれたら神は離れるのです。天理の原則がそうなのです。』*

(「文鮮明先生み言葉選集」9巻より イエス様はすべてのものを残して逝かれ た 1960年6月5日 前本部教会)


問題は原罪が有るか無いかに拘らず、どれだけ神と相対して、み旨を成し遂げたかが大切なのです。

その観点から考えますと、釈尊は原罪はあったでしょうが、人間の中に潜在していた神性(仏性)を覚醒し、悟りを開き、多くの人々を今なお、救済している業績には頭が下がります。ただ、飲み食い娶りをしている無原罪の人たちよりはるかに神に近いでしょう。

それゆえ、「メシアとは、思いを尽くし、心を尽くし、魂を尽くして、地上に神のみ旨を成そうとする人」というアボジのみ言葉は我々が帰るべき原点でしょう。

余談になりますが、一般の教会は献金の収支を公表しています。どのくらいの献金があって、何に使われたかを信徒の前で公表するのです。UCにはその制度が初めから無いのです。余りにも、原始的です。

だから、教会が大きくなるつれて、金の問題が起きて来るのは当然なのです。そして、この新約教会の伝統はUCの改革において、見習うべき伝統でしょう。



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