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遠藤の母なる神に対するコメント(何を信じるかよりも何をするかが問題)



ある方から、「遠藤周作の母なる神とは」に対して、次のようなとてもクリスチャン的な感性で、大変真っ当なコメントを頂きました:



1972年 大学入学直前に映画「沈黙」を観ました。迫害を受けるクリスチャンたちが、かわいそうで、かわいそうで、涙が止まらず、最後まで観ることができず、途中で映画館から逃げだしました。


これに対する師観のコメント:

・私は少年時代には「母もの」の様なかわいそうな映画が怖くて見に行けなかった記憶があります。映画は映画だと割り切って見ることが出来ず、情的にその中に入り込んしまうのです。

カトリック教会で洗礼を受け、熱心なクリスチャンになり、修道士に憧れ、禅の修行をするようになってから、ものの見方が変わったのです。

芭蕉が俳諧の奥義を訪ねて、山道を歩いていた時に、一人の幼児の迷い子がトボトボとついて来るのです。

芭蕉はその子に声をかける訳でもなく、助けてあげる訳でもなく、やがて力尽きて死んで行くのだろうと思いながら淡々と歩むのです。

なぜなら、彼もまた野垂れ死を覚悟で俳諧の奥義を訪ねながら歩んでいるのです。それはとても自然であり、その中に「ワビ・サビ」の世界があるのでしょう。

それ以来、私も「野垂れ死に」に憧れ、この原理の道を淡々と歩んでいるのです。在るものを在るがままに受け止め、一切の私情を捨ててそのものになり切って生きて行く生き様です。


・そこで、クリスチャンの殉教に心が打たれて洗礼を受けた私の立場から、以下の遠藤の自問に対してコメントとしてみましょう。

「ロドリゴ神父は投獄され穴吊にされた。その時隣接している牢からキリスタンの苦しい穴吊の呻き声が聞こえて来た。 その時、かっての聖職者のフエレイラが現れた。

「私が転んだのは、神はあのうめき声に何一つしてくれなかったからだ。あの信徒たちは昨日からあの苦しみを味わっているのだ。私は必死で祈ったが神は何もしなかった。

さっきも、この時も・・・なぜ彼らはあそこまで苦しむのか。それなのに、お前は何もしてやっていない。お前が踏み絵を踏めば彼らは救われるのだ。なのに踏まないのは彼らより自分が大事なのだろう。」


・「キリシタンの苦しい穴吊の呻き声」を神が聞いてどれほど苦しんでいるのかを知って、いかに神を慰めることが出来るのかを自問自答することになるでしょう

。恐らく神の答えは神自身が「殉教の道を選んでいる」ことでしょうから、神と共に殉教出来ることを光栄に思い、感謝しなければなるまいと思うでしょう。それゆえ、苦しんでいるキリスタンが同じように思ってくれることを祈るでしょう。

文教主のように自分は大丈夫ですと言って、逆に神を慰めることが出来れば何と幸いなことでしょう。

その場にならないといくらそのように思っていてもペテロのように自分が果たしてどうなるのかは分からないことですが、決意としてはそのようになります。


・拷問の苦しみに関しては、すでに幼児の時に経験しているのです。私は戦争の爆撃で左手を失い、病院で麻酔もかけずに押さえつけられ、ギザギザになっている骨を骨切ハサミで切られたのです。

悲鳴を挙げる幼児も辛いが押さえつける人たちも辛いのです。これは地獄なのです。それゆえ、あの苦しみを想像するだけゾッとするしますが、”私だってすでに地獄を通過した男よ、今更、泣き言を言えるか”というものがあるのです。なので、問題意識が遠藤とは逆なのです。


・話を芭蕉に戻しますと、芭蕉は「故人の足跡をなめるのではなく、故人が求めたものを求めよ」と言いましたが、この言葉は座右の銘となっています。

それゆえ、私の生き方は故人であるイエスや釈迦や文教主の足跡をなめるのではなく、この方々が求めたものを求めるのです。

行き着いたところが神でした。そして、神と共に神の願いを実現するために生きているのです。

もちろん、故人である義人聖人を尊敬し、その説いた教えを尊重しますが、神格化したり、偶像化したりはしません。

「俺はメシアだ!、再臨主だ!」と言われても”ああ、そうですか?それがどうしたのですか?“なのです。それで、具体的に何を成そうとし、何を成し遂げたのですか?と、尋ねるだけなのです。


・根底に、いくら故人を崇拝しても自分が仏にならなければ意味がないという人生観・世界観があるからです。

それゆえに、「メシアとは心を尽くして、思いを尽くして、魂を尽くして神のみ旨ををなす者であり、私もなろうとしているし、あなたもならなければならない」という文師の言葉にはいたく共鳴するのです。


さらにその人は次のようにコメントしました:

堕落論6節 神が人類始祖の堕落行為に干渉し給わなかった理由。

1 創造原理の絶対性と完全無欠性もために。
2 神のみ創造主であらせられるために。
3 人間を万物の主管主に立たせられるために。

を聴いてびっくりしました。 神様が沈黙される理由が明記されているからです。それは人間に対する愛ゆえだったのです。これを明確に解き、囹圄(悲しみ)の神を明らかにしたお方は、再臨主に他ならないと確信します。



これに対する師観のコメント:

・ これは私も全く同感です。但し、メシアとは「油を注がれた者」を意味し、メシアとは人間と異なった存在、すなわち天使とか、宇宙人とか、三位一体論の「子なる神」などではないことです。

油を注がれた者は聖書には39人もいまして、それは存在論的には我々と同じ人間で使命や役職を意味しているです。それゆえ、文師によればメシアの候補には7人とか12人もいたというのです。韓国にはメシアを名乗る者は50人もいるという。

文師が解き明かしたという原理も李龍道や金百文の「キリスト教根本原理」に負うところがあまりにも大きいので、彼らもまた部分的メシアの一人でしょう。なぜなら、彼らの教義をなくしては原理は成り立たないからです。分担の程度の差と言っても過言ではないでしょう。


・旧約聖書の神観では善も悪も神の意志であり、神の働きになってしまうのです。

「しかし見よ、私こそそれである。私の他に神はいない。私は殺し、また生かす。わが手を逃れる者は一人もいない」(申命記32/39)。

「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。私が主、これらのことをする者である」(イザヤ45/7)

ユダヤ教の神学では神には愛と義の属性がある。人間が罪を犯せば神の義という道理から人間を罰せなければならない。

しかし愛ゆえに罪を犯した人間を許さなければならない。この相反する二つの属性を同時に満たす妥協点として人間の代わりに羊をいけにえとして捧げたのです。

キリスト教神学はこれを踏襲したので、神の子であるイエスが人類の罪を背負って神に捧げられたと解釈するのです。

しかし、原理はサタンが讒訴するので、神はサタンを満足させるためにやむなくイエスを十字架に付けることを許したと解釈するのです。遠藤周作はこのユダヤ・キリスト教の贖罪観に立って神の沈黙を論述しているように思われます。


・しかし、原理はこれまでのユダヤ・キリスト教では解けなかった問題を解決したと自慢する訳にはいかないのです。

マルコ15/45によると、「イエスは多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」という。ここで、身代金は果たして神に支払われたのか、それともサタンに支払われたのかという問題は長い間論じられて来たのです。

オリゲネスは古代の教父のイレナエウスの要約説を継承しながらも、この身代金はサタンに支払われたのだ「賠償説」と主張して多方面からの支持を得ていたのでした。

人間の責任分担説も原理だけの専売特許ではなく、教理史の中にはすでに存在していて、神と人間の責任分担は95%:5 %ではなくて、五分五分だというのです。しかし、このように原理的な解釈の仕方は主流にはなれなかったので、表に出てこなかったのです。


・原理の最大の問題はその秘儀にあるのです。それは血統転換であり、血代交換であり、遡れば血分に行き着くのです。

特に、イエスは母マリアと性関係を持たねばならなかったなどど言い出すと皆から変態と思われて信徒以外に受け入れられないでしょう。この問題は韓国でカトリックから名誉棄損で訴えられたことがあるのです。


・宗教とは実存的なものなので、原理と文教主に出会って救われた人は沢山います。私もその一人です。しかし、躓いた人も沢山います。

他の宗教で救われたと感じている人も沢山います。めくら蛇に怖じずで原理は客観的な真理だと思い込んで伝道することは大変結構なことですが、ネットなどで実態をよく知っている人に出会うと驚くかも知りません。

そこで、真相究明に乗り出す人も出てくることでしょう。私のようにプラス面とマイナス面を知りながらもトータルでものを見る人は未だ信徒として教会に在籍していますが、all or nothingでものを見る人は躓いて去ってしまうかも知りません。


・私はイワシの頭を信じようが、何教でも構いません。何を信じるかよりも何をするかに重点を置いています。

何でもよいからどちらが先に天国を築くかを競争すればよいのです。原理によると邪教以外のすべての善なる宗教は時代と環境に合わせて神から出て来たというのですから、良心と理性に基づいてより普遍的な善に向かって邁進する以外に道はないでしょう。



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実存としてのメシアであるお父様(保身ゆえに自分の魂までも失ったら何の意味もない)




ある日、S氏より電話があり、彼の紹介でウオンピル先生が逝去されるまで付き添ったKさんと言う韓国の女性にお会いしました。

結論として、アボジはメシアではないというのです。実を見れば木が分るというのです。

ウオンピル先生もそのことで悩んで、悩んで死んでいったというのです。実を見れば木が分るという論理は客観性があり、説得力があります。

原理といえども科学の観点からは、所詮、形而上学的仮説に過ぎません。神、霊界、天使、アダム・エバなどの存在は科学的には証明できません。特に堕落論の物語は聖書を信じる前提がなければ成り立ちません。

科学では、色々な仮説を立てて片っ端からその仮説に基づいて実験していきます。

そして、実験の結果、仮説の通りにならなければ、その仮説は間違いだったということになります。

原理と言う仮設のもとにアボジと信徒達は半世紀以上の生涯を掛けて、実験(実践)してみました。

その結果、H1はTFとその教会から離脱し、TMはH2によれば、自分が本当のメシアでアボジはその下準備に過ぎず、アボジの玉座に座り、TPの写真を降ろして、自分だけの写真をかけ、神だと豪語する。

それゆえ、H2は自分こそが正当なアボジの後継者であると宣言する。

仁進様は略奪婚、情進様や末の娘さんは事実婚、恩進様はアメリカのジョキ-と駆け落ち、なぢなど、肝心な真の家庭の中に、復帰された創造本然家庭の姿を見ることは困難です。

それだけではありません、日本の教会に在るものは借金地獄です。拝金主義に陥った教会では二世の行き場がありません。

すなわち、客観論から見て、これが実験の結果ですから、結論が出たようなものです。それゆえ、彼らの導き出した結論には説得力があります。

ところが、このような事実を突きつけられても、私の信仰には何の影響もありませんでした。

なぜなら、私がカトリックの修道僧に憧れ、釧路の極寒の中、朝5時のミサに間に合うように、深い雪を掻き分けながら、30分もかけて丘をよじ登り、修道院にたどり着き、熱心に通いましたが、神は遠い存在でした。

せいぜい、王と僕の関係でした。そんな時に、神によって導かれ、原理を聞いて献身してみると、生ける父なる神を実感したのでした。

やがて、祝福を受け、3年後にアメリカの教会で祈っていると、全身が神の霊気に満たされ、自分の肉体までが聖化されて、今まで克服できなかった愛と性の葛藤が克服され、性が神の聖なる儀式であることを実感したのでした。

そのよな聖なる性の儀式から3人の子女が授かったのですから、私は子供達にあなたたちは真に、真に神の子ですというのです。

3人とも祝福を受けて子女も授かり、神と共に生きています。神がいつも100%臨在してくれる実感に満たされるとき、これ以上の物はないもいらない満ちたれた心境です。

これが、私の宗教体験であり、私の実存です。更に、み旨を歩む中で神に幾たびか導かれたかはかり知りません。

本物のメシアと信じられているイエスを信じて信仰生活を熱心にしてみましたが、神は遠くに感じました。

ところが、偽メシア(?)と言われている文鮮明師によって、神を実感し、罪からの救いを実感したのですから、この偽メシアこそが私の実存において本物のメシアなのです。

そのメシアが蕩減として六マリアのコ-スを行かれたお陰で、今の自分の救いの実感があるとするのなら、足を向けて眠られるものではありません。

そして、これが客観的メシヤ論と実存的メシア論の違いなのです。実存とは自分との係わりなのです。

さらに、それは個人によって違うのです。S氏もKさんも新約の教会で救いを感じているそうです。

それは彼らの実存ですから、非難する理由は何も在りません。だから、個人の実存に対して分派などととレッテルを張る必要はないのです。

客観的にはカルトであるアレフ(オ-ム)には今でも年間500人の人々が入信し、イスラム国と自称しているテロリスト回教徒集団には年間1万人の若者が入信してくるという。

日本でも1人の北大卒業生がこの団体に飛び込んで行ったのは印象的でした。

しかし、注意しておかなければならないことは自分の実存を絶対化して、他人の実存を特に暴力や権力で犯してはなりません。それをやると、いくら実存といえでも社会的制裁を受けるのは当然です。

統一教会は、暴力はまだ使ってはいませんが、教会権力を使って神山さんを除名したり、だれかれなく、分派のレッテルを張ったりして、本来の世界基督教統一神霊協会の精神に反した行動をしています。統一協会は異なった宗教が超宗教の立場で協力し合って協会を形成するはずでした。それが本来の名前です。

宗教学においては、UCのメシアやキリスト教のメシアだけが正真正銘のメシアで、その他の宗教のメシアはせいぜいそれに準じるメシアなどと言うようなランク付けなどは致しません。

イエスを救い主と信じている人々が世界には大勢いて、キリスト教団を形成しているだけです。

同じように、仏教徒も回教徒もそれぞれ、自分たちの教祖を救い主と信じて、世界中に教団を形成しているだけです。

最近聖和された李ヨハネ先生が名古屋に来た時に、777の東森氏は見えませんですね、と問うた時、教区長が彼はH1のところに行ってしまいましたと答えたという。

すると、ヨハネ先生はお母様も顕進様もどちらが先に神の国を造るかで競争をしたら良いのですよ、と言ったという。

注:(東森氏は神山氏に近い友人から、神山氏が名古屋で話しをされるので、世話人になってくれと頼まれた時、アメリカでは世話になったのでそのくらいなことはしても良いでしょうと答えて、軽い気持ちで引き受けたら、郭ブル-プのレッテルを貼られたという。)

このヨハネ先生の言葉を全ての宗教、良心家に当てはめると、原罪があろうがなかろうが、誰かが、そして全ての宗教団体が競争して神の国を建設するために競争すればよいのです。

これが、私もメシヤのなろうとしているし、あなた方もメシアにならなければならないと言うことになるのです。

注:(いくら原罪がないと言っても堕落性(神と同じ立場に立てないという性質)があれば、神は相対することが出来ませんので、摂理を推し進めることが出来ません。それよりも、原罪だけあって堕落性がほとんどない聖人の方が神は相対できるのです。)

更に真の家庭の末の娘さんたちの事実婚によって、その区別はほとんど意味がありません。更に、み旨に無関心の無原罪の二世とみ旨に情熱を燃やして熱心にやる有原罪の一世を比べると一目瞭然です。)

最後に、私が教会の矛盾と戦っている姿を見て、子女たちは拍車喝采して応援しています。

保身ゆえに自分の魂までも失ったら何の意味もないといったら、みんな大喜びでした。私の座右の銘は「故人の足跡をなめるのではなく、故人が求めたものを求めよ」です。



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遠藤周作の母なる神とは?(すべてを知って受け止めてくれる慈しみの慈母のキリスト)




シックが「母なる神」という言葉を聞くと、どんなイメ-ジを抱くのでしょうか?

原理によると、神は本陽性と本陰性の二性性相の中和的主体であるというので、父母神についての母性面を想像するかも知りません。

残念ながら、講論は神を構造論的には記述しているが本陰性の母性面については特に説明している訳ではない。

エ-リッヒ・フロムによれば、父性愛とは倫理道徳的には善を指向し、能力的には優秀であることが条件となります。

これに対して、母性愛は無条件であり、子供が将来善人になるか悪人になるかを問わず、また有能かどうかを問わず、子供の誕生をあたかも天からの贈り物であるかのように受け止めるというのです。

勿論、例外は結構あるでしょうが、これは一般論としてうがった分析であり説明でしょう。

ところで、韓女史は真の母という立場はあるけれども、果たして無条件で自分の子女や信徒を愛しているのでしょうか?

女史の言動では、自分は2000年のキリスト教が求めた生まれながらの無原罪の独生女で、イエスの相対者であると言います。

夫の文教主は有原罪で自分に出会って無原罪になったと格下げし、自分以外の女性と結婚すべきではなかったという。

子共に関しては三男や七男と真っ向から対立し、親子で裁判闘争をすることも辞さない。

今まで自分達を支え多大な功労を積んできた信徒ですら耳障りなことを言えば簡単に除名までするのです。これでは家庭連合以外の人々、誰もが彼女を人類の真の母とは認めないでしょう。


それでは本論に入ることに致しましょう。遠藤が「沈黙」で挙げているテ-マは「棄教VS殉教」です。

キリスタン迫害時代にクリストヴァン・フエレイラ教父はスペリオ(地区長)というその信仰ゆえに高い地位にあったが「穴吊り」の刑で棄教してしまったという記事があった。

物語はそれが本当なのかどうなのかを確かめる為に、セヴァスチャン・ロドリゴという司祭(神父)が日本に送られてくるところから始まるのです。

その中で神父は二人の村人の殉教して行く姿を見て、殉教とはこんなにも惨めで辛いものであるのかとこれまでの信仰の在り方に疑問を投げかける。

ロドリゴも追われて森の中に身を隠す。しかし、キチジロウという弱い人間が役人に脅かされ、銀貨に釣られてロドリゴを騙し、売り渡す。

「”許してつかわさい”、地面に跪いまま泣くように叫んだ。”私は弱か”、役人は幾つかの銀貨を鼻先にさげすむように投げつけた」

ロドリゴはキリストがユダに裏切られたように、自分もキチジロウから売られて権力者に裁かれようとしている。

その時、彼は殉教を決意した。それはイエスと苦しみを共にする喜び、キリスト教徒が味われる神の子としての連帯の喜びであると思った。

彼は投獄され穴吊にされた。その時隣接している牢からキリスタンの苦しい穴吊の呻き声が聞こえて来た。

その時、かっての聖職者のフエレイラが現れた。

「私が転んだのは、神はあのうめき声に何一つしてくれなかったからだ。あの信徒たちは昨日からあの苦しみを味わっているのだ。私は必死で祈ったが神は何もしなかった。さっきも、この時も・・・なぜ彼らはあそこまで苦しむのか。

それなのに、お前は何もしてやっていない。お前が踏み絵を踏めば彼らは救われるのだ。なのに踏まないのは彼らより自分が大事なのだろう。

少なくても自分の救いが大事なのだろう。お前が転ぶというと、あの者達も穴から引き揚げられ苦しみから救われる。それなのに転ぼうとしない。

お前は彼らより教会が恐ろしいからだ。お前は彼らの為に教会を裏切ることが恐ろしいからだ。この私のように教会の汚点となることが恐ろしいからだ。

だが、それは愛の行為か。司祭はキリストにならって生きよ、という。キリストは彼らの為に転んだであろう」とフエレイラは言い続けた。

ロドリゴは踏み絵を踏もうとした時、足に鈍い、重い痛みを感じた。自分の生涯で、最も聖なる美しいと思って来たもの、最も人間の理想と夢に満ちたものを踏む、その足の痛み・・・、

その時銅板のあの人が”踏むがいい”と言った。“お前の足の痛さをこの私が一番よくしっている”と言った。”踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつ為に十字架を背負ったのだ”

こうしてロドリゴが踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いていた。

この時のキリストは母のようなすべてを知って受け止めてくれる慈しみの慈母のキリストなのです。これが遠藤周作の母なる神なのです。

アメリカの遠藤文学研究者のヴァン・C・ケッセル氏によると、ロドリゴが踏む絵を踏むというのは信仰を捨てたのではなく、教会の組織、制度としての教会を捨てたのであって、自分とキリストとの関係は西洋の男性の姿としてのキリストではなく、慈母のキリストとしての関係を逆に深めているという。

アメリカでは組織以外のキリスト教を求めている人が多くなって来ているというのです。

遠藤は12歳の時に母に強く勧められ仕方なく洗礼を受けてクリスチャンにはなったが、サイズの合わない洋服を着せられたような違和感を覚えていた。

自分はキチジロウのような弱い人間であるという。それゆえ、彼はキチジロウの泣くような声を通して自分のことを次のように描写します。

「私は聖職者を売りました。踏み絵にも足をかけました。この世には強い者と弱い者がいます。強い者は試練を乗り越えれるが、弱い者は役人の責めを受ければ転んでしまうのです」

という。肉体的弱さに屈してしまうキチジロウは作者そのものであり、その弱さゆえに罪の意識に苛まされるのです。

それゆえ、彼は神と人間の弱さの関係をとことん追求し、自分のような心の弱い人間も果たして救われるのだろうか、と生涯問い続けるのです。そして最後にたどり着いたところが慈悲なる神であったのです。

それは何か殉教しなければいけないということを上から言ってくる神のイメ-ジではなく、踏み絵を踏むことしかできなかった人間の苦しみを受け止めてくれる母のような神のイメ-ジが伝えられることによって、そこに信仰共同体が生まれて行ったという。それが隠れキリスタンなのです。

1644年の島原の乱以来、キリスト教の信仰を保ってきた隠れキリスタンは世界の注目を浴び、同時に遠藤の「沈黙」が話題となり、彼の母なる神観が注目を浴びるようになったのです。

また、注目に値するのは、遠藤はロドリゴの口を通して、「主よ、私はあなたがいつも沈黙しているのを恨んでいました」というと、「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ」と彼は主の言葉として答えているところです。


原理の神観によると、

1.神は人間の親で愛に満ちあふれた方なのです。親は出来の悪い子供ほど案ずるという。したがって、我が子である人間が原理から脱線し、堕落したが、それでも愛し、許すのが愛の神であり、親というものなのです。

しかし、いくら許してもサタンが讒訴するので、人間が自分の責任分担で勝利しない限り、救ってあげられないのです。それゆえ、神はその間、祈るような気持ちで沈黙せざるを得ないのです。

勿論、神の沈黙とは人間と共に十字架を背負い、苦しみを共にしているということです。

したがって、遠藤の最大の問題点は人間には神も干渉できない人間の責任分担があるということと、下手に干渉するとサタンが讒訴するというということが分からなかったということです。


2.遠藤は”踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつ為に十字架を背負ったのだ”というが、イエスの十字架はイスラエルの不信仰の結果であって、神の第一摂理ではないということです。


3.私が様々な問題を抱えていたある教会の教会長をして赴任した時に、一線は超えてはいなかったがすでにできていた一組のシックが”私たちは結婚することを誓いました”と言って来た。

切り捨てる訳にはいかなかったので、結婚後既成家庭として教会につながり、時が来たら既成家庭として祝福を受けて献金で教会を支える勢力として頑張るようにしてあげたことがあります。

信仰の強い者は献身者の立場を保ち続けれるでしょうが、そこまで強くない人は既成家庭として生き残れる道筋を作ってあげることも出来るのです。

それゆえ、原理にも母なる神も存在しているのです。再臨論は普遍性を欠いてはいますが、その原理の基本的な教義の中には未だ捨てがたい真理が輝いているのです。

「沈黙」とその作者は世界的にも話題の人物なので、様々なコメントが期待されます。



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神を感じなくなったところから神を求めて行くという自然な動き




山形県の奥地にキリスト教独立学園高等学校という高校があるという。

ここでは人は二度生まれるという。一度目は親から肉体的に生まれるが二度目は霊的に、すなわち実存的に生まれ変わる(born again)という。

我々も原理を聞き、神に出会って、霊的に生まれ変わり、地位、名誉、学位、金財など世俗的価値観をすべて捨てたはずであるが、何時の間にか、お金があって献金できる人が救われて、出来ない人は救われないというような世界に変わってしまった。クワバラクワバラ

イエスは金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るよりも難しいと言ったが、旧UCでは貧乏人が天国に入るのはラクダが針の穴を通るよりも難しい。

事実、ジャルジン摂理の時には一億円献金した人は天国に行けるということになり、その証明書として文教主と写真を撮るという出来事が起こった。

これを見た前の前の宋総会長は自分と写真を撮れば、霊界の文教主に取り次ぎ、天国に行けるようにしてあげるとと言って集金した話は有名です。

かくして、旧UC・家庭連合は世俗化して今も抜け出せないままになっています。三分裂すれば神が去って行くといいますが、神から遠い存在になっています。

それでも様々な大会に大勢の人々が集まったといって喜んでいるようですが、世俗化した価値観に集まっても意義はないのです。

人集めなら、この世のアイドルが来ると万単位の人々が集まります。それとあまり変わらないことになります。

さて、本論に入りますが、キリスト教独立学園高等学校の校長がが東京に来てある有名校の校長になり、その学校の三年生の最も優秀な10人の代表生徒と懇談をしたという。

この生徒達の問題は全員心を閉ざしていることだった。彼らが入学した瞬間から、”流れ”を読む、”空気”を読むことに慣れていた。

流れがこうだからとりあえず、ついて行こう。しかし、私は違う。他人に対して関心は向かない。余計な干渉はしたくはないし、されたくもない。苦手な人には距離を置き、自分の境界をしっかり守る。そうやって生きているという。

そこで、そのような現実の中で、本当の自分はどう思っているのか聞かせてくれと言ったら、しばらく沈黙が続いた。

一人の女生徒が、私は・・・といった瞬間、その子から涙が出て来た。本当の自分はどこにあるのかという展望や未来がないという。

なぜなら、大人たちは自分が背負わなければならない問題を全部未来に背負わせている。「上の世代は責任を取らない。付けはすべて私たちに回って来る。こんな社会で生きて行けとあなた方は言うのか」

これが彼らの中にある心の叫びだった。この世界は都合の悪い現実を隠すという二重構造を作り出すという。

この話を彼らの親たちに話したら、親たちは我々は本来ならば自分たちが負わねばならない恐れを我が子や弱い立場の者たちに負わせていると言った。

親たちには我が子を信じていない恐れがあり、それはせんじ詰めれば自分を信じていない恐れだったという。それは在りのままの自分を受け入れ、他人の前で在りのままに生きれない恐れであったという。さらに、この生きる時代そのものが怖いという。


この話を聞いて、我々シックは幸いだと思う。則天去私ではないが、すべてを神にゆだねて生きているから怖いものがない。

真の天国とは死後天国に行くことではない。天国であろうが地獄であろうが、神と共に生きるところに天国はある。

今や家庭連合を静かに去る人が多いという。しかし、それは神から去ったのではなく、神を感じなくなったところを神を求めて去ったに過ぎない。それゆえ、真の恐れとは神が去ることである。




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献金は果たして韓日を救う条件になったであろうか?




国進氏が日韓UCの財務を担当していた時に、言った言葉は大変興味深い。

それは日本の献金が韓国の事業体も含めたUCをダメにしてしまったという。分かり易く言うと「親方、日の丸」ということです。

「現代」のように韓国の企業は自助努力をして必死に経営をしているのに、UC関係の事業体は赤字が出るたびに、日本に献金を要求し、それでも倒産したら、日本の献金が足りなかったからだと言い訳をするという。

国進氏も日本の献金に頼って生きているゾンビ企業を必死に立て直そうとしたが、いったん、献金の甘い汁を吸ってしまった人たちは”甘えの構造”から抜け出すことを拒み、彼に食ってかかったという。

それゆえ、彼が出した結論は日本の献金が韓国の統一グル-プをダメにしてしまったという結論である。

問題はそれだけでとどまらず、そのトバッチリが文教主にまで及ぶことである。日本に献金を要求して韓国の統一グル-プをダメにしてしまった最終的責任が文師であるので、一体彼は本当にメシアなのか?と疑問に思う先生方が韓国から続出して来たのである。

この間、私が知り合いの36家庭の先生方を訪ねて本音を聞いてきましたが、”ええ!あの先生も?この先生もそのように思っているのですか?”と思わず声が出てしまうほどであった。

しかし、今更、組織を離れは生活できませんから、体制の中で生活しているという。これが、実態なのです。頭を冷やし、盲信から目覚めましょう。

次に、日本の旧UCが沢山の犠牲者を出してまでも20年以上も献金してきましたが日韓関係は良くなったでしょうか。

残念ながら、実態は何の効果もなく益々悪くなるばかりです。




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