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原理と聖書についての問答

I氏:

一般的に、経典である原理講論には、優れた神学思想と、時代錯誤の朝鮮類似宗教の類とが混合している。私は優れた神学思想の部分をとり、時代錯誤の部分は排除する。」ですね。


師観:

以下の質問についてお尋ねしたいのですが、原理が優れた神学思想としてキリスト 教界に通じる側面は何でし ょうか。それから、聖句の解釈として批評学の観点から学問的に通じない箇所は何ですか。 羅列し、その理由を説明し てくれるとありがたい。


N牧師:

先ず神学とは自分の教会に深刻な問題が生じた時に、その原因を客観的に調べ、解 決の道を探るものです。他と比べてここが優れていると優位性を誇るものではありません。

UCにおいて今深刻な 問題が発生しております。この原因を探り、解決の道を見っけるというのが正しい在り方です。当然教会の公式 教理が研究対象になります 。

UCの場合原理講論になります。この教理のどこに間違いがあるから教会がこうなる のだという事を神学的に明 解に解き明かすことです。

キリスト教では初代教会時代の無手勝流の伝道から、教父時代になり教会の正統信仰 を定める必要が出てまいりました。

ドケティズム、マルキオン、モンタニズムなどの 教会を混乱に陥れたグルー プから健全な福音的教会を造るためにクレメンス、オリゲネス、エウセビオス、ポ リュカルポス、アタナシオスなどが出、教会会議を重ねる中で正統教理が確立されて行きました。最後的にアウグ スティヌスの時に古代教会 の教理が確立してゆきました。

UCの今日の問題と同種のものが沢山過去の教会史に隠 されています。私はいくつ ものUC信仰の根本問題をすでに把握しておりますが、今はまだ公表の時ではないと思 いますので、機が熟すまで 公表しないつもりです。

原理講論、原理解説は劉孝元教会長の著作物でアボジによっ て
裁可されたもの、統一思想が李相軒先生の著作物であるというのと同じスタンスに立って批判克服を試みま す。

教会の問題解決から離れて、バルトがどうだ、ティリヒがどうだと議論するのは無駄なおしゃべりだと思います。

聖書引用については、文献批評がまるで出来ておりません。これは、アボジもオモニにも通じることです。 こんなことでキリスト教会を屈服させるなどという事はとてもできません。

キリスト教側の問題ではなく、UC側 の問題です。責任転嫁をしてはなりません。言っておきますがイエス様は「私はまた 来る」などとは一度も言っていませんよ。


M氏の質問:

鋭いご指摘をどうもありがとうございます。 一つお伺いしたいことがあります。

イエス様は「私はまた来る」などとは一度も言っていない、とのことですが、 マタイによる福音書24章を読みますと、イエス様がまたおいでになるときのことを おっしゃっているようにも 思えます。

これについては、N様はどのようにお考えなのですか?


N牧師:

M様 マタイはマルコを下書きにして書かれた福音書です。使徒マタイはギリシャ語ができませんでしたからマタイの福音書はマタイの名で書かれた福音書です。

更にこの福音書の元になるものにナザレ人福音書と言うヘブル語の福音書がありそのギリシャ語訳であることが今日分かってきています。

恐らくエルサレム教会で使用されていた福音書だと思われます。(尚、ナザレ人福音書の存在は3世紀の教会史家のエウセビオスが「教会史」の中で伝えているだけで現存しているものではありません)。

そして元になったマルコの福音書ですが、これが問題なのです。A.シュヴァイツアーはマルコ福音書の記述を真正なものと考え、イエスは二度神の国の到来の時を誤算したと言いました。

第一回目はヨハネが殉教した時。イエスは弟子をイスラエルの各地に遣わし「天国は近ずいた」と宣教させ、多くの人が悔い改めたが神の国は来なかったと言う。

ショックを受けたイエスは深刻になり、自分が犠牲になった時に神の国は来ると考えエルサレムに向かったが十字架に掛かっても神の国は来なかったと言う(これが二回目)。

私はこれはイエスが間違えたのではなくマルコが間違えたものと考えます。その後マルコはAD70年のローマ軍によるエルサレム総攻撃の時をイエスが語った神の国の到来の時と考えエルサレムで籠城し、他のユダヤ教徒と共に玉砕戦を戦っていたクリスチヤンに神の国が来るからガリラヤに集まれという使信を伝えるために福音書を書いたがそれでも神の国は来なかった。

マタイにある「終末の徴」はマルコの誤った終末論を引き継ぐものです。マルコの終末観は旧約預言者の終末論をそのまま文字通りに受け止めたもので、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は焼き崩れ、その時メシアがラッパの音と共に雲に乗ってやってきて信徒を救うというもの。

この終末論の誤りはイエスが一番良く知っていたはずであるから、イエスがこのような事を言うはずはないのです。従って、これはマルコの編集句、彼の考えをここに書いたものと同定できるのです。


師観の返信 :

ありがとう。おかげで、やっと聖書についても学問的な議論ができるようになりましたね。

シックが反対牧師に捕まり、一緒に聖書を勉強すると90%は落ちてしまいます。

それは原理の観点から見た聖句の解釈しか知らないから、キリスト教の伝統的な解釈や聖書学的な解釈に出会うと自分たちの無知が暴露され落ちてしまうのです。

山崎浩子は2・3日でひっくり返ってしまったという。クワバラクワバラ・・・

ところがそれが良いか悪いかは別として、中には文教主をキリスト教の延長の再臨主かどうかを問題にせず、原理教の教主として受け止めている人はいくら聖書を持ち出して議論を持ちかけられてもかみ合わないので生き残って帰ってくるという。

もともとキリスト,教会は原理・UCをキリスト教とは認めていないので、無理して認めてもらう必要もないでしょう。

無理するとキリスト教会から要らぬ干渉を受けて拉致監禁の中で信仰の放棄か改宗させられてしまうのです。
>
私の場合はキリスト教も含めてこれまでの既存の宗教や思想・哲学に限界を感じていましたので、宗教と科学が統一できる新しい真理が登場し、それがすべての宗教・哲学を統一できる「統一原理」と言われたから、それを聞く気になったのです。

事実、原理にはそのような要素があると思っていますので、原理教で良いのです。ただし、原理の観点から各宗教の教理を解釈する時には聖書批評学のような科学的、学問的な研究成果を踏まえて解釈する必要があるでしょう。

「人間はあくまでも論理的であると同時に、実証的なもの、すなわち科学的なものでなければ、真に認識できないので、結局宗教も科学的でない限り、よく知ってそれから信じるということが不可能となり、宗教の目的を達成することは出来ないという結論に到達するのである」(講論p29)


注目に値するのは文教主と牧師の祈りの違いである。牧師たちは「神に・・してください」と祈るという。これに対して、「文教主は神様の為に・・を復帰して差し上げます」と祈るという。

かって、ケネディは米国民に「アメリカが自分たちに何をしてくれるのかを問うのではなくて自分たちがアメリカの為に何が出来るかを問いなさい」と名演説をしましたが、我々も神に対して何をしてもらうかではなくて何を出来るかを問い、祈るべきでしょう。それ故、牧師の祈りを聞いて、その違いを悟り、改宗されずに帰ってきたシックが結構いるという。

私が今なお原理にとどまっているのは神との距離感です。キリスト教時代は神は遠かったが原理を通して体験した神は実に実感的ななものでした。

臨在感が違うのです。この神の臨在感はUC・家庭連合の組織がなくなっても永遠にのこるものでしょう。

ただし、個人差がありますからシックの全員が神の臨在感が強くて、クリスチャンはそれが希薄だというつもりはありません。

事実、いくら原理を聞いても神を実感できない人はたくさんいます。




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聖和式に参加した感想

私の任地国の元宣教師が聖和された知らせがあったので急遽、聖和式に出席して来ました。

立派な式典ですべてが手際よく進められていきましたが、最後に出棺の直前に仏さん献花する時に数名の姉妹たちが泣いていました。

泣き声は感動の声ではなく悲しそうに聞こえました。不謹慎な話になりますが、私には違和感を覚えるのです。なぜなら、みんな白いなネクタイを付けているからです。

何故旧UC・家庭連合の信徒は葬式だというのに結婚式でも祝うような白いなネクタイを付けるのでしょうか?

原理によれば聖和は誕生と等しく、死んだわけではなく永世の世界で生まれ変わるおめでたい行事だというのです。

だから、悲しい声で泣かれると矛盾を感じるのです。金ウオンピル先生の時には「千の風になって」の曲が流れたという。私も自分の時にはみんなで「千の風になって」の曲を合唱してもらいたいと思っています。

42番の「神共に居まして」の讃美歌は勿論聖和式には合ってはいますが、「千の風になって」の歌詞では逝去した方が[私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 千の風になって大きな空を吹きわたっています」というのです。

さらに、「夜には星になってあなたを見守る」という。これは何も墓の前だけでなく、棺の前でも泣かないでくださいという意味にもなるでしょう。

私が願う聖和式は教会の形式にとらわれず、レクイエムの名曲を私が創設した合唱団が演奏してくれたら素晴らしい聖和コンサートになるだろうと思っています。埋葬は樹木葬ぐらいを望むところです。子孫たちに墓守でやっかいをかけたくないからです。

しかし、聖和にも喜びの聖和と悲しみの聖和があるようです。天寿を全うして霊界に行く聖和は喜びでしょうが、こころざし半ばで病気や事故で幼い子供を残したまま聖和したら、霊人も残された人も喜んでもいられないことでしょう。

その時には黒か灰色のネクタイが良いのかもし知りません。何事も単純には割り切れないようです。


そこで信仰生活についての喜びを考えてみたいものです。

先回投稿の霊界からのメッセージによれば、信憑性はともかくとして文教主は以下のことを言ったという。



私が理解した苦しみ、悲しみの神様が。神様の全貌ではありませんでしたし、人類歴史も、堕落と腐敗に満ちていました。

原理も、聖書も、完璧なものではありません。何を言いたいのかと言うと、悲劇の神様を慰めるよりも、幸せな神様とより一つになって、その映し見になって欲しいのです。

原理を絶対化し、その教えを忠実に学ぶ事を優先するあまり、かえってそれらに押しつぶされて、自分の成長の妨げにならないように、しっかりと篩にかけて、用いて欲しいのです。教理と言うものは、往々にして個人の成長にとって、躓きの原因になるものだからです。

霊界からのメッセージ引用終わり



ここで注目したのは「悲劇の神様を慰めるよりも、幸せな神様とより一つになって、その映し見になって欲しいのです」という言葉です。

時々NHKで宇宙自然界の素晴らしい光景が放映されます。それを見ていると、神の創造の素晴らしさを感じ、その背後に神の偉大さを感じます。

そして人間の崇高本能である真善美聖愛の本性が啓発されます。すると、心が浄化され幸せな神様とより一つになった気分になります。

なので、これからの教会の信徒に対する教育の一環として、美しい自然界に連れて行きそ創造本然の神性を刺激し幸せな神様と一つになる体験をさせることが必要でしょう。

神は時空を超越して存在するがゆえに宇宙自然界にも内在するのです。超越と内在はコインの裏表の関係なのです。日本人にはこの内在の神を拝する霊性があるのです。それが日本文化を形成して来たのです。

それ故、日本文化を八百万の神とバカにしてはいけないのです。


最後にY氏のコメントを紹介して私の投稿を終わります。

ここで注目したのは「悲劇の神様を慰めるよりも、幸せな神様とより一つになって、その映し見になって欲しいのです」という言葉です。

私もロシア時代にドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでこのことに気づかされました。以下のフレーズを紹介します。

「そののち、神はヨブをふたたび立ち直らせ、あらためて富を授けるのだ。ふたたび多くの歳月が流れ、彼にはすでに新しい、別の子供たちがいて、彼はその子供を愛している。

だが、「前の子供たちがいないというのに、前の子供たちを奪われたというのに、どうして新しい子供たちを愛したりできるだろう?どんなに新しい子供たちがかわいいにせよ、その子たちと一緒にいて、はたして以前のように完全に幸福になれるものだろうか?」という気がしたものだ。

だが、それができるのだ、できるのである。古い悲しみは人の世の偉大な神秘によって、しだいに静かな感動の喜びに変わってゆく。沸きたつ若い血潮に代わって、柔和な澄みきった老年が訪れる。

わたしは今も毎日の日の出を祝福しているし、わたしの心は前と同じように朝日に歌いかけてはいるが、それでも今ではもう、むしろ夕日を、夕日の長い斜光を愛し、その斜光とともに、長い祝福された人生の中の、静かな和やかな感動的な思い出を、なつかしい人々の面影を愛している。

わたしの人生は終わりかけている。そのことは自分でも知っているし、その気配もきこえているのだが、残された一日ごとに、地上の自分の生活がもはや新しい、限りない、未知の、だが間近に迫った生活と触れ合おうとしているのを感じ、その予感のために魂は歓喜にふるえ、知性はかがやき、心は喜びに泣いているのだ。」(原卓也訳)




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霊界からのメッセージ

このメッセ-ジは文先生のメッセージだというが、私には文先生のメッセージにしては随分と雰囲気がちがうので鵜飲みするわけには行かない。

しかし、誰のメッセ-ジかは知りませんが言っていることには真理と思われる部分が沢山あります。

誰が言っているかが大切ではなくて、誰であろうと言っていることが真理であるかどうかが最も大切なのです。その意味において一読する価値はあるでしょう。




これは、文鮮明氏が、ある姉妹を通して、2014年の1月から2016年の3月までに、4回に亘って語られた内容の要約です。30ページ近くの内容なので、ここでは、説明が不十分な文章が多い事をお詫びします。


私は、召命されたとき、最高の善の理想を掲げて出発しました。私の理解した神様は、苦しみと悲しみの孤独なお方であり、私は自分が復帰されたアダムであると固く信じて、人類歴史を復帰して、神様をお慰めし、栄光をお返しする事が私の使命であると決意しました。

そのために、自分の肩にとてつもない重い荷物を抱えて歩む事になりました。そして、著名人たちの賛同を得て世界に大きな影響を与えようとし、日本とアメリカに宣教師を送りました。

私が教えた内容は、啓示によって霊界から受けたものに加えて、シャーマニズムや聖書にも通じていたので、ほとんどの解釈は私独自のもので、私なりの青写真を作っていきました。

その内容を、指導者、メンバー、妻や子供たちに理解させようとして、ああせよ、こうせよと命令しました。そして、彼らが私の期待に充分に応えられないと、叱責しました。

子供たちが、自分と共に歩んでくれない現実を受け入れることが出来ず、見て見ぬふりをしました。私の生活は100%公的な立場でしたから、私が理解した範囲での青写真とぴったり合っていたときは良かったのですが、そうでない時には、持ち前の短気で間癪な性格に主管されてしまっていました。

振り返ってみると、私を信じてついてきてくれた妻、子供たち、指導者たちを押しつぶすような事をたくさんしました。

初期の頃は、先生、大先生[英語圏ではマスター]と呼ばれていましたが、もっと人々に確かな影響を与えて、揺り動かすものが欲しかったので、”真の父母”、”真の家庭”と言う理想を掲げたのです。始めは、あまり重きを置いていなかったこの観念が、やがては、最も中心的な価値観になって行きました。

霊界に来てからは、地上では悟れなかった多くのことを知り、学んでいます。

こちらで、神様と真摯に生きている多くの人達に会って、謙虚にさせられました。

例を挙げれば、マザーテレサや、アッシシの聖フランシス達です。彼らは。自分が、聖者の列に加えられる事などには、全く頓着せず、地上でそうであったように、人々に仕えることを最も大切な使命として黙々と働いており、私に多くのことを教えてくれています。

また、まことの宗教とは何かを研究している学者たちとも交流しながら、私が神様に対して誤解していた点を学び矯正しています。

それまで、私は、何にも増して、神様を愛していたと自負していました。それ故に、妻と子供たちをないがしろにしたのだとも思っていました。しかし、“真の家庭“と謳いながら、自分の家族をひとつにするための努力を怠りました。子供たちが私と共に歩んでくれない現実を否認していたのですから。

妻は、私と共に、長年茨の道を歩んでくれ、私のやり方がわからなくても、何時も最善を尽くして協力してくれました。

子供たちは、私自らが養い育てる事をしなかったので、私を自然に慕ったり、愛したり出来ず、父親と同じ道を歩む事も出来ず、お互いを愛し合う事もできないでいます。

このような環境の中で、どうして、彼らが私の言う事を素直に聞くことが出来たでしょうか?私が知った神様は、真の子供たち[人間]が居ない家庭を持った寂しい、嘆きの親でありましたが、妻と私もまた、子供たちの愛を望めない孤立した親になってしまったのです。

子供たちにとって、私という存在は、権威ある怖い父親で、現実的には、金を貰える大事な人でありました。それで、私の死の床に最後の挨拶に来たときも、心から慕ってきたのではなく、義務感でそうしたのでした。

これは、とても悲しい現実でした。そういう彼らを、地上では、責めもしましたが、今は、それをしません。彼らが、私の作った青写真に従うのではなく、一人ひとりに神が与えておられる青写真を発見していくことの大切さを悟ったからです。

私が何時も語り、夢見た天国は、未だに、外的な形だけがあって、中身は空っぽです。心から笑い、喜んで、幸せに満ちて、天国作りをしているべき子供たちが、其処には居ないのです。

妻は、今もなお、全く淋しい孤独の只中に居ます。ですから、私の死が近いことを知った時、一番気がかりだったのは、彼女をそういう環境の中に一人だけにして置いてゆく事でした。

私と妻の為に皆さんが備えてくれた王座は、こちらでは、何の意味も持っていません。神様にとっても、それは意義あるものではありません。

私は、大きな船の船長でもなければ、ある教会の頭でもありません。ごく普通の人間なのです。生前私と共に働いてくれた人達にも、こちらで自動的にそうしてくれと言うつもりはありません。

一人ひとり自分の道を選んで生きて欲しいし、実際にそうしているのです。勿論、彼らが、献身的に尽くし、築いてくれたものは、決して忘れられる事はありません。

私たち夫婦は、子供たち、指導者たち、メンバーたちに、忠誠を求め、一体化せよと要求しました。しかしそれによって、彼らをより近くに引き寄せるよりも、むしろ追いやり、追い出す事になってしまいました。

こういう私たちの家庭の現状を見て、教訓を学んだ子供たち、又、メンバーたちが、自分の子供たちを心から愛して、心情的な家庭を作っているのを見て。嬉しく、誇らしく思います。

こちらには、本質的には、ある定まった教えと言うものはありません。言い方を代えれば、こちらでの教えは、地上のそれとは異なったものです。

私が理解した苦しみ、悲しみの神様が。神様の全貌ではありませんでしたし、人類歴史も、堕落と腐敗に満ちていました。原理も、聖書も、完璧なものではありません。

何を言いたいのかと言うと、悲劇の神様を慰めるよりも、幸せな神様とより一つになって、その映し見になって欲しいのです。

原理を絶対化し、その教えを忠実に学ぶ事を優先するあまり、かえってそれらに押しつぶされて、自分の成長の妨げにならないように、しっかりと篩にかけて、用いて欲しいのです。教理と言うものは、往々にして個人の成長にとって、躓きの原因になるものだからです。

私は、ある基準に達した人だけが、神様と直接交流できると教えましたが、では、具体的にどうしたら其処に到達できるのか、教えませんでした。実は、私自身にその経験が無く、ただ理想を述べる事しかできなかったからです。

それでは、神様にとっての王座とは何でしょうか?それは、一人ひとりの内で起こる神様の光との一体化です、そして、それは、上から命令されて、作られるものではありません。

神様が一人ひとりに下さっている”青写真”が有ることを学ぶにつれて、私のそれまでのやり方が、如何に多くの人々の個人的、かつ、個性的な成長を妨げた事か知らされ、心痛く反省しています。

“人類歴史の復帰”と言う事を強調し、“公式路程”を教え、会員と金を集めよと要求しましたが、それらは主に統一運動の為であって、個人を尊んで、その創造性を促すものではなかったのでした。協会と言う組織を築く為に力を注いだのであって、神との関係に於いての個人の成長を支援するものではなかったのでした。

これらのことを認識すればするほど、地上の皆さんと交流したいと願い、協力してくれる人を探しましたが、なかなか見つからず、ようやく、自分の正直な心情を吐露できる媒介者を見つけました。それが、この姉妹です。

勿論、人によって、いろいろな反応があるでしょう。”これはお父様のメッセージではない!”、、“神ではなく、サタンが惑わして言わせているのだ!”などなど。あなた方にとっては、私が語っているようには思えなくても、私にとっては、この人が最もふさわしい人なのです。

私の地上での人生は、祈りに始まり、祈りで終わりましたから、神の光を体験し、神と交流する生活の大切さを誰よりも知っていると思っていました。

しかし、皆さんに向かって、一人ひとりが神との関係を築いていくべきだと言う、最も基本的、かつ、重要な点において、命令する形で教えたので、成長を励ますよりも妨げる事をしてしまったのでした。このようにして、皆さんの人生に大きな穴を開けてしまいました。本当にすまなく思い、許しを請うものです。

皆さんに心得ておいて欲しい事は、たとえどんなに優れた宗教的、精神的指導者でも、又は、他の誰でも、あなたと言う人の価値を規定する事はできないと言う事です。あなたは、神の愛と光を個性的に表現できる価値ある人間なのです。

真の自己を探して欲しい。これが私が皆さんに最も伝えたい事です。

自分を見つめ、反省する事の大切さを知ってください。自分の長所を知って、それを伸ばしてください。自己中心の欲を捨てて、献身的に、親切に、人に尽くして、愛し許しあってください。

神の光を輝かすあなたになりますように。間違いを犯しはしないかと恐れずに、あなたの内なる光を発信してください。皆さんがもっと自分の神聖を顕す事ができるように、激励しましょう。どうか人生に希望を持ってください。

あなたが、今までと同じ活動を続けるとしても、会員と金を集める為にではなく、心から人に奉仕する態度で、自分の信仰の枠をはるかに超えて、働いて欲しいと願っています。地上でも霊界でも大切な事は、愛のエネルギーで、それこそが、一人ひとりを神の光で満たす事を可能にしてくれるのです。

祝福について言えば、それが、神を中心とした男女の聖なる一体化であり、それを目指すものであると言う理想に変わりはありませんが、それは先ず、自己の中の神から与えられている神性との一体化から、出発するべきなのです。その神性を自覚し、敬い、育てる事が、真の謙虚さと言う事なのです。

私は、国際祝福を通して、全世界を調和あるものにしたいという願いを持っていたのです。

ところで、この祝福と言う言葉は、名詞ではなく、動詞として把握して欲しいのです。つまり、様々なよい意図を持って行動し、祝福しあうと言う事です。

そこには、悔い改めや、許しあうことも含まれていますし、神の似姿として人が持っている個性を賛美する[祝福する]こともそこに入っています。

私は頻繁に、霊界と地上界との一体化、を唱えましたが、それはこうしたごく簡単な行為や意図でもって築かれていくのです。どうか私と共に多くの人々を祝福していきましょう。

[ちなみに、祝福を与えると言う事は、どれだけの人にそうしたかと数を誇ったり、自分の教団のほうがもっと勝っていると誇ったりする事では決してありません]

貴方が、それこそ呪いたくなるような人々に会ったとしても、”神よ、彼らを許してください。彼らは何をしているか分らないのです。“と十字架上で言われたイエス様の言葉を思い出してください。

その”許し”と言う言葉を”祝福“に代えてみてください。不満や恨みをぶつけたい人にも,”祝福”することが出来れば、その人を高める事ができて、いつの日か彼に回心の経験が起こるかもしれないのです。

地上から霊界に来ると言うのは。長い冬に来ていた重いコートを脱いで、春の暖かな陽光を浴びるようなものです。私は皆さんに“とうげん”という重いコートを着せて歩かせてしまいました。

ここにキリストのような指導者がいて、皆さんに伝えたいメッセージがあるとすれば、それは“あなた自身に目覚め、光の存在になりなさい。”と言う事でしょう。

それが、個人としてのあなたの使命なのです。たとえそれが、たった一人の魂を良く変えることが出来た、と言う事であっても。それなのに、私は地上でそれをもっと重視して語ることをしませんでした。

どうか、霊界に来る前に、真の自分を発見できるように努力してください。私の失敗の教訓から学んでください。それが、私が何万語語るよりも、祈ったり、万歳と叫ぶよりももっと大事な事なのです。

霊界では、霊の体の成長のために永遠と言う時間を使っていくのですから。神様があなたの中にいらっしゃる事、常に神様と共にあることを知ってください。そしてそれがあなたの喜びになっていきますように。(神様は、あなたが伝道する為に、人を回心させる為にだけいらっしゃるのではありません。)

ところで、霊界であなたが見ることが出来るのは、あなたの鏡に映った姿だけです。あなたの全て、良い事も、人に知られたくないような悪い事も、みんな現れるのです。

繰り返しますが、この世でもあの世でも、一番大切なものは、愛です。罪ある自分の血統を変えるために必要だとされた復帰の条件、ある数値を満たす為の献金、如何に多くの人に祝福を与えたかの成果、などよりももっと大切なものが、愛です。もうこれからは、兵士の精神ではなく心情の成長を強く願わなければなりません。

あなたは、この地上に生まれる前から目的を持っていたあるユニークなメロデイなのです。真の自分に忠実でありなさい。そして、自分の個性にあった救いの歌を作って謳いなさい。

誰でも悟りを開く事ができるのです。幾重もある信仰の衣を脱いで、あなたの内なる光に向かって歩みだすべきです。これが、真の”公式路程”なのですから。それを、生前に教える事ができなかった事を悔いています。

さあ、あなたの歌を歌って、人を祝福し、他の人の歌を聞いて祝福を受けましょう。

最後に、今起きている争いや、分裂の現状に、どう対処しましょうか?私の心は、苦悶と悲しみに満ちていて、とても重いのです。

私の理想は、確かに気高く善なるものとしてスタートしましたが、神のためにより偉大になりたいと願ってとった私の歩みの中で、何かが失われていったのです。

力[権力]と言うものは、光と善を広めていく為に使うことができる反面、使い方を間違えば、脱線させたり破壊を招くものになってしまうのです。深く反省させられている事です。

私は今自分に関する事で、成し遂げなければならないことが沢山あるのですが、自分を許すことを学びながら、少しずつ前に進んでいます。

このように語ったからと言って、既にしっかりしたある内部構造が出来ている私たちのような団体を、たとえ良い変化を約束できることでも、一夜にして変える事は難しいのです。

お母様が今やっている事も、彼女の眼から見て全体の為になっていると信じているので、私が願っているような方向にすぐに変わることは期待できないでしょう。

とにかく、どのグループに属するか、どの指導者についていくか、他の宗教団体と比較して優劣を議論したりするのは、今すぐ止めてください。

先ず、あなたの魂を祝福する事から始めてください。




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聖書から学ぶこと

先日、原理に精通している牧師の聖書研究会に参加してみたが随分と学ぶものがありましたので紹介いたします。

ご存知のようにイエスの家系図がマタイとルカではかなり違うのです。

マタイではイエスの家系図にわけありのいかがわしい女性が4人も出てきます。なぜでしょうか?

それはイエスの父が誰か分からないスキャンダルの矛先をイエスから家系図の方に向ける意図があったからだという。

しかし、ルカにはそれはないのです。さらに、聖霊によって身ごもるという表現は聖書にはよくある表現である。

サムソンも洗礼ヨハネも母の胎内から聖別されて生まれたと書かれている。

 旧約聖書はダビデ王朝時代にエルサレム神殿で生活をしていた学僧によって編纂されたが、その時に優先しなければならなかったのはダビデの家系であった。その時にユダとタマルの話を入れたのである。

最も古いメシアについての言及と考えられるのは、創世記49/8―12にある。そこに記されている預言によれば、”シロ”と呼ばれる人物が現れ、諸国民は彼に従い、彼はダビデ王時代をしのぐ繁栄と平和をもたらすというのである。

「ユダよ、あなたはきょうだいたちに称えられる。・・・王笏はユダから離れず統治の杖は足の間から離れない。

ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」というのであるが、シロとは北イスラエルの首都であり、これはシロで生活していた学僧たちによて付け加えれた聖句であるという。要するに、北イスラエルのシロは南ユダのエルサレムに負けない王国になるという。

このように聖書というものは政治的背景が色濃く反映されるのである。したがって、聖書の一点一画を神の啓示と信じ込むのはおめでたい人たちということになる。

 聖書学によると、マルコは60年代に書かれ、マタイとルカは80年代と言われている。マルコによるとイエスはヨハネから洗礼と受けると聖霊が鳩のように下ってきて、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という啓示を受けた時からメシアになったという。

しかし、信徒や人々からそれまでの間イエスは何をしていたのかという疑問が出て来たので、マタイはイエスは生まれながらにメシアであると言うためにイエスの家系図を書くことになった。

アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンまで14代、バビロンからキリストまで14代であるというが、アブラハムからダビデまでは役1000年もあるが14代では代が少なすぎる。

至近な例として徳川家の江戸幕府を挙げると15代で265年くらいである。さらに、ダビデからバビロンまでは22人の王がいましたが14代では8人も抜けている。

イエスがダビデ王の直系であるような印象で書かれてはいるが王の直系がどうしてガリラヤという貧しい地方に住む大工の息子なのかという問題が出てくる。

なので、大変ずさんな系図ということになる。これに対してルカの系図はダビデからイエスまでが全く違う。ラケルの子女であるヨセフはイスラエル民族にとっては重要な人物である。

ルカにはそのヨセフが系図に出てくるので、ルカの系図はまだ信憑性があるという。

この家系図の問題は教会を二分するほど問題になったので、パウロはテモテの手紙で「作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。(1/4)」と警告をしている。

100年代に書かれたヨハネを見ると、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。この言葉は初めに神と共にあった(1/1-2)」とあり、「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた(18/14)」というようにイエスは神の中に初めからロゴスとして存在していたというのである。

ここまで言い切ってしまうと、イエスの系図論争をする必要がなくなってくるのである。これがかの有名なロゴスキリスト論である。



この論争は他人事ではなく、文家の家系が無原罪の独生子を生み出したのか、それとも韓家の家系が無原罪の独子女を生み出したのかという論争につながっていくのである。

そこで文教主も韓鶴子女史もロゴスとして初めから神と共に存在していたと説くと家系図論争は不必要となる。

ロゴスキリスト論はこの時代に突然出てきたものではない。創世記の文頭に、「神は言われた。”光あれ” こうして、光があった」という。

このように、神は自分に似せて言葉によって人間を含めた万物を創造したのである。するとイエスだけがロゴスとして存在したのではなく、すべての人間は神のロゴスによって存在したことになる。

それ故、人間は神に似た神性を持って生まれたのである。釈尊はその神性(仏性)を自力で立派に開花し覚醒させた人物である。そして誰でも同じように修行をすれば正覚者(仏陀)になれる道を教えたのである。



文教主も「メシアとは、思いを尽くし、心を尽くし、魂を尽くして、地上に神のみ旨を成そうとする人のことを言う。私もメシアになろうとしているし、あなたもメシアにならなくてはならない」という万民メシア説を説いたのである。

したがって、今は血統中心主義を卒業して神から再出発する時である。



注:釈尊は神が分からなかったというが「良心は神よりも偉大である」となると、問題にはならなくなる。むしろ神を信じて宗教戦争を引き起こすことの方がはるかに問題となる。

特に、自分だけが真理であり道であり、自分を通さずは誰も救われないなどと説くと宗教的帝国主義に陥る。




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原理研究

私共が献身した頃には、原理研究を盛んにやったものでした。当時は学生運動が盛んであったので唯心論か唯物論かという問題意識は強かったのです。

それ故、マルクス主義に傾斜していた学生も沢山伝道さて来て、何が真理なのかという議論は盛んであり、原理研究も盛んであったのです。

今日では旧UCは三分裂し、どちらの言い分が真理なのかという問題意識を持つ人も出てきてもう一度原点に返って原理研究を初めから見直しする会があちこちで開かれています。

今日はその中から興味深い研究発表がありましたので紹介します。



原理講論によると、蕩減条件の立て方は堕落の経路と逆の経路をたどりながらる復帰する条件であるという。(P276)

血統転換は堕落の経路と逆の経路をたどるというので、堕落は天使長からエバへ、エバからアダムへと性関係を通してなされたので復帰はその逆の経路をたどるという。

イエスの誕生の秘話については、堕落はアダムとエバが婚約中に天使長がセックスによってエバを奪ったので、それを蕩減復帰するためにはマリアとヨセフが婚約中に神側の立場の人物、ザカリアがマリアと関係を持って無原罪のイエスを誕生せしめるということになる。これを祝福家庭の三日行事の時には象徴的に執り行われるのです。

朴正華のフンナムで文教主から教えられたという証しによれば六マリアは人妻でなければならないという。言い換えると、堕落は不倫によって起きたのだから、復帰は逆不倫によってなされるというのです。

しかし、この復帰の仕方については原理研究者たち,特にクリスチャンは疑問を抱くのです。

サタンが不倫したからといって、神も不倫し返すとしたら神もサタンとあまり変わらない存在になってしまうというのです。

殴られたから殴り返す、殺されたら殺し返す、盗まれたら盗み返すでは「恩讐を愛せよ」ではなくなってしまうというのです。

事実、全体蕩減というみ言葉のなかに、次のように書かれています:

「わし(サタン)は堕落して、こういう悪い者になったんだけれど、君(神)は、善なる者は変わったりするような、わしに似たような方法をとることはできないじゃないの。

わしは喧嘩好きになっても、君は喧嘩好きになったらいけないじゃないの。ぶたれても黙っていなければならないじゃないの」と言うんだよ。



さらなる問題点の一つとして、アベル・カインの関係があべこべになっているという。講論では、カインはアベルを愛し、仲保とし、従順屈服し、善を繁殖するとなっているがこれは逆ではないのかというのです。

なぜなら、カインは天使長代表した表示体だから、堕落の責任は天使ではなくアダムの方にはるかにあるので、アダムの表示体であるアベルこそ兄であるカインを愛し、使え侍って敬愛されなばならないというのです。

事実、ヤコブは兄のエソウを愛し、万物を捧げ、使え侍って和解を勝ち取ったのです。神の祝福を受けた者こそ、祝福を受けられずに寂しく思っている者を気遣うのが礼儀であるという。


第二アダムであるイエスは「私は使えられるために来たのではなく、使えるために来たと」と言いましたがその通りでしょう。

我々は「主の祈り」のように”天にまします我らの父よ”と祈りますが神はイエスの中に住み、イエスと一緒に人々に仕えているというのです。

万物よりももっと下にいてすべてを支えている神に出会ったことがあります。その時にはさすがに泣けてきました。事実、文教主のみ言葉の中にも縦横8段階の僕の僕から侍ってカイン圏から同情と尊敬と祝福の言葉をもらって来いというみ言葉があります。

それ故、カインはアベルを愛し、仲保とし、従順屈服し、善を繁殖するというのはまるで儒教原理主義から来た解釈のようにすら思えます。



参照(全体蕩減のみことば): 

サタンは今何をねらっているか? 神様をちゃーんとねらっている。「神様が神様になるためには、永遠なるその理想の基準を永遠に保つお方でなければなりません」。

それを神様に言ったら神様は、「それはそうだよ」と言うんだよ。サタンは言うよ。「神様、わしをそもそも天使長として立たせた時には、一時的に愛するために立たせたか、永遠の愛のために立たせたか」。

神様困るよ。どう答える? (永遠に愛するためです)。一時的に愛するためにやったとしたら一時的神様だ。永遠に愛するという基準をもたなければ、サタンの前に神様の権限を押し出すことができない。

だから、神様が神様になるには、サタンがいかなる世界をかけて反対しても神は神でなければならない。神様が愛した条件基盤を強要した場合には落第だ。大変なことだね。

「わし(サタン)は堕落して、こういう悪い者になったんだけれど、君(神)は、善なる者は変わったりするような、わしに似たような方法をとることはできないじゃないの。

わしは喧嘩好きになっても、君は喧嘩好きになったらいけないじゃないの。ぶたれても黙っていなければならないじゃないの」と言うんだよ。無抵抗主義だね。

それはなぜか。世界に天国理想、悲願の世界を果たすまで、いかにつらい立場においても天使を愛すべきなのが、神の理想ではありませんか。

神は、サタン圏内において暴れ回るといっても、罰するとか切ってしまうことはできません。どこにおいても愛したという基準を立て、サタン自体が、「ああ、実に神様は神様である。参りました」と告白しない以上は、神様は権限を振るうことができない。それが問題だ。分かりました? 

その問題で神様は紐{ひも}で縛られている。どうにもならない。だから、天国に行くには、サタンが試験してみる。

神みたいに神の子たる者は天国に行くようになっているから、神様がそういうような立場に立って、サタンを愛によって屈服させていかなければならない基準をとっているとするならば、神の子供としては、その道を行くのが正義の道であり、伝統的親から受け継いだ子供の行く道である。ちゃんと理論的である。(全体蕩減より)




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