若い二世たちへの今の混沌状態の説明について(いつも神と共に歩む)




あるMLに次のような質問がありました:


皆様は、若い二世に対して、今の教会内の混沌状況をどのように説明していますか?または、説明すれば良いと思いますか?様々な立場(や分派)からの説明があるがあると思いますが、個人的な見解で構わないのでご教示下さい。対象者は、二世の中高大学生(ティーンエイジャー)です。



これに対する師観のコメント:

・これは参考になるかどうかは知りませんが、私の家庭では3人の子女がいて、それぞれ国際祝福を受け家庭を持っていますが、誰も教会には行っていません。教会に行っても献金の話ばかりで、魂が復興しないのです。

なので、全く行かなくなりました。それどころかUCには全く関心がないのです。したがって、何の影響も受けないのです。3人とも生活するのに精一杯のようです。

それで、信仰を失ってしまったかと思っていましたら、神様を大変愛していました。いつも神と共に歩んでいるという。

そういえば、「み旨の道」に信仰とは神と一体化するまでは必要ですが、一体化したら必要では無くなるというみ言葉があったのを思い出しました。

彼らが言うには仕事そのものが、修行であり、神と共に歩む業だという。この言葉はどこかで聞いたことがあります。

私が座禅の修行をしていた時に、自分自身が大宇宙の生命そのものであるという宗教体験をしたことがあります。その境地で立ち上がると立禅になり、歩くと歩禅になり、仕事すると仕事禅になり、勉強をすると勉強禅になり、食べると食禅、寝ると寝禅になります。

生活の一挙手一投足が禅であり、祈りであり、信仰生活なのです。そこで、彼らは私が数年かけてやっとたどり着いた境地をもう体得しているのだろうか?と不思議に思っているのです。

アボジはよくUCの目的は宗教を必要としないところまで復帰することだと言っていましたが、それは本当です。彼らは教会が要らないのです。

したがって、UCの卒業生です。しかし、それが祝福の子女だからそのようになったのかは定かではありません。

・多分、一世がみ旨の為に生きてきた、「為に生きる生活」を見ているので、神と共に生きることが自然なのでしょう。

彼らが「光の子幼稚園」から小学校に行った時に、カルチャショックを受けて帰って来ました。神も真の父母も、祈りもないというのです。

幸いに、帰ってきたら同じアパ-トに祝福家庭が9家庭、教育部の寮として住んでいましたので、小学校から高校までに信仰生活の基本が身についたようです。

したがって、彼らには祝福の子女以外の人々と結婚すると言う考えは無いのです。

全員祝福を受けてから、かって富士山に彼らと一緒に登りましたが、同じバスに乗っていた人々が、我々を不思議そうに見ていました。

彼らは争って私のリックやその他の手荷物を持って歩くものですから、一体あなた方は何者ですか?というのです。うちの子供は私に向かってババ、死ね!と罵倒を浴びせるのに、あなた方は全然違うと言うのです。

私の長男の嫁は韓国人、長女の婿はアメリカ人、次女の婿はアフリカ人です。見かけは皆他人の顔をしているのに、実際の家族より家族的で仲がよいのはどうしてですかというのです。

・どんな共同体でもその集団が持っているエ-トスを感じさます。エ-トスとは社会集団・民族などを特徴づける気風・習慣・習俗などを意味しますが、この場合、祝福の家族とそのオーラに含まれる道徳的・倫理的・理性的・情操的な気品を意味します。

そして、この気品というのは、人間と人間の生きた係り方、触れ合いにおいて展開される他者の為に生きると言う「我」と「汝」の出会いを言うのです。

それは祝福家庭同士の「我」と「汝」の出会いであり、係りです。さらには、彼らの係り、すなわち、美しい人間関係という作品を通しての他の乗客との「我」と「汝」の出会いでもあるのです。

このバスは貸し切りバスで我々も含めた乗客全員がパッケ-ジで行きも帰りも同じバス、登山も、宿も同じなのです。

イエスは私を見た者は神を見た者なり、と言いましたが、祝福家庭の交わり、人間関係を見た者は神を見た者と言いたいところです。

このよう家庭は私共の家庭だけではなく、他にも沢山あることと思います。

しかし、そのような家庭はUCの祝福家庭に限らず、他の宗教団体やキブツやそれに類する共同体の中にも沢山ありますので、我々はもっともっと謙虚にならなければなりません。

バスの乗客の数人はその後、原理を聞いて、私のホームチャーチの基台になっています。

私共の神氏族メシア共同体はエクレシアではありません。コイノニアなのです。

エクレシアは教会という意味に訳されていますが、縦組織なのです。UC・FFでは総会長、会長、教区長、教会長などというようなトップダウンの命令組織です。

コイノニアは信徒の交わりという意味で、2人又は3人の信徒が心を合わせて祈ると神が働くという聖句が根拠になっています。ここには言論の自由が満ちあるれています。何でも仲良く話し合いで決めるのです。

私は会長ではなくただの世話役です。僕の僕です。私共が立ち上げたハレルヤコ-ラス合唱団も、とてもat homeです。

みんな家族みたいだと言ってくれます。ハレルヤファミリ-なのです。昨年の演奏会には500名の会場に満席に近い観客が来て下さいましたが、そこには数人のシックも来てくれました。絶賛しくれましたので、そこそこ感動するものがあったのでしょう。参考になれば幸いです。



UCが韓国至上主義の階級社会を作のではなく、本当の意味での神を中心とした信徒の交わり(コイノニア)のような団体になってほしいなと思われた方はクリックお願いします。
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人間が個性を完成し、三大祝福を全うして理想世界を築いてこそ、初めて神の理想が実現される




あるMLで次のような質問がありました:


総序が言う「幸福」とは「絶対的幸福」ということでしょう。仏教関連の入門書を読むと、「相対的幸福」「絶対的幸福」という概念が出てきます。

極論すれば、「絶対的幸福」に対する無知ゆえに、「幸福=相対的幸福」に執着するあまり、個人も幸福になれないし、全体も理想世界になれないということでしょう。

神の心情、実相、真の愛、を正しく知ることは、「絶対的幸福」の真価を知覚することになるでしょう。

統一運動とは、覚醒運動であり、人々の人生観、価値観を絶対基準へと変革しうるものでなければなりません。

統一運動=伝道 とも言えますが、「真の伝道」の背後に「偽の伝道」が見え隠れしているようでは、要諦を失することになってしまいます。

世に対して「平準化」「平和」を説く前に、内部において範をなすべきでしょう。



これに対する師観のコメント:

・本質的なテ-マを投稿してくれて有難う。

以前にも投稿しましたが、モ-セが神に、あなたは誰ですか?と問うたら、神は「私は在りて在る者」と答えました。

しかし、この聖句を研究してきたヘブライ大学の聖書学者は、ヘブライ語の原語から「私は在りて在ろうとする者」と言う意味だと言う。あろうとする者とはbecoming Godということです。これは神は未だ神になっていないと言うことです。

すなわち、進行形なのです。神学的進化論はここから出て来ます。双曲線のように無限にゼロに近づきますが、ゼロには成らないのです。

だから、永遠の進化なのです。しかし、ここから、瞬間の中に永遠の価値を自覚するという認識が生まれてくるのです。

・原理の観点では、親なる神は子なる人間が完成して初めて完成するというこになるのでしょう。

人間が個性を完成し、三大祝福を全うして理想世界を築いてこそ、初めて神の理想が実現され、同時に人間の理想世界も実現することになるのでしょう。

ところで、個性完成とはどのような状態なのでしょうか?私は自分が完成したと思った瞬間に完成で無くなると思います。なぜなら、そこで進歩が止まってしまうからです。神が永遠に進歩する存在なら、人間も同じなのでしょう。

あらゆるスポ-ツでも技能でも頂点を極めたと思ったら、進歩は止まってしまうのです。したがって、個性完成とは今だ完成には至っていないと思い、謙虚になって前進することだと思います。なぜなら、神様自身がそうような謙虚なお方だからです。

・誰々は神の化身だとか、実体だ!と、どこの教祖も主張し、信徒から絶対視されますが、聖書は神以外のものを崇めてはならないという。

これはUC・FFも例外ではないでしょう。「真の家庭」とは目指すべき人類の理想であって、文家が「真の家庭」になった訳では無かったのです。

実態は陰謀という偽りで、草束事件を引き起こし、金孝南が受けてもいないものを彼女が受けた啓示だとして、自分たちが捏造した人事発令書を読み上げる。これでは真の家庭ではなく偽りの家庭になってしまうでしょう。

このような事件は韓ドラで見られるような韓国社会の文化と歴史に過ぎません。これは、韓国では「理想世界を語るのは易しいが実現するのは至難の業である」ことを物語っています。

しかし、日本ではどうでしょうか?私は日本では「理想世界」を完全ではないにしてもかなり近い所まで実現できると思います。

万民一家族の形態が理想世界と言うのなら、イスラエルのキブツを初め、日本のいたるところにcommunityの次元でなら存在しています。私が献身した頃はUCもそのような形態をとっていたのです。

・国家的次元なら、揺り篭から墓場までと言われたイギリスやヨ-ロッパの社会福祉国家には万民一家族の形態は存在していると
思います。

日本もそれに近いでしょう。与党も野党も国民に奉仕するため必死です。おかげで国債を発行しすぎて沈みかけている程です。外的には天国です。内的には神を知った喜びを伝え、その喜びを分かち合うことです。それが真の伝道でしょう。

偽りの伝道とは献金ノルマの為に人を伝道することです。ここでは人間自身が目的ではなく、手段になっているのです。

クワバラ、クワバラ・




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アボジは人類全体のメシヤ(UCが人類に受け入れられる為には)




メシヤとは誰のメシヤでしょうか。食口だけのメシヤですか、それとも全人類のメシヤでしょうか。

講論の総序には「知ると言うことは、即ち、認識すると言うことを意味するのであるが、人間は、あくまでも論理的であると同時に、実証的なもの、即ち科学的なものでなければ、真に認識すると言うことはできないから、結局、宗教も科学的なものでない限り、よく知ってそれから信じると言うことが不可能になり、宗教の目的を達成することはできないという結論に到達する」と書いてあります。

本当に原理がこのような真理であれば全人類は納得するでしょう。そして、それを解き明かしたメシヤは人類のメシヤとして受け入れられるでしょう。

然るに、もしアボジの語るみ言が史実に反したとなると、人類から批判を受けることになるでしょう。要するに、神であろうと、サタンであろうと、あるいはメシヤであろうと、その語る言葉が論理的であると同時に、実証的なもの、即ち科学的なものでなければ人類は受け入れないことになります。

これはアボジであろうとも例外ではないのです。ところが、食口はアボジが語る言葉は何もかも真理だと信じ込んでいます。すると、人類から見るとマインドコントロ-ルされた狂信的な団体に見えるのです。

いったん、信じ込んだら最後、どこかで、論理的であると同時に、実証的なもの、即ち科学的な認識作業が止まってしまうのです。

そして、後はただ「イエス、イエス、イエス」のイエスマンになり、絶対服従人間にんなってしまうのです。そして、そのような人間がゆわいる信仰的な人間と思われてしまうのです。

メシヤが食口だけのメシヤならそれどもいいかもしれませんが、人類のメシヤともなるとそうもいきません。人類というからには他宗教の人もいれば、被害者弁連もいれば、反対牧師も入ります。彼らは目を光らせて、少しでもアボジの言葉に矛盾があれば批判して来ます。

だから、対策を担当するものはアボジの言葉に敏感になります。全人類に当てはまる普遍的な言葉を選ぶようになるのです。

恐ろしいのは言葉と実態が伴わない時です。これは人類の批判の対象に曝されます。しかるに、食口は人類が実態を求めているのにまるで闘牛士のようにヒラリと体をかわしてみ言を聞いてちょうだい、と言って修練会に誘います。

しかし、人類はそれにそう易々と引っかからないのです。逆に、実態の伴わないみ言はまるでアヘンではないかといってすごんできます。

だから、マルクスに宗教はアヘンだと言われてしまうのです。それゆえ、我々は実態から目をそらしてみ言の世界に陶酔しているわけにはいかないのです。

実態には一切言及せず、み言にはこのように書いてあるだけを唱えているとUCはアヘンであるといわれてしまうかもしれません。




マルクスにUCはアヘンだと言われることのない、善なる実体のともなったUCになってほしいなと思われた方はクリックお願いします。
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中世暗黒時代とアベルの絶対化(本当の意味でアベルがカインを愛し、真の愛に満ちた組織になってほしい)



ヨーロッパの中世時代はキリスト教王国時代の全盛期であった。したがって、これを英語ではChristendomという。

しかし、残念ながら、これは神の国ではなかった。人々はこの時代を中世暗黒時代と呼んでいる。

それでは、何故、キリスト教が支配したにもかかわらず、人間の内的、外的本性を抑圧する暗黒時代になってしまったのであろうか。

答えは簡単である。相対的な被造物である不完全な人間を絶対化してしまったからである。そのやり方は、イエスは人間の体を
まとった神であり、法王はその代身なので、無謬であり、絶対である。

したがって、その下にある司教は法王の代身であり、絶対である。そして、その代身である司祭(神父)も同様に絶対であると言うのである。このようにして、カトリックという組織と制度を絶対化して行くのである。

残念ながら、そのような組織も制度も人間が作ったものである。しかし、神の名によってそれを作ると、それ自体が絶対化されていくのである。

幸いに、モーセの十戒は神以外のいかなるものも絶対化することを偶像礼拝として固く禁じている。

原理講論も「神は絶対者でありながら、相対的な二性性相の中和的存在であられるので、・・・」(P77)と、記述している。
これは神の中にも絶対性と相対性を内包していることを示唆している。したがって、神の被造物は相対性の世界として展開されたことになる。

そして、神の相対性までも絶対化すると偶像礼拝となる。それゆえ、UCに於いても中心者の数だけ、神の相対性は展開されることになる。

問題は、各々の中心者が自分がメシヤの代身であり、メシヤは神の代身であるので、自分は神の代身であると宣言し、信徒に命令をするようになってしまうと、日本の軍国主義と似たものになって来る。

すなわち、「上官の命令は天皇の命令なり」というのと酷似したものになる。その結果、中世暗黒時代と同じような世界になって来る。それゆえ、心しなければならない問題である。

今や、子女様たちが様々な問題を引き起こし、一見、希望を失わせるような状況には見えるが、見方によっては神が敢えて相対的存在である人間を誰であろうとも絶対化してはいけないことを啓示しているのかも知れない。そうすると、それはそれで意義深いことになる。



UC、特に日本UCにおけるアベル絶対化の中世暗黒時代のような組織が、本当の意味でアベルがカインを愛し、真の愛に満ちた組織に変わってほしいなと思われた方は、クリックお願いします。
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信仰深い人の落とし穴(アボジの偉大な不信仰さ)




あるMLで以下のようなやり取りがありましたので、それを紹介しながら本論に入りたいと思います。

私のコメント:

・妻がもの凄いバリ教で、夫は現実的で、 借金生活にはうんざりしている信徒が沢山います。ここに不和が生じます。

それに対するある人のコメント:

上記は我が家庭に当てはまります。現実的な夫は、この事態に、どのように対応しているのでしょうか?

私が何を言っても絶対信仰のある妻には通じません。妻は現状を見ながらも「何か深い理由があるに違いない」と盲目的信仰を継続しています。どうすれば良いのか途方に暮れている状態です。


それに対する私のコメント:

一般に信仰の深い人のことを敬虔な信仰者と言うことになり、これは美徳です。

しかし、ここに落とし穴があります。仮に、アボジが今の韓国が神の国だ!といったら、信仰深い人はアボジを絶対化していますから、その通り信じるでしょう。

その人は韓国がアボジをメシアとして受け入れず、投獄した失敗した国であっても、理性的にそのことを考えられないのです。

今度は私は韓国人リ-ダだ、だから、アボジの代身だ、といえばその人が元青葉台の教会長のペ-氏であっても、本当にその人を崇めるのです。

次に、試しに、アボジが北朝鮮が神の国だといえば、アボジが言ったのだから、そうに違いないと信じるのです。

更に、アボジは竹島も、対馬も、九州もいや、日本そのものが韓国のものだ、と言ったら、どうでしょうか。やはり、信じるでしょう。

信仰とは恐ろしいものです。理性を超えてしまうので、盲目的になるのです。

家庭連合はTMはアボジと霊的に一体だから、TMの言われることはアボジの言われたことだ、と言うことで、独生女であろうが、国歌を変えようが、自分に都合の悪いみ言葉を改竄しょうが、家庭盟誓を変えようが、それに従うのが信仰だと思い込むのです。

ちなみに、妄信的でアベルに忠実な人と言えば、ヒットラ-に忠誠を尽くしたアイヒマンを挙げることが出来るでしょう。

彼は極めて残虐な方法で、600万人のユダヤ人を虐殺しましたが、国際法廷では、自分はヒットラ-の命令に従っただけで、終始、無罪であることを主張したのです。

そんな訳で、彼はアベルに対して真に信仰深い人でした。

ところで、アボジの偉大さは何でしょうか?私は”偉大な不信仰さ”にあると思います。

なぜなら、信仰深い敬虔なクリスチャンは「イエスの十字架は失敗だった」とは決して言わないからです。さらに、自分が解いた原理がイエスを中心に全霊界が否定しようがしまいには神までが否定しようが決してyesと言わず、神に逆らってまで、自説を曲げなかったというのです。これは”偉大な不信仰”です。

God Conferenceでは、宗教学者はこのアボジの”偉大な不信仰さ”を絶賛しました。

それは彼が敬虔なクリスチャンでありながら、キリスト教のタブ-を破って、”イエスは失敗した”と言ってのけたからです。

しかし、ここで有頂天になっている訳には行きません。なぜなら、今度は敬虔なUC信徒から、原理に対して疑問を持たれ、アボジと同じようにタブ-を破って、原理の問題点を指摘したら、アボジはその人を祝福できるであろうか、と言うのです。

アボジは自分ではアボジのようになれ!とは言いますが、本当にそのような逆説を唱える人物が現れたらどのように扱うのでしょうか。

残念ながら、西川先生は逆説までは行きませんでしたが原理の修正すべき点を提示しましたが、受け入れられなかったようです。

しかしながら、良心は神よりも、先生(アボジ)よりも、親よりも偉大であると言ってのけたことは暗に自分を超えて行けということではないでしょうか。



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