愛につて(家庭連合は免罪符宗教になっているのではないか)




現在、私の氏族メシアの活動として、さいたま市にある色々な創価学会の支部を訪れて、荒城の月、千の風、広い河の岸辺などを演奏をしてまいりましたがそこの信徒達は大変喜んでくれます。

荒城の月は「春 高楼の花の宴・・・・昔の光 いまいずこ」と言うようにこの世俗世界の無常観を唄っています。聴衆の信徒たちは一応仏教徒ですからとても理解できる歌詞と思い、これを一番初めに歌うのです。

そして最後は「千の風になって」を歌うのです。作曲した 新井氏によれば、自分の友人の配偶者が死に、その友人は大変落ち込んでいたという。

どのようにして慰めたらよいのか、思案に暮れていたら、千の風の英詩が目に留まったという。その内容は死者が生きている人を
千の風になって慰めているという。朝は鳥になって、あなたを目覚めさせ、夜は星になってあなたを見守るという。

この詩のメッセ-ジは仏教思想に通じるものがあります。釈尊によれば、人はみんな大宇宙の生命に還元され、大宇宙の生命体そのものになるという。そして、これが釈尊が開いた悟りの境地なのです。

すなわち、小我は消えたように見えますが大我(大宇宙の生命)となって永遠に息づいているというのです。

NHKのクロ-ズアップ現代によれば、千の風は多くの人々の心に癒しを与え、多大なる社会貢献をしているという。

以上が私が意図したメセ-ジでしたが、聴いている人は誰も気づきませんので、後から解説しますと、「なるほど」と言って驚きます。

ちなみに、歌い手は私だけではなく、元食口と二人の歌姫を創価学会から選び、カルテット(四重唱)で歌いますので、大変、人気があり、あちこちの支部から声がかかります。このように、歌には宗教、国境、民族の壁を越える力があります。


スコットランド民謡の「広い河の岸辺The Water Is Wide」は、昨年NHKの朝ドラのマッサンで有名になり、クミコの歌としてあちこちで歌われていますので、我々も歌っていますが歌詞を変えて歌っています。


「愛の始まりは 美しく 優しく 花のよう  時の流れに 色あせて 朝露と消えてゆく」が歌詞ですが、これは私どものどの家庭にも当てはまりませんので、「愛の始まりは 美しく 優しく 花のよう 、時の流れに 色栄えて 永久に輝く」と歌いますと聴衆の中には歌詞の意味が分って感動して、喜んでくれる人達もいます。

ここで、愛(エロスの愛VSアガペの愛)についての解説をしてみましょう。


エロスの愛:

1.人間的愛
2.肉体的愛 
3.自己中心の愛、同時に最も崇高な自己主張の形態
4.必要感によって獲得し、所有せんとする意志
5.自己のための、上昇せんとする人間の努力
6.対象の価値を認め、それゆえに対象を愛する


アガペの愛:

1.神的愛
2.精神的愛(隣人愛)
3.非利己的な愛、ゆえに惜しみなく自己を消費する
4.無条件に与え、与えたことをがゆえに所有を主張しない
5.上から自己を与えんとして降りてくるもの
6.先ず愛し、したがって対象の価値を求めず、かえって対象の中に価値を創造する


以上の対比から分りますように、愛の始まりはお互いに対象の価値を認め、それゆえに愛するのですが、やがて、高齢になり、大変な介護が必要となり、しまいには自分が誰だか分らなくなっていく相手を変わらない愛で接してゆくにはアガペ-の愛が必要です。

ちなみに、高村光太郎は気が狂って行く智恵子を変わらない愛で、愛して行く生き様はアガペ-の愛ということになるでしょう。

私どものコンサ-トの第一部は人間的愛を中心に歌う人が多いですから、エロスの愛です。「椿姫」はその典型的な物語でしょう。

これに対して、第二部はメサイア(メシア)ですから、神の愛(アガペ)です。人間が罪を犯し、神から愛される価値を失い、自己中心が世を支配する状態から、神、自ら人間イエスの体をまとって、その罪を贖う為に自己を惜しみなく消費すると言うのです。


しかしながら、創価学会のある支部での金という人のお話しは、一生懸命信心をしたら、家も嫁も手に入ったというご利益のお話しでした。

これはエロスの愛の4と5に該当する世界でしょう。統一教会も清平で先祖解放のために00額を献金した00の恵を受けたというのも似たようなものでしょう。

否定はしませんがアガペ-よりもエロスの価値観が主体となりますと免罪符と同じような堕落となるでしょう。

但し、6の「対象の価値を認め、それゆえに対象をあいする」は需要と供給の原理ですから、これを否定することは出来ません。

そして、この二つの愛(エロスとアガペ)をどのように統一していくかが人類の課題なのです。




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統一神学校で学んだこと(その2)




父性愛と母性愛

ここでアカペーの愛というものは、何か寂しい愛なのだと思われても困るのです。それは実例によって違ってくるのです。

エーリッヒフロムという心理学者は、父性的愛と母性的愛について次のように論述しました。

父性愛とは条件的な愛であり、子供が父の願い、または価値基準に従順であり、その基準に達する時にそれを高く評価するが、達せず不従順である時には、激しい罰が加えられる。

これに対して、母性愛は生まれてきた子供が良い子、または悪い子にかかわらず、子供が天より与えられた恵みとして、そのまま無条件に受け入れる愛であるというのです。

西洋のユダヤ、キリスト教社会においては、この父性愛が主導的であるというのです。ユダヤ教の歴史に見られますように、子であるユダヤ民族が神(エホバ)の願いにかなう時に、彼らを大いに祝福し、また、その願いから外れる時、彼らを激しく呪うというのです。

これに対して、東洋はその仏教思想にも見られますように、どちらかというと母性愛主導型になるのです。

ここで大切なのは、母親が子供の誕生そのものを、神からの恵みとして無条件に受け入れていくのは、アカペー的愛の現れだということです。

これは、私たち統一教会員にとっても、大変大切なことを言っているのです。教会は摂理を担当しておりますから、その目標達成を抱えております。

それで、もしある兄弟がその目標を達成できずに帰ってきたと仮定しましょう。その時に彼をどう扱うかです。

目標を達成した場合は祝福を与え、できない場合は呪いを与えるのがよいでしょうか。それとも、神の家族の一員として、無条件に受け入れるのがよいでしょうか。これは大切な問題なのです。

ところで「原理講論」の中には、教会論という項目はないのですが、既成のキリスト教神学体系の中には、これがあるのです。

例えば、カルバンによりますと、教会とは、

1 信仰者の母なる教会
2 キリストの体なる教会
3 福音(み言)の機関としての教会
4 選ばれた者の団体

というように、細かく項目を分けて神学的に説明しているのです。

我々統一教会におきましては、父性愛と母性愛の関係を、次のように整理することができるでしょう。

まず第一に、我々食口は心霊基準が高かろうが低かろうが、神からあずかった大切な家族の一員であるという、無条件な受け入れが必要でしょう。

その母性愛の土台の上に、子供たちは父性愛によって、徐々に訓練を受けなければなりません。このバランスが大切なのです。

しかしながら、ここで注意しておきたいことは、父性愛が即エロースで、母性愛が即アカペーであると言っているのではないということです。

原理的に、二性性相の観点からもっと正確に言えば、母性愛の中にもエロースもアカペーもあり、また、母性愛の中にもエロースとアカペーがあるということになりましょう。


神と人間の関係

それでは、次にこの父性愛と母性愛の関係をもう少し掘り下げて、神と人間の関係について論述してみたいと思います。

母性愛というのは基本的に、親と子がへその緒でつながっている状態であると見ることができます。ですから、親から見て子は体の一部なのです。また、子は親の分身なのです。ですから、漢字の「自分」という字は、自然に分かれたものという意味になるのです。

したがって、西洋人が人物を大きくクローズアップして描写するのに対して、中国の水墨画では、人物は自然の一部として描かれているのです。

このように、東洋人は自然と人間を切り離さないのです。そして、宇宙、自然界を通して、その奥に潜む主宰者を見ようとするのです。これは一見何でもないようですが、大変な神学をはらんでいるのです。

ではここで、神の宇宙における創造過程を、ビデオカメラで写し撮ってみてください。森羅万象が神から出発して全宇宙に展開していく様子をカメラに収めるのです。

するとどうでしょう。原因である神と結果である被造物とは区別できるでしょうか。それとも、被造物は神の自己発展であり、神の有機的連続体であるというように見えるでしょうか。

西洋キリスト教では、原因である神と結果である被造物をはっきりと区別します。それに対して、東洋では、特に仏教などにおきましては、原因と結果は相互に依存しあう無限なる連続体と見るのです。

さらに、ユダヤ、キリスト教においては、神は人間や宇宙の外側に超越的に存在しているのです。そしてそこには、無限にして絶対なる神と有限にして相対なる人間と宇宙の間には、質的に絶対交わることのできない差異があるのです。したがって神は、神から被造物を造ったのではなく、無から創造したのです。

これに対して、東洋的観点から論ずると、被造物はいくら結果であるといえども、何かわけのわからない無などではなく、れっきとした第一原因である究極実在からできておりますから、へその緒みたいなもので神とつながっているのです。

もっとも、仏教において、創造主とか人格神である神を認めているわけではありません。

しかしながら、大切なことは思考法として、原因界と結果界が有機的につながっているということなのです。したがって、西洋では区別を重んじるのに対して、東洋では一体観、連続観を重んじるのです。


キリスト論について

それでは、このとこが神学的にどのような問題を引き起こすのかということになりますと、キリスト教の神性と人性の問題、すなわち、キリスト論にかかわってくるのです。

西洋論理は区別の論理に立脚しておりますから、キリストは神だというと、人間と質的に決して交わらない無限の差異をもった存在になってしまいますし、かといって、キリストは人間であるといえば、神と質的に決して交わらない存在になってしまうのです。

しかたがないので、カルケドンの会議では、キリストは神でもあり人間でもあるということになったのです。

このカルケドン会議(AD451)の結論は、神学的にそのように導かれたのではなく、政治的決着をつけたのです。それで原因と結果、または神と人間を切り離すと、このようなお粗末な結果になってしまうのです。

それでは、原理ではこの問題をどのように説明できるのでしょうか。

原理は東洋的なものの見方を踏まえておりますから、原因なる神と結果なる被造世界をあまり切り離さないのです。すなわち、人間と宇宙は無から創造されたのではなく、神の中の万有原力を材料にして創造されたのです。

したがって、神と人間を中心とした被造世界は、万有原力というへその緒でつながっているのです。これは、同じ万有原力によってつながっておりますから、量的な質的かはよくわかりませんが、とにかくつながっていることは確かなのです。

では、何によって原因と結果を区別するのかということになりますと、これは、神の創造目的によって区別されているといえるでしょう。

たしかに、人間や宇宙は神の中の万有原力を用いて創造されたかもしれませんが、神の存在目的と人間や宇宙の存在目的はまるで違うのです。

神は存在であると同時に目的でもあるのです。ですから、在りて在るものなのです。人間は神の子になれても神の親にはなれないのです。それは、親なる神と子なる人間との間に創造目的を中心とした、はっきりとした区別があるからです。

しかしながら、親の個別目的と子の個別目的は違うのですが、全体目的を含めた二重目的より見ると、親子はつながるのです。それは、親と子の個別目的が一つとなって、家族を形成するからです。


原理の観点

さて、仏教の論理の中に、原因、結果相互依存の法則といえるような縁起の論理があります。それは何かというと、親は子なしには親になれないというのです。

すなわち、親は子が原因となって親になり得るということになるのです。また、子は親が原因となって子になり得るということにもなるのです。

すると親子の因果関係は、時間的には親が原因で子が結果なのですが、空間的には原因と結果が相互に依存するのです。神様はいくら神であっても人間を創造しない限り親になれないということになるのです。

したがって、家庭という全体目的を関係論的に見ると、親なる神と子なる人間は、お互いに原因、結果となり合って、家庭を形成するということになりますから、人間はたとえ被造物であり、結果的存在であっても、主体なる神の完全なる対象の位置に立てば、神的価値を帯びるということになるのです。

これが原理の主張するところのキリスト論の立場です。神がこれだけ対象に価値をおいたということは、神が対象によって影響を受けるということを意味するのです。

すなわち、エロースの愛とは、このように対象によって影響を受けるのです。対象の在り方によって、主体は喜びもするし、また、悲しみもするのです。

そしてまた、主体は対象の喜びなくしては主体の喜びもないし、対象は主体の喜びなくしては、対象の喜びがないということになります。

したがって、天国とは相対との関係の中に、その扉を開くかぎがあるのです。ゆえに、これからますます相対関係を大切にすることが必要になってくるのです。

このように、エロースとアカペーという一見何でもないようなテーマから、神学の問題、教会の在り方、そして夫婦の在り方まで有機的に論じてまいりました。これが神学校で訓練された成果の証しであると、評価していただければ幸いです。




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統一神学校で学んだこと




統一神学校において学んだことは、その中には実にすばらしいものがあり、日本統一教会の全指導者が学ぶことができたら、どんなにためになるだろうかと思われるものがあります。

たとえば、哲学、教義学、旧約聖書学、新約聖書学、キリスト教史、そして世界の諸宗教の教義などです。

これらをしっかりと学んで、若い食口たちに伝授してあげることができれば、既成のキリスト教会の教義的内容を十分に理解し、凌駕することができるゆえに、ディプログラムされることもなく、また、国際社会ですぐに役立つ人材を送り出せることでしょう。

それでは、これらの授業から何を学んだのかを、私なりに証したいと思います。

たとえば、アカペーの愛とエロースの愛とを例にとって考えてみましょう。アカペーを主体から対象へ向かって与える愛と、一応規定してみましょう。これをさらに発展させると、主体が対象の中に価値を創造する、または与えるということになります。

これに対して、エロースを主体が対象から求める愛であると規定しましょう。これをさらに展開すると、主体が対象の中に価値を求め、また、その価値を愛するということになります。

ところで、ギリシャの哲学者アリストテレスは、神とは「自ら動くことなくして他の全てを動かす不動の第一動者である」と規定しました。

すなわち、神においては欠けているものはなく、全てが完全に満たされているというのです。したがって、このような神は、人間からあえて愛とか美などを求める必要がないのです。

中世のキリスト教(カトリック)時代に、トマスアキィナスという「神学大全」を著した有名な神学者が出現しました。

アキィナスは、このアリストテレスの哲学体系を用いて、中世のカトリック神学を形成したのです。したがって、西洋のキリスト教の伝統的な神観は、カトリック、プロテスタント両者を含めて、不動であり、不変なのです。

したがって、神が人間を愛するのは、人間という対象の中に、神が愛するのにふさわしい価値があるから、人間を愛するのではないというのです。

すなわち、人間は愛される価値が何もないのに、神の一方的なアカペーの愛により、ただ恵みとして愛されているというのです。

また、神の天地創造の動機においても、神はすでに全能であり、満ち足りておりますから、何もわざわざ人間や宇宙を創造しなくても、(不自由を感じるわけでもないわけですから)、よいということになります。これを神学者たちは、神の勝手気ままな創造論と呼ぶのです。


原理の立場から

ところで、原理の立場から神を見た場合はどうでしょうか。神は人間の中に何も愛する価値がないのに、ただ一方的に愛しているのでしょうか。

それとも、人間の中に、神が愛するのにふさわしい価値を求められるのでしょうか。

神が人間を復帰しようとして闘ってこられた歴史は、疑いもなく神が人間の中に創造本然の価値を再現しようとしてきた歩みでした。したがって、このような意味において、神はエロースの愛を持ち合わせているといえるのです。

また、創造の動機につていも、次のようなことが言えるでしょう。

神の最も本質的な属性は愛です。愛とは単なる観念ではありません。具体的な愛するという行為がともなうものです。したがって、愛が愛らしくなるためには、愛する対象がひつようです。

ゆえに、神は愛する対象として、人間を創造されたのです。そして、神はその愛ゆえにご自身のために生きるのではなく、愛する対象のために100パーセント自己投入して生きる時、神から100パーセントの愛を受けた対象である人間は、その愛を120パーセント返そうとするのです。

このように、「我」が「汝」のために完全に生きる時に、「汝」は「我」となって返ってくる。ここに我と汝のかかわりにおいて、完全なる自己否定を媒介にした授受作用という、実存の原理が生まれてくるのです。

このような神観は、アリストテレスの不動の第一動者という神の規定からは出てこないのです。

したがって、伝統的なキリスト教の神観からは、神の「痛み」とか「苦しみ」または「悲しみ」という概念は出てこないのです。それは、いかなる対象によっても左右されない、不動の神が人間の苦しみや悲しみに左右されては、もはや不動でなくなるからです。

それゆえ、北森嘉蔵という日本の神学者が「神の痛みの神学」を著したとき、現代神学の立場から高く評価されたのです。このように、原理においては普通に思われていることが、神学的にこんなにも評価されるのです。


エロースとアカペー

それでは、エロースとアカペーの関係を、もっと日常的なレベルで考えてみましょう。

たとえば、私が神学校から日本の愛する妻によく手紙を書くとします。しかし、さっぱり返事が帰ってこない時があるのです。これは一生懸命愛しているのに、なかなか美が返ってこないということになります。

そこで、私の心の中に神学的自己問答が始まるのです。「み旨の道」にありますように、「愛は与えて忘れなさい」という、アカペーの愛についてのみ言が浮かんでくるのです。

それで、このみ言の力によって、しばらく不動の第一動者のように対象によって左右されずに超越しているのです。しかし、これがいつまでも続くと、それによって取り乱したり、相手を責めたりはしませんが、やはり本心は寂しく思うのです。

このことは、神においても、それに近いものではないかと思うのです。すなわち、授受作用がないのですから、神は寂しく思うのです。

しかしながら、ここで大切なことは、たとえ寂しく思っても、それを許し、責めることもなく、取り乱さないということなのです。このことは、さきほど神のエロースの愛を論述したのに対して、今度は神のもう一つの側面のアカペーの愛を論述することになるからです。

確かに神の中には、アリストテレスの言うような不動の第一動者のような側面があるのです。さらに、ここで私は不変の神と同時に可変の神を体験するのです。統一思想的な用語を使えば、自己同一性の神と発展性の神ということになります。

パウルテリッヒという神学者は、彼の「組織神学」の中で、「神は存在そのものである。すなわち、不変であると同時に可変である。静的であると同時に動的である。たとえ神が神自身から出歩いたとしても、神の神性をそこなわせるものではない」と言っているのです。

ところで、神の赤べーの愛と恵みについて一言述べてみたいと思います。

777双の祝福の時に、祝福式が全て終わったのち、文先生はこのように言われました。

「先生は、この高価な祝福をこんなにも簡単にばらまいてしまっているけれども、神様のことを考えると寂しく思うのだよ。」

神様は確かにアカペーの愛により価値のない対象に無条件に恵みを与えることができるかもしれません。それは、しょせん哀れみの愛であるがゆえに、寂しく思われることでしょう。

カトリックの神学の基礎をつくった聖アウグスチヌス、そしてプロテスタントの宗教改革者ルターとカルバンもパウロの信仰義認論を盾にとり、この神のアカペーの愛による恵みをやたらに強調したのでした。

その結果、キリスト教徒たちは、この恵みにどっぷりつかってしまって、社会的に何も責任を果たさない時代が現れたのです。

ドイツの有名なボンヘッファーという神学者は、このような神の恵みに対する理解を安っぽい恵み(cheep grace)と言って激しく非難して、人間の神に対する責任、社会、国家に対する責任を訴えたのです。

私たち統一教会の食口におきましたは、これに相対者に対する責任を付け加えると、この問題は自分たちにとってももっと身近に感じられることでしょう。



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UCは救済の実態を世に示しているのだろうか(その2)




これは東神大卒のM牧師が三度も読んだというものです。この内容は私、そのものなので私の実存(生き方)が良く分ります。


新規伝道を成功されるためには、信徒達が喜びに満ち溢れていなければなりません。その結果、その喜びを人々に自然の発露として分かち合いたい気持ちにならなければこれはとてもとても難しいことでしょう。

これに関して、哲学者のカントから学ぶものがあります。彼によれば、「人間は人間自身が目的であって手段ではない」というのです。いかなる組織も、いや、国家ですらも人間を手段に出来ないというのです。

それでは、神なら人間を手段にしてもいいのであろうか。み言によれば、神すらも人間のために生きていますから、人間は神が愛する対象、即ち目的であって手段ではないというのです。

それでは、神の摂理のためなら、人間を手段にしていいのでしょうか?すなわち、摂理のためなら人間を犠牲にしてもいいのでしょうかという問題です。

一見いいように見えるのですが、摂理は人間の救援摂理というのですから、人間を手段にすることではなく、救済することが目的です。

ところが、この救済という目的を忘れて組織の上から来る命令そのものが知らぬ間に自己目的化してしまい、それがいわゆるノルマとして各々の責任者へ、そして信徒へと課せられ,のしかかって来るのです。

こうなってしまうと人間は手段化され喜びはどこかへ行ってしまうのです。こうして、新規伝道は難しくなって行くのです。

更に、せっかく新規の人を教会につれていっても、その人は霊の親から切り離されて、献金ト-クの対象、すなわち、被伝道者は献金のための手段として扱われますから、いろいろな問題が起こってくるのです。

縦的問題としては、霊界は絶対善霊よりもカイン的霊の方がはるかに多いのですから、このような事態を「天法である心情蹂躙に引っかかる」として讒訴してくるでしょうし、さらには、「新規・新規というけれども、結局は献金のための手段ではないか」と言って讒訴してくることでしょう。

横的問題としては、多額の献金ノルマゆえに自己破産に追い込まれ、生存権(憲法25条)まで脅かされることです。

ここまで来ると、公安は黙ってはいません。公安は生存権の問題をもちろん気にかけますが、それ以上にその献金がどこに流れていくのかを気にかけているのです。

一番いいのは、その献金によって多くの人々が救われている実態を示すことです。このことを世の人々は「説明責任を果たすこと」といっているのです。

すなわち、UCの全ての無形・有形の財産と活動はひとえに人類救済のためであることを分りやすい形で証すことが急務です。それゆえ、新規伝道の成功はこれが出来るかどうかに掛かっているといっても過言でないでしょう。

例えば、マザ-テレサは質素で簡素な日常生活をしていたと言う。彼女は可能なら、いつも裸足で出かけ、愛の宣教者の会の他の夫人たちと一緒に寮の床の上で寝る。

食事は簡素なもので、水はポンプからの冷水を使うだけでである。読む必要のないときには礼拝の最中でさえ明かりを消す。「貧しい人々のために与えられたお金を私たちの電気のために消費してはなりません。私たちはは絶対に必要な物だけを使うのです」と彼女は説明しているという。

このような生活態度は一般の人々の目にはとても分りやすく、自分と自分たちの教会の維持費のために出来る限りお金を使わないようにして、他者のために献身的に働いていることが分ります。

然るに、統一教会はどうでしょう。一体統一教会のどの建物が、どの部門が目に見える形で人々を救済してしているのでしょうか。

信仰の論理によれば、教会を拡大する事自体がその救済の教義を広めることだから、他者のために生きているのだといいたいことでしょう。

しかし、これを言い出すとどの宗教もそのように思って自分たちの宗教施設や関連ビジネスを拡大してきたのです。それゆえに、世の人々には自分たちの団体の為か、少数の幹部のために働いているようにしか写らないのです。

特に、金孝南さんの個人資産や豪華な生活ぶりは、宗教的救済を売り物にして自分の資産を増やしているように写ったことでしょう。

それゆえ、マザーテレサのようなノ-ベル賞ではなく、米本氏からスキャンダルとしてその実態(?)が露にされる始末です。がその一方では、貧しい食口がいて、生活に喘ぎ、しまいには妻が夫を絞め殺す事件が起きている有様です。

もう一つ、人々に分りやすい「為に生きる」例を挙げますと、バングラデシュのグラミンでしょう。彼は、グラミン銀行をつくり、貧しい人々に小口で無担保融資を行ない、多くの貧しい人々を救済しました。

お陰でノ-ベル賞を受賞しました。これは本来なら統一教会がしなければならない仕事であると思っています。

目覚めたUC信徒たちが結束して、氏族メシヤの一環としてこのような救済活動を出来ることを夢見ています。



救済の実態からかけ離れてしまった今のUCの現状を憂い、目覚めた信徒たちが救済の実態を世の人に示すことができるようになったら良いなと思われた方はクリックお願いします。
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UCは救済の実態を世に示しているのだろうか



私がUTS卒業の直後、アボジが再臨主であることを客観的に証明しようとして取り組んでみたが、残念ながら、それは不可能に近いという結論に至りました。

宗教とはそもそも実存的なもので、科学的、実証的なものではないということです。

イエスをメシアとして信じたら、救われたとう人もいれば、ブラジルでは、イエスではいまひとつでしたが、創価学会に入信したら救われたという人も沢山いて、土壌がカトリックなのに創価学会が破竹の勢いで伸びているという。

極端な例として、オ-ムや自称、イスラム国などを挙げることが出来ます。

客観的にはどう見てもサリンによる殺人カルトに見えるオ-ム(現在はアレフ)に年間500人が入信するという。イスラム国は客観的にはテロリスト集団に見えるのだが、年間1万人の若者が世界中から押し寄せて来るという。

日本でも北大卒業生が何だか知りませんが彼の実存がスパ-クして、イスラム国へ飛んで行きました。これは他人事ではなく、我々UCも客観的にはカルトに見えるということです。

霊感商法、六マリア、ヤコブの知恵(heavenly deception)等々、数え切れない実例が今なお、続いているのです。加えて、統一家の分裂は致命的です。み言葉によれば、「実態(体)はみ言葉の数十倍の価値だある」という。言い換えれば、「実を見れば木が分る」と言う事になる。

私が「統一教会のメシア観」という論文を書きました。

http://katsuwatanabe.blog.fc2.com/blog-entry-2.html

それを書くにあたって、ICPAの神学者会議の中で、人類のメシアなるものを客観的に証明できるかどうかを聞いてみた。

しかし、桜井先生もかの有名な松村先生(元東神大教授)、その他大勢の神学者もいたが、それは信仰告白の問題であって、科学的、実証的に証明する分野では無いということであった。

要するに、信仰とは実存的なものであるということである。また、どんなに頑張っても原理は所詮形而上学的仮説に過ぎないという結論であった。

この仮説に基づいて我々は半世紀以上も実践(宗教社会学的実験)をして来た結果が、今日の現実なのだから、当然、「実を見れば木が分る」と言われるのです。

残念なことに、日本における信徒に対する価値評価がどれだけ堕落性を抜いで人格完成に近づいたかではなく、どれだけ献金したかである。

清平における420代の摂理が打ち出された時に、まともな食口は「UCはとうとう旧約以前の供え物時代に逆戻りしてしまった」とため息をついていた。

そんな時に、タイムリ-に亨進様が宗教改革に立ち上がったものだから、多くの食口が共鳴しだした。

カトリックは近年になってルタ-の宗教改革を高く評価したことは注目に値する。お陰で、形骸化してしまったカトリックの内部から改革が起き、カトリックが立ち直ったので、高い評価を与えたのである。

UCも李ヨハネ先生が言うもでもなく、TMもH1もH2もどちらが神の国を先に築くか競争したらよいのです。

この方々のアボジ観はそれぞれ違いますが、それはそれぞれの実存を尊重することにして教義問題で宗教戦争をしない方がはるかにましである。



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