史吉子先生の証、劉孝元先生が行かれた霊界についてのお話

史吉子先生の証によれば、劉孝元先生が行かれた霊界についてのお話が有名です。

なにやら、死後行かれたところは薄暗い霊界だったそうです。韓国の教会長という位置のゆえに、アボジから愛されて、光り輝いていたが、霊界に行ったらアボジから愛されて輝いていた輝きは、全部奪われ、自分が愛した輝きしか残らなかったそうです。

霊界では、一番輝くものは、イエス様のように自分を迫害する者を愛するという美徳だと言う。劉孝元先生は幸い、原理を知っていましたので、徳を積んで奥様に相対できるところまで、上ってきたそうです。

この証を聞いた信徒たちは、祝福をたとえ三度も受け、恩赦を受けたとしても、自分が人を愛するという徳を積まない限り、劉孝元先生のように暗い霊界にしか行かれないことを悟ったと言う。

紀元節の聖酒を飲んで祝福を受けれたと言って、安心し、喜んでいる人は決して少なくは無いでしょう。逆に、自ら敢えて受けない人も少なくは無いでしょう。どちらにしても、一番大切なことは人から愛された徳よりも、神を真に愛し、自分を迫害する者までも愛することが出来る徳なのでしょう。



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久保木会長から聞いた話

基元節の為に同じ宿泊所で宿泊した777双の者達の中には久保木会長のそばでみ旨に従事していた者がいましてあまり知られていないみ言葉を語ってくれました。

本来ならば韓国はメシヤを受け入れなかった時点でイスラエルのように選民ではないと言うのです。

それでも尚、選民の位置を保っていられるのは、アダム国家の失敗をエバ国家である日本に韓国に代わって代理蕩減してもらっているからだという。

これは久保木会長がじきじきにアボジから会長としてしなければならない使命として言われた事だと言う。韓国のすべての失敗をエバである日本に蕩減させるのでどうか韓国を選民からはずさないように神に懇願したと言う。

そう言うことならアダム国家を救う為に人肌脱いでも良いかという気持ちになりますが、そのことも知らずに当然の顔をして、韓国を併合した贖罪と思い込み威張ってごり押しをするとどうでしょう。

それが30年以上も続くと堪忍袋の尾が切れる人も出てくるでしょう。人に自分の借金を払ってもらっているのに、その人に感謝も
せず、当然の顔をされると気持ちの良いものではないでしょう。

この間、777双と1800双を教会に招いて慰労会をお母様の計らいで開催していただきましたが、一人の古参の食口が10年間も教会に来なかった理由を語ってくれました。

それは自分のアベルである韓国のリーダーがその人の知り合いに、「お前も統一教会に入らないか。ここでは日本人を顎で使えるよ」と言った言葉に切れてしまったという。

これは彼の自己紹介の時に話したので、前宋会長も地区長も教区長も教会長も聞くハメになったのです。

恩人を顎で使うとは何か勘違いをしているのではないでしょうか?




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再臨主による救いの恩恵その4、 開拓伝道の証

これは開拓伝道の証です。イエスは何を飲もうか、食べようかと思い煩わないで、ただ神の国のみを求めよ、と言いましたがこれはクリスチャンの信仰の理想です。それを統一教会で実践できたのですから、これほど、幸せなことはありませんでした。

未だ教会の出来ていない都市に単身で、しかも片道切符で開拓に行くのです。伝道して生き残るか、餓えて死ぬか、途中で逃げて帰るかの道しか残されていません。そこで、3人の人を伝道して、基台を立てたら新しい教会の出発が認められるのです。

私は大阪の羽曳野市がくじ引きで当たり、何とか40日間で教会を建てることが出来ました。しかし、その後どうなったかは知りません。人事異動があったからです。とにかく、そのようにして現在の主だった教会は建てられていったのです。

私は1994年には赤羽教会長を辞任して、95年に家内の生まれ故郷に還故郷しましたが、すねかじりの子供を3人抱え、無一文で開拓伝道です。

チラシを撒き、学習塾を開校して、何とか子供たちを大学まで行かせ、アメリカ留学させたりして、祝福まで育て上げたのです。このように無から有を生み出す信仰、勇気、力という無形財産を与えてくれたのも再臨主でした。そして、この無形財産は計り知れないほど大きいものです。

ちなみに、現在では子女達は独立し、私共は国家メシヤの使命と氏族メシヤの任務を遂行中です。ハレルヤコ-ラスは市民運動の一環として展開しているものです。私たちは外に向かって進み、市民権を勝ち得てくることが大切です。

但し、証しというものは個人において皆違いまっすので、皆さんに同じような証を期待するものではありません。ただ、こんな人もいるということは大いに参考になることだと、確信しています。



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再臨主による救いの恩恵その3、 富士登山の話

数年前に、家族全員で富士山の聖地を目指して登山をしました。私が足がまだ元気な内に登りたいといったものだから、子供たちが心配して、自分たちもエスコ-トをする為について行くというのです。

富士登山用のバスに乗り込んだら、一般の登山者が倍以上いまして、不思議そうに私たちを見ていました。長男の嫁が韓国人、長女の婿はアメリカ人、次女の婿はアフリカ人ですから目立つのです。

それで、みんな競うようにして、私の持ち物を持ったり、担いだりして、いたわるものですから、ついに彼らは「あなた方は何者ですか」と言うのです。

みんな顔が違うのに、親を労わり、本物の家族以上に家族的だというのです。自分たちの子供たちは親のことをジジイとかババアと呼び、しまいには気に食わないときは"死ね!"と言う。どのようにして、そのようないい家族を作ったのかというのです。まるで、神を見ているようだという。

それもそのはずです。会話の内容が世俗とは違い、何か神々しいのです。神のオ-ラが輝いていたのでしょう。

新約時代はイエスが”私を見たものは神を見たものなり”と言いましたが、成約時代は”祝福家庭を見たものは神を見たものなり”と言っていいでしょう。

この貸し切りバスの登山者はガイドを先頭に帰りまで団体行動をしなくてはなりませんので、四六時中一緒なのです。当然、神様や原理の話になり、その内、3人ほどが原理を聞くことになりました。これは再臨主の救いに与からなければありえない出来事だと思います。


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再臨主による救いの恩恵その2, 高校時代の恋人の話

高校時代には恋人がいまして、お互いに好意を持ってお付き合いをしていましたが、情が深くなるにつれて、肉体的にも一つになりたい欲望が出てくるのです。でも本心の奥深いところではそれはいけないと言うのです。

そこで、気がついたのは、愛と欲望は方向が違うと言うことでした。愛は相手の幸せを願いますが性欲は自己中心的でした。180度も違うのです。

それゆえ、自分に危険を感じたので、恋人とは距離をおくようにしました。自分の不純な欲望で愛する人を汚したくなかったからです。

ちょうどその時、私の小さな町にもカトリック教会が出来ましたので、不思議な力に導かれて、学校の帰り道寄ってみました。驚いたのは神父様の生き様です。

愛欲・性欲を捨てて、独身で神と人類のために尽くしているではありませんか。まるで、神様のようでした。そこで、私もクリスチャンになる為に随分修行して、4年後に恋人に会ってみると、すでに別な男性と婚約していました。

私の心がもう離れてしまったと思ったのでしょう。お陰で、原理に出会い、献身しましたので、神の導きでした。

祝福を受けて、3年目の10/21の祝福記念日に私はアメリカの教会で感謝の祈りを捧げていました。

すると、久しぶりに神の神霊が全身を覆ってくれました。嬉しさのあまり、360度、手を伸ばして触ってみると何処を触っても神の霊気に満ち溢れていました。そんなことをしているうちに、誰かの手に触りました。

よく見ると、東京にいる相対者の手でした。霊的現象でした。その感触は神の霊気に触っていた感触と全く同じ感触でした。ああ、これは祝福によって肉体までも聖化された、と実感したのです。そこで、初めて霊肉両方の救いを覚えたのです。

それゆえ、この感覚で夫婦が一体となり、子女が授かれば文字通り、神の子が生まれるのだな、と思ったのです。夫婦生活をすると時は神の霊に満たされ、完全に肉体までも聖化された実感を得るまで黙想します。そのようにして3人の子供が授かりました。

そして子供たちが年頃になった時に、自分がどのようにして人間的な性欲と戦い、神の次元まで高めたかを話して聞かせます。そして、貴方たちは、真に真に神のことして生まれたのだ!と宣言します。そのせいでしょうか、3人とも無事に祝福を受け清く生きています。

このように、再臨主の救いの力によって肉体までも聖化されたのは大きな恵でした。



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再臨主による救いの恩恵その1、神に会ったような実感

私がカトリックの修道院の朝5時のミサに出席する為に北海道の釧路の真冬マイナス20以下でも雪を掻き分けながら、30分かけて坂をよじ登って通ったものでした。でも、神は遠い存在でした。王と僕のぐらいの距離感がありました。

しかし、アボジを受け入れ、祝福を受けますと、神がとても近く感じました。正午定着とよくも言ったものだと思います。神が100%自分の中に居てくださる実感がするのです。

777双は祝福を受けても5-6年間の家庭を持たないで、み旨に励んでいましたから、その間、時々相対者に会いますと、お互いに神に会ったような実感をしていました。

それで、「私たちを見たものは神を見たものなり」と公言したものでした。即ち、この道に来て獲得した最大の収穫は神を100%獲得したことでした。したがって、これ以上の恵が他に考えられないのです。



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777双祝福の証、その2 (私の家庭を見た者は神を見た者なりと言えるような家庭を形成すること)

私が相対者をつれて北海道の実家につれて行きますと、その評価はUCの同僚達のそれとは逆であった。

当時、相対者は65キロもあり、私の父母に送った手紙の字はとても下手で、おまけに母子家庭であったので、受け入れてはくれましたが、そんな高い評価ではありませんでした。

そこで、私は「私のような片腕しかない男に嫁に来てくれる女性などはUCを除いていない」と切り札のつもりで言ったのですが全然通用しませんでした。

それは片手ですごい彫刻の作品を作って北海道新聞に取り上げれ、高校時代には自分の高校の相撲部を北海道大会で優勝まで導いたキャプテンということで、これまた新聞に取り上げられ、凱旋して町に帰って来た時には高校のブラスバンドが出迎えて、町中を練り歩いたものですから、いっぱしの町の英雄になっていたわけです。

だから、片腕など無くても来てくれる嫁など沢山いると思っているわけです。おまけに、親父は網本だったので家柄にも誇りを持っているわけです。教会内の功労者はここでは通用しないのです。

しかし、まあ、相対者はいい人だと言うことで、本人同士が喜んでいるのならそれでいいではないか、というところに落ちつた訳です。

結論として相対者と二人で大笑いしたことはどっち(UC)も、どっち(世俗)だということです。

要するに私も家内も己を無にして神にゆだね、その結果としてメシヤを媒介に神によって結ばれた結婚(祝福)は絶対であり、人間的なコメントや評価はUC信徒であろうと、あるいは実家のような世俗であろうと、それは相対的な二次的、三次的なもに過ぎないということです。

そして、最後に残るのは私の家庭を見た者は神を見た者なりと言えるような家庭を形成することです。どんなに個人的な実績を積んでも、祝福家庭までも犠牲にしたために、子女の心が離れ、信仰を失い、この世の男女を結婚をしまうと、神の血統が一代で終焉です。

日本のトキみたいなものです。おかげで、中国から借りてきて繁殖させねばならない有様です。

神においては被造物の勝利がなくしては勝利が無いように、祝福家庭においては、子女の勝利なくして親の勝利は無いのです。

以上です。




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777双祝福の証(マッチングの時の証)

覚えていることと言えば、その前夜にアボジから自分に最も相応しい祝福候補者の名前を5人ほど書きなさいと言うことでした。それで、一番嫌いな人、したがって、最も祝福を受けたくない人の順番に名前を書いていきました。

すると、不思議なことに神の臨在感からくるなんともいえない安らぎを感じました。基準の高い者も、低い者も、美人も醜人も、学歴も無学歴も全く関係のない神の愛だけの世界を感じるようになりました。神は何人も等しく愛し、神の愛の中ではすべて平等であるということでを実感しました。これは永遠の宝です。

したがって、家内は功労者の上位にいましたが、アボジが「この女性に最も相応しいと思える者、手を挙げなさい」と言われた時、自動的に手が挙がって「ハイ」と高らかに答えて、立ち上がりました。家内がこれを受け入れてくれましたので、決まったのです。

後ほど、杉山モトコさんがやって来て、家内に「貴女は誰と祝福を受けたの?」と聞きながら、私を見て「まあ、師観さんと・・?」怪訝な顔つきと、家内に対する深い同情の表情で驚いていました。

これは無理も無い反応でございまして、・・・と申しますのは、当時の私は心霊的には基準は低く、低空飛行で何とか献身者についてついていくような状態でしたから当然なように思いました。

更に、片腕も無く、いかにも惨めな格好をして、風采の上がらない格好でしたので、内的にも、外的にもそのよに思われて当然の状態でした。この当時、功労者の女性たちには地区長、少なくても教会長というよな男性指導者たちがあてがわれていました。したがって、家内の場合は例外中の例外だったのです。

同僚の男性たちから、「あなた、心臓に毛が生えてるね!」と言われたり、「教会に来たおかげで、良い女性をもらえたね」とか、いろいろ言われました。一番、すごかったのは、家内が私を久保木会長に紹介した時のことでした。会長曰く、「阿部、よくもこんな男と祝福を受けたものだな・・・」と、ため息をしながら、つぶやいたことです。

しかしながら、これらの言葉が私においてはみんな祝福の言葉にしか思えてならないので、全部感謝でした。ひどい言葉(?)を言われれば言われるほど、とてもうれしいのです。ただ「ありがとう、ありがとう」でした。

どうしてか?と問われれば、恐らく、私がUCに来る前に、ヤマギシズムというユ-トピア社会と作っている団体の哲学のせいだと思います。

それは、山岸という方が創設者ですが、会員が「お金が取られました」と言えば、「よかったね」と答え、「家が火事になりました」と言えば、「益々、良くなりましたね」と答えるのです。

ほめらることもさることながら、くさされることもここでは天国なのです。「変に処して動ぜず、自己の絶対の位置を見出し、そこに立つ」という哲学ですから、その影響はとても大きいと思います。ですから、何が起きても感謝しかないのです。

家内の証によると、「実は、私も候補者に師観さんの名前を書いたのよ」いう女性に5人も出会ったと少し怒ったような顔つきで言っていたのは印象的でした。

中には、「あの人は将来国際舞台で活躍する人だよ」と言って来る女性もいたと言うのです。事実、小生は1973年の第三陣のアメリカ行き部隊の中心者になり、西海岸ではDr Bergmanの下で英語で原理講義を担当し、ワシントン大会の動員ではそこそこの成果を挙げましたので、ベルベディアで世界のleaderたちの前で、名前を呼ばれてその功績をアボジに讃えられたので、その女性の言葉はまんざら外れたわけでもなさそうです。



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超越と内在 キリスト教と仏教の接点

超越と内在
キリスト教と仏教の接点


私が宗教学会(禅とキリスト教の懇談会)で発表しテーマの一つはキリスト教と仏教の接点です。まず、これらの相違点を述べると、キリスト教は超越性の原理に基づき、仏教は同一性の原理に立脚しています。

超越性の原理においては、真の存在とは我々にとって超越的なもの、すなわち神です。それゆえ、神を絶対主体として我々人間が対象としてこれに正しく係わること、すなわち信仰の在り方が大切になってきます。

これに対し、同一性の原理では、真の存在と我々は本質的に同一のものなのです。それゆえ、この同一性を自覚してその一つの存在(真我)に成り切ることがもっとも大切なことになります。

したがって、私は神学的立場からキリスト教の神のあり方を超越性と理解し、仏教の同一性の原理を、神の内在性として理解するのです。すなわち神はいかなる時空をも超越するので、いかなる時間と空間にも入り込み内在できるのです。それゆえ、超越性と内在性(同一性)は、神という一つの存在の両側面相対的関係を言っているに過ぎないのです。

聖句を用いて説明すると、『神が父の内におり(内在的超越すなわち同一性)、父が私の内におられること(超越的内在)を、信じないのか』(ヨハネ十四、一〇)ということになるのです。

すなわち仏教は「統一原理」の観点からいえば、創造目的を完成した本然の人間を先取りして論じているのです。

元来、仏教は無神論であり、神も霊魂も存在しません。そして人生は苦であり、その原因はユダヤ・キリスト教が説くような、人間が神の前に罪を犯した罰の結果ではなく、自業自得、すなわち自分の過去が悪かったから苦しんでいる、すなわちカルマのためなのです。したがって、現世において善行をなせば、将来は楽しい報いを受けるというのです。

そのためには心を浄化することが大切なこととなります。すなわち因果の理法によって八正道という正しい道徳を実践すれば、健全な心体になり、さらに、座禅によって心身を空じ浄化すれば、その浄まりの果てに仏をしての自己を自覚することができるようになるというのです。

したがって、キリスト教の神や大乗仏教の阿弥陀仏を立てることによって自己の主体を確立するという相対的主体ではなく、無始無終、自存の絶対主体の自己の確立を説くのです。このことは、ハ-バ-ド大学博士課程卒のネパールから来たある仏教学者の講座の解説されているところであります。

このような仏教においては、キリスト教とまったくといっていいほど接点を見い出すことはできません。また普通、キリスト教の側からも仏教とはとても接点を持ち得るようには思えません。なぜならキリスト教は伝統的に極端なほど神の超越性を主張してきたからです。

神は無限にして永遠・不変・自存の絶対的存在の創造主であるがゆえに、有限で可変的・依存的・相対的な被造物(人間や自然)とは質的に異質であり、交わらないのです。もし交わるとすれば、神の方から一方的に恵みを与えんとして、人間の側にイエス・キリストのように人性をまとって降りてくる時だけなのです。

ところが大乗仏教においては、キリスト教との接点を見い出すことができるのです。鈴木大拙は、彼の著書「禅による生活」の中で、「神の自己否定」ということを説いているのです。

すなわち「神が神自身に満足している限り、神は非存在である。神は神自身でない何ものかに目覚めなければならない。その時初めて神は神となる。神は神でない時に神である、というわけだが、この神でないところのものもまた神自身の内にあるものでなければならない。

そして、これ神自身であって神自身でないもの―――神自らの思想であり、意志であり、この意識によって、神は神自身から離れもするが、また同時に神自身に帰りもする」というのです。

これはヨハネ福音書の冒頭にある『初めに言葉(ロゴス)があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった』という聖句に内容的には匹敵するのです。すなわち神の言葉(ロゴス)は神の自己表現であるのですが、大拙はこれを「神ではないから神である」というように神は自己否定を通した自己肯定をするというのです。

この論理は「即非の論理」として知られ、西田幾多郎の哲学においては「絶対矛盾的自己同一」の論理として知られています。これを文鮮明師の表現を借りて説明しますと、神はひとりで存在していた時は、神は神自身のためのみに生きているから、ある意味では一種のエゴイズムであるというのです。しかし「子」なる人間を創造し、そのために生きる時に、神は初めて神、すなわち「親」になるというのです。

これを西田哲学的に言い直すと、神の自己否定、すなわちアガペーの愛であり、神の自己表現ということになります。ここにおきましては「子」という概念を媒介にしない「親」はなく、また「親」という概念を媒介としない「子」はない、ということになります。したがって人間(被造物)を抜きにして神(創造主)を語れず、また神(創造主)を抜きにして人間(被造物)を語ることはできないということになるのです。

そして、ここまできますと、絶対・無限なる神と、相対・有限なる人間(被造物)は、相互に自己否定を媒介として出合うことになるのです。さらにこの相互自己否定の論理(即非の論理)を用いて、「空即是色」、「色即是空」を解説すると、「空」(本質)の自己否定が「色」(現象)であり、「色」(現象)の自己否定が「空」(本質)ということになります。したがって、空は色を通して自己否定しない限り「空」になれず、色も空を通して自己否定しない限り「色」にはなれないのです。

同様に、神も自己否定しない限り親なる神になれず、人間も自己否定しない限り神の子である人間にはなれないのです。そして、人間の自己否定とは神の「戒め」を尊守することでした。

絶対なる神は、自己否定をしてまでも相対なる人間とこの世を創造されたのですから、我々相対なる人間も自己否定して絶対なる神につながらねばなりません。このように、神の創造行為を神の自己否定として理解するときに、キリスト教は仏教と接点を持ち得るのです。



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ペンネーム師観の由来

師観というペンネ-ムは久保木会長と一緒に姓名判断に従事していた女性が霊界から導かれた感じで私に、晩年になったら、師観と名乗りなさいと言うのです。なにやら、読み方は「オサミ」と読むそうです。

それで、ペンネ-ムに使うことにしました。どうみてもシカンとしか読めませんので、シカンだ、と言う人が多いのです。それで、読み方は読みやすい方にしています。


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