生田 禎三元教区長が281人の教会長達に送った手紙(現代のエリコ城作戦)




9月に長編の脱会届を出した生田 禎三元教区長が今度はUC公職者の人達281人に手紙を送ったそうです。

名付けて「現代のエリコ城作戦」一読の価値があるでしょう。

長文なので、一部だけ紹介します。



御聖恩感謝申し上げます。

敬愛する家庭連合の教会長、並びに家庭連合指導者の皆様、突然にお便りを差し上げるご無礼をお許し下さい。

私は愛知県の清須市在住の生田と申します。私は名城教会所属の一教会員でしたが、先月、9月22日に松濤本部に退会届を提出しましたので、今は貴協会の会員ではなくなりました。

しかし、神様が望まれ、私が本部に出した退会届の内容を全国の家庭連合の教会長に伝える様にと、神様の強い意向が伝わって来るのを感じましたので、皆様方にご批判とお怒りを受けるのを覚悟の上でお便りをする事を決意しました。

今は、インターネット時代ですので、情報は一夜にして世界を駆け巡る社会となっています。私の退会届も例外ではありませんでした。

サンクチュアリ教会のインターネット操作に精通している兄弟により、9月末に私の退会届がインターネットにアップされて以来、その反響は大きく、検索件数も一週間で3000件を超える検索があったとの事を聞いて、私自身とても驚いています。


中略


私はこの七回の家庭連合救済の為のアプローチ作戦を現代のエリコ城作戦と命名する様にとの神様からのインスピレーションが心に届いています。家庭連合の方には言難いのですが、エリコ城=家庭連合組織の壁の事を指しています。

エリコ城の城壁は七日後に崩壊しましたが、韓国家庭連合の献金奴隷として40年以上も虐待されて来た日本食口を開放する為に、どのぐらいの歳月がこれからも必要なのでしょうか?

現時点では何年後には崩壊すると確かな事を言う事は出来ませんが、はっきり分かっている事は、黙示録の預言にある七年の大患難の終りと並行して、韓氏オモニを再臨主と信奉する家庭連合の終焉を迎える日が到来すると私は思っています。後、6年内に・・!  これはあくまで私個人の見解である事をご理解下さい。


一部抜粋終わり



全文を読みたい方ははこのリンクでどうぞ:
https://nqj17437.wordpress.com/2016/11/27




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神は韓国から去った?

-アメリカシックとの会話の一部:

韓国人主導の教会はアメリカではなんの存在意味もありません。現在の教会の組織の活動や運動には虚しい空回りを感じ、積極的には関わらないことにしました。


・これは日本も全く以上に同じでしょう。現在の韓国を見ると、明らかに神は去ってしまった、と感じる人は多いのではないでしょうか。

神が去ってしまった国の人たちが、どの国であろうと、主導するとその国と教会から神は去って行くことになるでしょう。天運を失ってしまった国の人々が主導するとその国と教会から天運が去ってしまうのです。

今、自分の国、韓国が危機状態にあるのですから、他国でこんなことをしていられないと思い、自分の国に帰って、何かしなければ・・・と思うのが普通の人々の思いですが、彼らは益々日・米に居座りたいようにすら見えます。

韓国に帰ってしまえば、ただの人ですが、他国にいれば、特別扱いされて、居心地が良いのでしょう。

沈み行く船から下りて独立し、神が臨在し、働いてくれる氏族メシア教会を各自が築く以外に希望への道はないようです。



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明日のクリスマスコンサートのご案内(芸術文化の力で永遠なる価値観を分かち合う)



人間の欲望には限りがありませんが、その欲望を満たす物質の量には限りがあります。限られた資源の中で人間の欲望が野放しにされるのなら、地球の資源は遅かれ早かれ枯渇してしまうことでしょう。

しかし、人間には、衣食住,性などを追求する肉体的、物質的欲望の他に、真善美、聖、愛などを追求する崇高本能とも言うべき精神的、人格的な価値追求欲があります。

それゆえ、生きるに必要な物質が獲得された後には欲望の質的転換が必要となります。本来、宗教はこの物質世界の無常を説き、時空を超えた永遠絶対なる世界における価値観を説くものでしたが、いまいち、魅力に欠け、人類を導く力にはなり得ていません。

そこで、私は芸術・文化の力を提言したいと思います。私共におきましては、音楽、特に歌の力を担当することになるでしょう。

そんな訳で11/27(明日)に、さいたま市の「市民会館うらわ」のホ-ル(2:00-4:00pm)で恒例のクリスマスコンサ-トを開催することになりました。どうぞ、多くの方々のご来場をお待ちしています。

以前にも一度案内させていただきましたが、明日になりましたので、再度ご案内します。

ちなみに、今年の私はTime to say good-bye
を歌わせて頂きます。

自分で日本語の歌詞を付けてみました:

苦楽を共に分け合う真の愛 険しき峠 超え行き 
愛する君と行け

み国を目指し 行け 行け 旅だて Time to say good–bye

過ぎし日よ さよなら 新たな未来へ旅だとう 
あなたと共に海原を乗越え

新たな未来へ旅だとう 神共にいませり 荒波を乗り越え 
新たな未来へ旅だとう 気高き理想へ 行こう



以下はパンフレットの内容です:

クリスマスシーズンが近づいてきました。今年も、恒例のクリスマスコンサートを開催いたします。音楽を愛する人々が集い寄って演奏する、楽しい音楽会です。皆様もお気軽にいらして、合唱と独唱をお楽しみ下さい。お待ちしております。

【主催】ハレルヤコーラス愛唱会

プログラム紹介

第一部  合唱

「世界の歌」サンタルチア(ナポリ民謡)、夢路より(フォスタ-作曲)、トロイカ(ロシア民謡)
「メサイア」ハレルヤコーラス 他5曲

第二部  独唱と合唱

独唱 「マイ・フエア・レデイ」より ステキじゃない
「ウエストサイド物語」より どこかに
「友人フリッツ」より わずかの花を
「フイガロの結婚」より もう飛ぶまいぞ蝶々
「アドリアーナ・ルクブルール」より 私は芸術の下僕です
からたちの花  ふるさとは今もかわらず
いとしい人よ、私を死なせて   魅惑

二重唱  ネラ・フアンタジア   タイム・トゥ・セイ・グッドバイ

独唱と合唱  「椿姫」より 乾杯の歌  「メリ-ウイド-」より ヴィリアの歌


11月27日(日)、明日です

13:30【開場】/ 14:00【開演】 入場無料
【会場】さいたま市民会館うらわホール
さいたま市浦和区仲町2-10-22 浦和駅西口 徒歩10分 パインズホテル裏 



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最近の混乱と祝福の価値(自分が天国に行きたいからではなく、神様を愛したいから献身した)




祝福を受けたか受けていないかは、そんなに深刻な問題ではないと思います。

原理講論を書かれた劉先生も36家庭で祝福受けましたが、死後の霊界は薄暗かったという。

地上にいたころはアボジから愛されて、光り輝いていたが、霊界に行ったら、他人から愛されて輝いていた光は全部奪われてしまい、自分が愛したものしか残らなかったといいます。

これが奥様のサ-キルジャさんを通しての証でした。逆に、祝福は受けてはいませんが、その愛ゆえに光り輝いている聖人や高級霊の話は沢山あります。

「み旨の道」(p391)にも書かれていますが、久保木会長が韓国でアボジの説教を聴いて来た内容によると、

1.霊界に行ったら、サタンが自分が地上で最も愛せなかった人を3人を連れてきて、その人たちを愛によって屈服させなければならないと言う。

2.今までの義人聖人がやって来て、自分達はメシヤの生存中に生涯を共に出来なかったがみ旨の為に精一杯の至誠を尽くした。ところで、メシヤの生存中に生涯を共に出来たあなた方はそれ以上にみ旨の為に精誠を尽くしたのかという試練を受けると言う。

3.天使がやって来て、自分達は創造原理に沿って生きてきたが、あなた方は創造本然の状態を何処まで復帰し、天使を超える存在となったのかという試練を受けると言う。

4.最後にイエスと聖霊がやって来て、祝福を受けたあなた方は彼らの愛の基準を超えたかどうかという試練を受けると言う。

それゆえ、いくら祝福を受けてもこれらの祝福の内容を満たさないと誰も天国には行けないと言う。

私は祝福を受けようが受けまいが上記の内容を満たすことが大切であると考えています。

李相軒先生の「霊界の実相」(p37)によると、霊界では、「36家庭の位置は大変なものです。家庭の階級においては最高です。

しかしながら、最高の位置において赤裸々に自分の誤りをすべてあらわにして生きていく苦しみは、本当に表現しがたいものです。

地上にいる時、女性問題、公金問題、その他の問題に引っかかった家庭は、地獄にいるのではなく、神のそばにいながら、露になった姿で生きていかねばなりません。

例えば、他の女性と性関係を持っている場面が、随時皆の前に見えるのです。(公金も然りです)。一言で、地獄よりも恐ろしいところです。

以上が内容のない祝福家庭がその無い程度に応じて行く霊界です。それゆえ、内容の無い祝福権威主義の脅しに屈してはなりません。

教会の言うことに従わない奴には、祝福してあげないとか、ある高額の献金をしないと祝福しないとか、相手の弱みにつけこんで脅すやり方は心情蹂躙であり、天法に反する行為でしょう。

自分たちの祝福を受けないと救われないというやり方は脅しと変わりありません。脅されて祝福を受けるとするなら、それは自分可愛さの保身であり、エゴということになるでしょう。自分が救われたいという弱みを持たないことが大切です。

イエスの教えでは、羊飼いは一匹の羊が迷い出たら、九九匹の羊を天国に残して、迷える一匹の羊の為に地獄に探しに行くと言う。

自分の愛する人々が地獄で苦しんでいるとしたら、たとえ、天国にいてもそこは地獄だと言う。人類の1人でも地獄にいれば神においては苦痛であり、したがって、天国ではない。そのような神を見ながら、我々はのうのうと天国にいれるものではありません。

文社長は一和の会社が潰れそうになった時、資金を調達するために水沢里の土地を売り始めた。その時、アボジに「お前は天のものを売りさばくのか」と言われたという。

すると、文社長は「自分一人がそれゆえに地獄に行くことで、一和を建て直すことが出来るなら本望です」と答えたと言う。私はこれは本物の信仰だと思います。

私は、被伝道者から、「お前は地獄に行く勇気があるのか」とか、教会の責任者から、「私の言うことを聞かないと、天国にいけない」とか言われて、地獄を決意して教会を出て行ったことがあります。

すると、その途中で、サタンが私から離れ、不安は消え去り、なんとも言えない心の安らぎを得ました。

その時、教会に献身した真の動機が明らかになりました。それは天国に行きたいからではなく、神を愛していたからでした。

それで、教会に戻ってきましたが、一度地獄を決意した自分には怖いものがなくなり、済んだ心でその教会責任者と向かい合いました。

ビビったのは相手側でした。その時から、神の前に立つ孤高の境地に立てるようになったと思います。

こうしてアメリカにいるアボジの前に出て行き、アボジから「何だ、お前は腕が無いではないか!お前のような奴が日本から代表で送られて来ると、先生はアメリカの食口から日本はクズばかり送って来ると言われるのだよ!」とまで言われましたが、微動もしなかった。逆に、メシヤからの信頼を頂いたと感じました。

信頼を頂いたからには、こちらも信頼してメシヤを相手に何でもズケズケ言えるようになったのです。

氏族メシヤたるものは、教会からの除名を含めた一切の脅しに恐れず、また、メシヤの裁きを恐れず、かえって友と呼ばれ者(ヨハネ15/14)になり、神を愛し、メシヤを愛するがゆえに、教会を愛し、留まる者にならなければならないでしょう。

話しによれば、顕進様はラスベガスでアボジからUCIの責任者から降りるように言われた時、神に祈ってから答えますと言ったという。

すると、アボジは、すかさず、自分が神の実体だから、自分の言うことが神の言葉だと答えた。

これに対して、顕進様は私もアボジの神を共有してみたいと答えたと言う。すると、アボジは大人になったものだと言って驚かれたと言う。亨進様も似たような境地に至ったのでしょう。

確かに、神はアボジだけの神ではない。全人類の神である。芭蕉の言葉だったでしょうか。「故人の足跡をなめるのではなく、故人の求めたものを求めよ」という言葉がある。

ルタ-は万人祭司説を説きましたが、アボジは万人メシヤ説を説いた。それが氏族メシヤです。

メシヤとはカルビンによると、王であり、祭司であり、預言者であるという。そして、氏族メシヤはただ従って行く群れではなく、み旨が何であるかを探し求め、成し遂げる者である。

今起こっていることは、ただ従っていた者達が主体性に目覚めた結果だとすれば、発展的現象である。



祝福を献金の道具にするようなUCではなく、神様を愛する氏族メシヤを多く生み出していくUCに生まれ変わってほしいなと思われた方はクリックお願いします。
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万人預言者説(真の神様の創造理想を求めて)



 『己を愛するが如く隣人をあいせよ』ですが、真に本心から『己を愛する』ことは難しいものです。

禅の世界では己すら愛せないのに、どうして隣人を愛せるのか、と言うのです。我にも真我と虚我あり、真我とは神が愛せることが出きる創造本然の本性、すなわち、真善美愛聖に満ち溢れた神性を意味します。虚我とは堕落性に満ち溢れた自我のことです。

したがって、『己を愛するが如く隣人をあいせよ』とは、己の神性または仏性を愛する如くに隣人の神性(仏性)を愛せよ、ということになります。

「人を憎まず、悪を憎め」の戒めも基本はこれと同じです。誰でも創造本然本性を持って造られた真我があるのだからそれを憎んではいけないと言うのです。だから、それを人間の中に見出して、復帰するという原理が可能になって来る訳です。

しかし、これはあくまでも理想であって、現実ではありません。現実は悪の実体になっている人々や団体が少なくありません。それゆえ、私達は理想を根底に置きながら、現実的な対処をしていかないと観念論に終わってしまします。

特に、今のUCは原理が説いているような理想的な実体にはなってはいません。反日に凝り固まった偏狭な実態になっています。

韓国の教会指導部が狙っているものは自虐史観のカ-ドを最大限に利用して、日本UC信徒をコントロ-ルし、韓国による日本支配をなすことでしょう。私はこれを伏魔殿化した教会と呼んでいます。

神の理想を語りながら、現実は自分のところにお金が入って来ることしか考えていないのです。恐ろしいことではありませんか。これが韓国人による教会支配の実態です。

更に恐ろしいことは、そのお先棒を担いで、韓国を「主の国」あるいは「天一国」として賛美し、日本人信徒を自虐史観で罪意識の虜にしている日本人教会指導者や活動家達がいることです。

これに対する対策はUC内部の信徒達にこの事実を知らせてあげることです。有志達が学習会を開いたり、小集会を開いたり、感想や意見を述べ合ったりする信徒の交わりが必要です。

神学的には信徒が二人で心を合わせて、祈るところに神が働くと言うのです。これが縦組織のエクレシアに対する信徒の交わり(コイノニア)なのです。もはや盲目的に従う信徒ではなく、是々非々の判断が主体的に出きるような信徒作りをしていかねばなりません。

原理的には主体と対象、またはアベルとカインが一体化するところに神が働きどちらも活かされるのですが、事態によってはその逆が成り立つのです。

神を崇めると言いながら、実態は偶像崇拝する王や官僚に預言者や国民までが一体化したらどうなるでしょうか。それは国家の滅亡です。

堕落性を克服していない指導部が権力を握ると、その権力とそれに伴う多額の献金の誘惑に負けて、公的な神よりも私的な欲望に走るのです。これが亨進様の告白によって明らかになったのです。

ちなみに、亨進様の告白(Breaking the Silence)の内容をS氏に話しをしたら、別に驚きもしないで、今頃、何を寝ぼけたことを言っているのかと言われてしまった。

彼の証によれば、彼は毎月200億円を借金してまでも日本の事業体、パッピーを代表してイ-ストガ-デンに運ばねばならなかった。すると、それぞれの事業担当の韓国の先生方がお互いに奪うようにして持っていった。

御前会議とは名ばかりで、アボジが人を信じることを良いことにして、何のことはないただお金の受け渡しであった。

彼はその時この組織は遅かれ早かれ、国税庁から睨まれる存在になることを直感したと言う。


亨進様はTMのことを大変心配し、そのような教会幹部からTMを何とか解放しようとしてけなげに説教をしている。

それゆえ、今や預言者が必要です。亨進様は預言者的な働きをしていると言って過言ではないでしょう。顕進様も今では見直されつつあります。お母様に手紙で箴言している内容は立派な預言者でした。

私が顕進様に抱いていた懸案は、彼のある女性と彼との堕落ですでしたが、それは長男の問題であって、顕進様ではないということでした。

TMもそれを見たわけではなく、ある人の誤報をそのまま信じて、言ったのでしょうというのです。顕進様は相対者を奪われて、死に掛けていたある主体者に別な相対者を紹介して、事態を収拾したと言う。それゆえ、自分で問題を起こしたので、責任を感じて事態を収拾したのだろうということになってしまったと言う。

神山氏も立派な預言者です。相手がTMであろうと、UCであろうと除名(破門)を覚悟で公開討論に挑む姿はルタ-に酷似している。

ルタ-は95ヶ条の討議条を公開したのでした。UCの歴史はキリスト教の2000年の歴史の蕩減ですから、それはありうることです。ルタ-は万人祭司説を唱えましたが、私は万人預言者説を提唱します。

全ての信徒は預言者でなければなりません。それは何処かの預言者的子女様や人物についていくのではなく、自分自身が預言者になることです。

預言者とは神の言葉を預かる者のことです。8大教本や天聖経を毎朝5時に起きて、訓読することは立派なことです。

しかし、そのような信仰者に限って、伏魔殿化した教会に信仰と従順を捧げる人が多いのです。まかり間違うと、律法学者やパリサイ人的信仰観に陥りやすいと言えるだろう。

問題はそのことを通して、自分がどれだけ創造本然の自分になれたのかということである。そして、その本然の自己が神と相対し、そこから湧き出すみ言葉が神より預けられた言葉なのです。それが預言者の意味なのです。氏族メシヤとはそのような人々であるべきなのです。

TFのみ言葉を引用すると、「ただ、従って行く群れではなく自分でみ旨とは何であるかを探し求めて行動する人になれ」と言うのです。

近年、カトリックがプロテスタントの預言者としての意義を高く評価したことは注目に値します。

プロテスタントの出現のお陰で、カトリックも絶えず、自己反省をするようになり、権力の乱用に注意深くなり、自浄能力を持つようになった。

その結果、本来のあるべき与党と野党の関係の如くに。この両者が共に活かされているという認識にカトリック自体がなっている。

何事も独裁は自分を絶えず見張ってくれる存在がいないので、一歩間違えるとおごり高ぶり、独善に陥り、権力の乱用が執行されがちです。教会指導部に自分達を見張ってくれるシステムがないがゆえに、あるいは追い出したがゆえに、UCは伏魔殿化してしまった。

私が導かれて魂が打ち砕かれ、とても謙虚な境地に達した時、神は深く相対してくれた。その時、悟ったことは、神とは上からもの申す神ではなく、万物よりも低い位置から全てを支えている神であった。一般に絶対主体の神の前に自己否定し、完全にマイナスになる時,神は相対すると言われている。

それはその通りですが、私が出会った神はとても謙虚なお方なので、私達も神と同じように謙虚になると、相対基準が合うので、神が相対してくれるということであった。

神は、天使を創造し、ご自分の創造を評論させ、彼らの意見を謙虚に聞きながら、創造されたのであろう。

その時、私はむせび泣いた。神は独裁者ではなく、あたかもワザワザ自分の監視役として天使を創造したかのようであった。私はこれを神の絶対謙虚と呼んでいる。それゆえ、教会も監視役のシステムが必要であろう。

ところで、Hayatologyという聞きなれない言葉があります。ご存知の如く、モ-セが神に、貴方はどなたですかと聞くと、I am that I am.と答えたのです。

日本語では「在りて在る者」という訳語になっています。しかし、ヘブライ語の源語ではI am that I am becoming. 「私は在りて、成ろうとするする者」の意味になるという。

これを統一思想に当てはめると、前者は自己同一的4位基台を意味し、後者は発展的4位基台を意味するのでしょう。

神は単独的存在者として存在自体が初めから完全であり、完成した存在ではあるが、対象である人間(被造物)が完成しないと主体である神も完成しない側面があるのです。

これが神の絶対性と相対性なのでしょう。「講論」には、「神は絶対者で在りながら、相対的ニ性性相の中和的存在であられるので、・・・(p779」という表現があります。

アボジが「完成、完結、完了」と言ったそうですが、それはアボジが神との絶対的関係におい立てた自己同一的4位基台の個人として立てた条件的なものだったのでしょう。

しかし、神の相対的ニ性性相から生じるアダム・エバ・子女という発展的4位基台、すなわち、家庭的4位基台においては「完成、完結、完了」とは言えないでしょう。

このbecoming Godは「完成、完結、完了」に向かって永遠、無限に発展していく神です。そして、これでもう「完成、完結、完了」したと思った瞬間、それはもはや「完成、完結、完了」では無いのです。これが絶対謙虚なのです。

それゆえ、統一家も祝福家庭も今だ発展途上にあるのですから、我々は創造理想に向かって前進するだけなのです。神が創造理想を捨てない限り、我々もそれを捨てることはないがゆえに今起きている現象に何の影響も受け無いのです。




韓国隷属主義の伏魔殿化したUCを改革するために、一人一人が預言者のようになり、神様の創造理想を真の意味で実体化するUCに生まれ変わってほしいなと思われた方はクリックお願いします。
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主権復帰とUC改革とメシヤの神性と人性について

主権復帰に対する議論の中で、クーデターという手段の可能性についての意見がありましたので、そのれについての小生の考えを少し書いてみます。



民主主義世界は王に主権があるのではなく、主権在民ですから市民にあるのです。それゆえ、クーデターは前近代的手法になってしまうでしょう。

残念ながら、アボジの復帰の手法は政界のトップを狙い過ぎたと思います。各国の大統領がいくら原理を受け入れても、カルトを受け入れたがゆえに、レッテルを駆られ、野党とマスコミに攻撃され、次の選挙で落選したらおしまいになってしまいます。公明党の強みは市民の中に創価学会の信徒の数を持っていることです。

主権が民にあるのですから、アボジがダンベリ-で神山氏に言われたように、カイン圏によく仕えて、同情と尊敬と祝福の言葉を勝ち取って来る以外に勝利の道はないことでしょう。

ところで、アボジ自身がTMや子女様達から果たして、同情と尊敬と祝福の言葉を勝ち取ることが出来たでしょうか。

アボジが言われるには、自分の妻や子女のような身近なカインを屈服させることほど難しいものはないという。

神山氏の観察によれば、TMはある時からアボジには従わなくなって来たといっています。

「 しかし、お母様は変わられました。お父様が何度麗水に呼んでもお母様はほとんど来られず、お父様は「お母様がお父様と一つとなっていない」「お母様がなぜお父様に反対するのか。その理由がわからない」と、何度も麗水の修練所で嘆かれました。このような話は、私だけが聞いたのではなく、当時の海洋修練会に参加していた多くの修練生も聞いています。」

何故、TMはこの頃から、アボジに従わなくなって来たのでしょうか。恐らく自我の目覚めでしょう。

今まで、本心が納得せず、むりやり自分を殺し、仕方なしに従って来た世界が何かをきっかけに、本当の自分に目覚めたのでしょう。服従には限界があるのです。

これは神が人間に与えた本性に反する言葉です。神は人間が自分の本心を殺してまでも従うことを願ってはいないでしょう。神は神の真善美愛聖の素晴らしさに人間が自然屈服して「心服・敬服」することを願っているのであって、服従ではないことです。

神山氏はTMを責めていますが、私はアボジの性格にも問題があったと思います。西川先生を初め、多くの純粋で、良心的な信徒ほど躓いているのです。

日本のUC信徒に対する献金のさせ方は決して、全員の同情と尊敬と祝福の言葉を勝ち取り、喜んで献金をしてもらうやり方ではないのです。

なぜなら、喜んで献金をする人もいるでしょうが逆に自己破産し、財産や家までも取り上げられ、恨みを持つ人も決して少なくはないからです。おまけには、ある地区長に火をつけ、自分も焼身自殺する女性までも出てくる始末です。

脅し、弱い者虐め、威張り、傲慢、内容の無い権威主義で、ほぼ強制的に無理やりやらせた献金ではなかったでしょうか。

かって、あるUC本部の副会長はメシヤと神とは違うと言いながらため息をついていました。

これ以上、信徒に献金を要求できないというのです。内部の責任者ですら、ため息をつくのですから、世間のUCに対する印象は推して知るべしです。当然のことながらカルトとして恐れられた存在になったのです。

これは、身から出た錆ではないでしょうか。勿論、これはアボジの性格だけに責任がある訳ではありません。

中間の”長”の付く者達にも責任があります。それは、T副会長のように、アボジの性格を理解し、お叱りは自分がかぶり、一番弱い平信徒の生活を守ってあげる覚悟が必要なのです。

しかし、多くのリダ-は自分が献金ノルマを果たすのではなく、次の下のリ-ダにアボジの言葉を伝えで、責任を果たしたと思っているのです。

すると、伝えられたリ-ダも次のリ-ダに同じように伝えて責任を果たしたと思うのです。そして、全てをかぶるのは末端の食口達なのです。中には愛に溢れた人格中心のリ-ダもいますが、ノルマを達成できないと左遷されるのです。

そのような教会のシステムを見て、嘆いている信徒が沢山います。しかし、その嘆きや叫びをよく聞いてみると、本当はアボジの性格、その強引なやり方に嘆いているようですが、それを言ってしまったおしまいなので、中間の”長”の付く者達がスケイプゴ-トとして悪いといっている面も多々あるのです。

そんな訳で、私はアボジが絶対正しくて、だから、TMが間違いだとか、その逆の立場も取りません。

TFもTMにも神性(絶対性)と人性(相対性)があり、人性までも絶対化すると問題が起きるのです。

しかし、両者の天から与えられた使命は絶対ですから、TFの使命が絶対であるように、TMの使命も絶対だ、というのであるならその通りでしょう。それ以上でも以下でもありません。そこに、おびれやしびれを付けるとややこやしくなり問題が起きるのです。

神の啓示は預言者やメシヤの言葉だけではありません。実態も神の強烈な啓示なのです。それゆえ、人は「実を見れば、木が分る」というのです。

UCを改革しようとすれば、除名を持って対抗して来るでしょうから、気がついた者達が氏族メシヤ活動を展開しつつ、ネットワ-ク教会(コイノニヤ)を築きながら前進する以外に無いでしょう。

但し、神山氏のように除名を歓迎している人もいますからそれも一つの生き方なのでしょう。なぜなら、ルタ-はカトリックから除名されましたがプロテスタントを起こし、神の一つの摂理を担って来たからです。ここは人知を超えていますのでへたなコメントを避けて見守る以外にありません。



脅し、弱い者虐め、威張り、傲慢、内容の無い権威主義で、ほぼ強制的に献金を集めるようになってしまったUCを改革して、本当に主権復帰を目指せる組織になってほしいなと思われた方はクリックお願いします。
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韓国カフェの記事 2016.11.15(ある韓国の先生の魂の叫び)



以下のメッセ-ジが私に届いていました。一読に値すと思われますので、転送います。

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元老牧会者会議の「魔女狩り布告令」を見ながら<全文>

- 鄭ホウン•金ヨンスン夫婦、劉正玉会長の場合


近頃、SNSを通して統一家の内部の様々な情報や主張が込められたメッセージに接する。普段、見たり聞いたりすることのできない内容のありがたいニュースも沢山あれば、その逆に、怒りと恥を同時に覚える情けないメッセージもよく目にする。

最近、筆者が接したものの中で最も良かったニュースは「2016年十月上月を記憶しろ」というメッセージであり、また、良い意味での最も衝撃的なニュースは「韓国協会、ついに魔女狩りに出た」というメッセージであった。

なぜなら、この二つのメッセージは事実(fact)に基づいた原理的真実(truth)を明らかにしてくれたので、読む側にとっては深い響きを与えてられたからである。


それとは反対のものに「韓国元老牧会者会」という団体名で続けて3回も乱発された非原理的で脅迫性のある人身攻撃的なメッセージがある。

そのメッセージが攻撃するターゲットは「金ヨンスン•鄭ホウン夫婦と真のお父様の霊界メッセージ」そして「劉正玉会長と原理本体論」という特定された個人と真のお父様に関する事項である。

このような特定された個人を明示的にターゲットとして攻撃するメッセージを送ったのは「韓国元老牧会者会」と呼ばれる集団の看板の後ろに隠れ、脅威的な語彙を総動員して特定の個人を例に挙げ、食口全員に魔女狩り式の「布告令」を宣言しているようである。

お前達もこの人達のように軽挙妄動すれば出教、または追放や除名処分を受ける事となり、お前達の後孫もそのようになる。

これでは、彼らの素晴らしい権勢を知ることになるのではないだろうか。どこの誰からこのような素晴らしい権勢を受けたのかは分からないが、とにかく苦笑いの出るコメディを見ている気持ちになる。



牛溲馬勃を自称する元老会?

その集まりにはどういった「元老」がいるのだろうか。その名前からは、非常に権威があって、品があるように見えはするが、その名に値するだけの尊敬されている元老たちなのだろうか。それとも、牛溲馬勃を自称するだけの元老たちなのだろうか。

その集まりに名前が上がっている方々全員の満場一致、もしくは過半数でも、このような非原理的内容の布告令を続けて出すことに同意したのだろうか。

ともあれ、この人たちの布告令を通して確認されたいくつかのものは大きな収穫だとしよう。


真のお父様の時代が終わり、真のお母様の時代となったのだから、今ではすべての基準は真のお母様であられる。真のお父様の教えと業績は私たちが承継しなければならない伝統ではなく、すべて捨てなければならない古びた習慣に過ぎず、古部隊である。

新しい酒は新しい皮袋に入れなければならないというものである。新しい酒とは真のお母様の教えであり、新しい部隊とは、お母様が統治される体制と業績であるというのである。

したがって、真のお父様のもとで育てられた36家庭の元老先輩をはじめとする第1世代は全員、お母様のみ言葉や業績がお父様の教えとは違っていたとしても、黙って隅で小さくなっていなければならない。

ただ息だけしていればよいものを何をガタガタ口言っているのかというのである。口は「韓国元老牧会者会」が開けるので、お前達は指示された通りに従っていればよいというのである。

したがって彼らは、お母様が主張する「原罪なく生まれた独生女」を信じ「お父様からは何の教えも教育も受けていない」ということを信じ、お母様が語られるすべての事を信じるというである。

6000年の救援摂理史も、5000年の韓民族の歴史も、韓鶴子独生女を迎える歴史であり、大韓民国の国号も韓鶴子家門に起因したものであり、韓江(漢江を韓江だと思っている様子?)もその為に付けられた名前であるということに拍手喝采してOK!

それどころか、彼らの主張による、ここに列挙することのできないほどの多くのお父様とは違った非原理、反原理のごった煮、無知の低級主張もお母様が語ることはすべて信じ、お父様のものは片付けなければならないということである。

なぜ?お母様はお父様と一心一体一念一和一核となられた方なので!という、つじつまの合わない論理によりそうであるというのである。

お母様がお父様と完全な一心一体となられたのであるならば、なぜ、お母様の言動からお父様とは違った非原理反原理的なことが発見され、感じられ、悩み、抵抗するようになるのだろうか。

さらには、そのことゆえに「統一教会」が二つ三つに分裂し「分裂教会」となってしまったことを見たり聞いたりしながら育つ孫達を見る私たちの心情は、また、どうなのだろうか。

お父様の真の家庭はひとつにならなければならないという言葉も言えないのか。この牛溲馬勃を自称する元老牧会者(怨怒目害者)よ!黙って小さくなって息だけをして生きろと?私たちが口を閉ざせばあの石たちが叫び立ち上がるかもしれないということが、なぜ、分からないのか。

元老牧会者会による布告令第1弾と第2弾は、金ヨンスン師母が受けたお父様の霊界メッセージを集中攻撃した内容であった。

上に言う「十月上月」メッセージに記載されているように、落雷敢闘を書いた孝情アカデミー院長のジン・ソンベと元老牧会者会の代表選手であるヤン・ジュンス、李ミョンジョンらが協会幹部と共に鄭•金夫婦を訪ねて様々な圧迫を加えたということは既に知られている通りである。

ところで、このような脅迫にも少しも動揺せずに反論した鄭•金夫婦に押されたこの代表選手たちが一歩後ろに下がって息を整えた後、第2弾を放ったのである。

第1弾に抜けていたお母様の独生女項目を集中して浮き立たせながら、お母様の原罪なく生まれた独生女雑説を痛烈に非難されたお父様の天上メッセージがむしろ非原理的であると猛非難したものである。

その根拠として、お父様聖和の後、新しい酒を創り、新しい皮袋に入れ始められたお母様が、霊界に対しては20年近く大母様の役事をしてきた訓母金孝南氏の役割を中止させ、清平天宙修練院から退出させた(この話は私たち皆がよく知っている)。

また一方で、20年近くお父様の命で霊界の隅々を見ながら多くの霊界メッセージ伝達の使命を果たしてきた金ヨンスン師母が、お父様聖和後は地上でお父様に侍り霊界メッセンジャーとなり元老先輩たちのメッセージを地上に伝えなさいというお父様の指示を実行中であったにもかかわらず、柳慶錫協会長が鄭•金夫婦を呼んで、お母様の指示であるとしながら霊界メッセージの受信を中止するようにという通知したというのである。

「お母様の命令に従わない者が受ける霊界メッセージは、お父様のメッセージであっても非原理的なものである」という式である。

問題は、代表的な二人の霊界専門家がお母様のこのような措置を快く受け入れたのかという点をよく見なければならない。

まず金孝南訓母の場合、知られているように天上のお父様が「あなたが清平から離れれれば様々な問題が発生し、清平が空っぽになる」と、強く、離れることのないようにされ、最後まで踏ん張ったものの強制的に追い出されることになったと聞いている。

今も金孝南訓母は霊界にいらっしゃるお父様と大母様の指示に従って人知れず精誠を尽くし祈りをささげているという。

協会長に呼ばれて霊界メッセージの受信中止の通知を受けた鄭•金夫婦は、その場で次のように反論したという。(十月上月メッセージ参照)


私たち夫婦は、お父様在世時にも、お父様はメッセージを受けてこいと督促され、お母様は受けないようにと指示された。協会長、あなたならどうするだろうか?私たちはお父様のみ言葉に従順した。お母様の指示に従うことはできなかった。

同様に今もそうである。いや、さらにそうである。なぜなら、お父様が霊界にいらっしゃるので、さらにそうなのである。霊界のお父様の志と地上のお母様の志が違うならば、私たちはお父様に従うしかない。


このようになると協会長は全国牧会者総会で、お父様の霊界メッセージは牧会者と公職者、そして独生女のみが伝達するものであって、誰にでも降りてくるものではないと一喝しながら、そのようなものはすべて非原理的なものであると規定するという公文を全国に送るに至った。

それでも不安であったのか、元老牧会者会が立ち上がり「郭グループが背後でこのような工作」をしているのではないのかと、10月24日の第1弾に次ぐ第2弾(11月初め)でほらを吹き始めた。

どこかで時々聞くような声である。過去、信徒対策委(会長ヤン・ジュンス)時代からこのような人々は、自分たちの理論や形勢が集まれば「郭グループ」を持ち出しながら正常な人に陰湿な攻撃を謀略することが日常化している風土がある。

ここまですれば静かになると思ったが、今回は、36家庭の元老先輩たちが霊界のお父様がきっかけとなった昼餐会を持ってお母様の「無原罪独生女誕生説」を集中糾弾したというニュースと共に、劉正玉会長が末っ子のソウル・サンクチュアリ教会に行って、3日間、原理本体論の講義をしたというニュースが広まり始めた。

この頃になると、元老牧会者会はおそらくパニック状態に陥ったことだろう。そうでなくても、天正宮と協会には食事代は果たしているという表示は必要なので、第3弾を相次いで打ち上げざるを得なくなったのだろう。

今回は、36家庭の元老先輩と劉正玉会長を同時にターゲットに立てれば一石二鳥の効果を得ることができると判断し、ついに第3弾「元老重鎮諸氏に捧げる文」(11月10日前後)の引き金を引いたことは明らかである。

この文には、最近、劉正玉会長がソウル・サンクチュアリ教会において3日間の原理本体論の講義をしたことを中心ターゲットとして訓戒、脅迫、面と向かって批判する中、元協会長、元日本総会長、元財団理事長、姻戚、宗親たちを付添人にしているが、実際には36家庭の元老先輩たちに向かってスリークッションで飛ばした内容である。

韓国元老牧会者会が36家庭の大元老先輩たちを目下の者のように扱いながら一場の訓戒をするにしても、「新しい酒は新しい皮袋に入れる」ということを悟らせた。

さらに、あなた方は古い酒(お父様の教えやその因縁)の入った古部隊に過ぎず、新しい酒(お母様の教えとその因縁)はあなた方とは縁がないので、静かに黙って隅で小さくなって問題を起こさないようにというものである。

もしも口を開いて、新しい酒の味がなぜこのようなのかと古い酒をねだる日にはただでは済まされず、後孫までも怒りを買うことだろうという恐ろしい布告令を発動させたものである。



韓国元老牧会者会、「新しい酒」に酔いしれた

筆者が見るに「韓国元老牧会者会」は、恐らく、新しい酒をすごく飲みすぎたか、それとも、その新しい酒がとても強くて泥酔状態となり、このメッセージを作成したに違いない。

読者の皆さん、その文を必ず読んでみてください。彼らがどのような位相であるからと、36家庭の大先輩の方々に言動を注意しろなどと、何をするにしてもまず報告し許可を受ける手順を踏めなどと、上官や殿様でもできないような事を並べながら号令を連発するのか。

彼らが発表した第3弾布告令を読む人がどのような心情になるのか、一度聞いてみよう。彼らが望む通り、元老たちが何が間違っているのかは明らかなのでこの布告令のごとく、彼らは声をたてることなく生きなければならないと答えるのか。

それとも「韓国元老牧会者会」の正体が何であり、こうも傍若無人に傲慢不遜な言動を全食口が見ている前で36家庭の大先輩たちをはじめとする食口全員に恣行するのかと反発するのかというのである。100のうち95は反発することは明らかである。

ならば、天正宮と家庭連合本部は、近いうちにこの人たちがXマン(偽装スパイ)であると判断することは明らかである。味方だと思っていたが行うことごとく損害をもたらし、人心だけを失わせるとは、誰がそのような下手人を継続雇用するのか?

いくら安い御用人であったとしても使い道がなければならない。韓国元老牧会者会の皆様!新しい酒が良いからとあまり沢山飲み過ぎないようにして、早く、清水、冷水を飲んで正気に戻ってください。そうでなければ退出、兎死狗烹にあいますよ。

劉正玉会長と原理本体論について、彼らはどのように言っているのか。

主な元老の一人である劉正玉前日本総会長が、この混乱した中、なぜ反独生女路線の亨進グループに行って、本体論の講義を許可もとらずに行ったのか。

このような行為は「新しい酒」「新しい時代」を開かれる「独生女であるお母様」の志に大きく反する不忠である。劉正玉会長!あなたは大きな失敗をしたのです。あなたがどんなにお父様から深い信頼と愛を受け、重要な責務を委任されたとしても、それは過ぎ去った過去の話であり、今では独生女であるお母様の時代である!

お父様に関することは、あなたの胸の中に埋めておき、原理本体論も今では用途廃棄処分になったので、あなたの家の棚にでも置いて、静かに息だけしていなさい、御命である!これを破った時には、あなたはもちろん、あなたの後孫たちも怒りを買うことになるかもしれない。

これは、劉正玉一人に限った事ではなく、36家庭を含む元老全員に該当するということを伝えるものである。新しい酒は新しい皮袋に入れるものであることが分かったか、という内容である。

果たして、このようにすることが原理と摂理に一致する正当な処置なのだろうか。筆者は、この文を読みながらあっけにとられた。

目をこすってもう一度読んでみた。お父様と劉正玉会長を思い浮かべもした。この文を発表した元老牧会者の関係者たちも考えて見た。

彼らはお父様に召命されてみ旨の道を開拓してきた数十年の歴史を共有した兄弟であり同志だったが今となっては----ここで考えが止まると、お父様が劉正玉会長と本体論の講義について言及されたみ言葉が思い浮かんだ。いくつか探して引用してみる。



劉正玉会長の場合と原理本体論

●私が、劉正玉が講義したものを全て聞いた。修正するところがない。他の人が手を入れると天理が変更されてしまう。孝律わかったか?(はい)[2008.10.27-天正宮]

●今、統一教を教育する最後の責任を持って教育するのは劉正玉しかない。私がそのように育てて来た。誰も知らない中で。 1 [2009.8.20-天正宮]

●実体論。本体論教育ができる人がいるということがどれほど尊いことか。一人しかいない。劉正玉、簡単なことだ。凹凸の実体を暴いて教育する。[2010.6.8(陽7.19) - イーストガーデン]

●...劉正玉を数十年前から個人的に育ててきた。このような事実は劉正玉も知らない。[2011.7.10(陽8.9) - 天和宮]

●劉正玉!(はい!)本体論教育は劉正玉!(はい)本体論教育は劉正玉が責任をもったでしょう?(はい) - 中略 -今回の話の中で本になかったこと、あなたが言いたい事、先生が話さないようにとしたものまでも全てしてしまいなさいというのです。先生のみ言葉の中で教えなかったことはありません。すべて話しました。【2012.閏3.5(陽4.25) - 天正宮]


このような内容が資料化され、私たちが引用することができることを見ると、劉正玉会長本人のみに与えられた真のお父様のみ言葉と願いと教えは、信じられないほど多いということを誰もが推測することができる。

今、そのようない願いと教えをくださるお父様は天上へと去られて4年が過ぎ、劉正玉会長は地上に残っている。しかし、このような願いを受けた劉会長に、過去4年間、緘口令が下された。劉会長のみが緘口令が下されたのではなく、世界中の食口全員と教会に緘口令が下されたのである。原理本体論を口にしないようにと。

その間に「無原罪独生女誕生論」が横行するとついに聖和4周忌を記念する学術大会では、長女である誉進様がお父様の創造原理の中で「神様は性相的な男性格主体であられるので、私たちは神様を父と呼び、その格位を表示する」という内容について、お父様が儒教文化と東洋の家父長的男性優位論を持った方なので、神様を父とだけ定義したと批判した。

そしてお母様が登場され、神様を「天の父母」と命名することで誤った創造原理を修正したというのである。

それだけではない。お父様の聖和をきっかけに男性中心の父子摂理時代は終わり、これからはお母様を中心とした母娘摂理時代が始まったとし、娘の役割を強調するに至った。娘たちの役割?誉進?仁進?恩進?善進?妍進?情進? ? ? ?

一方、地上で、一時、摂理的役割を受けた優れた息子はすべて追い出し、一方では驚異的な財源を虚空に使い果たしながら、死ぬか生きるかといった世の中の法廷で争い、一方では、母子間で恥ずかしくなるようなことを行い、お互いの異端非難に世の中が嘲笑うといった凄惨な統一家の姿の前に顔向けできない私たちの立場---教会では原理とみ言葉がますます薄れ、雰囲気さえ寒い、数少ない食口さえもますます教会から足が遠のくばかり。それでも教会指導部は上手くいっています。太平聖代億万歳が続いていますと詠唱し---


ああ!これ以上、我慢して待てる状況ではない

このような情勢に苦しんだ劉会長の胸に油を注いだ事件がまさにお母様による10月5日の韓日指導者和合大会での演説だ。「よく見える?皆さんは幸せな人だ。なぜ幸せなのか。独生女である私に会えて---云々-」だっただろう。

ああ!もうこれ以上我慢して待てる状況ではない。これ以上、私が沈黙すると、お父様から罰を受けるかも知れない。

この教会の葛藤と分裂、沈滞の問題は、お父様が遺言として私に語られた本体論教育のみが解決することができる---だめだ。まず、本体論の講義を聞こうとする所から講義を始めてみよう。

家庭連合であろうが、顯進側であろうが、亨進側であろうが、どこであろうが、本体論は境界線がないではないか。私は、願う人にはどこにでも行かなければならない。

たとえ共産党であったとしても。それがお父様の精神ではなかったのか。今、私が本体論を説かなければ、あの石や木、風までもが叫び、立ち上がるだろう!

このように生きて、将来、どうして天上のお父様の前に立つことができるだろうか。このような心情がこみ上げ、劉会長はソウル・サンクチュアリ教会の食口の前に立ったに違いない。

このような劉会長に向かって、どこの誰が石を投げることができるだろうか。どこの誰も、劉会長が本体論講義を特定の人たちにしたという理由で彼に石を投げることは、お父様と本体論に向かって石を投げる行為と同じことである。

そのようなことを韓国元老牧会者会という看板を立てた一部の人々が白昼に行ったのである。これが新型の魔女狩りテロでなくて何なのか。

彼がサンクチュアリの聖酒を飲んだ?それが彼らに本体論を講義することのできる唯一の通路であれば、できないわけがないのではないか。

お父様の原理本体論だけが、独生女の家庭連合、顯進のGPFとUCI、亨進のサンクチュアリ、このすべてをひとまとめに融合することのできる溶鉱炉である。

このようなお父様の原理本体論の使命感に満ちた人の口を塞ごうと乗り出した人々の正体は、果たして何なのか。

無礼にも、お父様の伝統をすっかり無視して36家庭の先輩をはじめとするすべての元老たちの間を離間させようと分裂工作に乗り出した彼ら「韓国元老牧会者会」の正体とその意図は、果たして何なのか。その正解は知り尽くされているのではないのか。

この長くて複雑な事情を盛り込んだ文を整理しながら、韓国元老牧会者会の関係者と天正宮周辺の側近たちに忠心から少しばかりの苦言をしたいと思う。

今のようにお母様が「無原罪独生女誕生論」を続けて押し進めば、教会の分裂は火を見るよりも明らかである。

もしかすると、皆さんの本音はそれを望んでいるのかもしれない。寺が嫌なら僧が去ればよいというように。その後に独生女によく侍り、千年万年、似たもの同士がよく生きていこうとか?

しかし、覚えておくがいい。お母様もいつか地上を去るということを。その時が来れば、おそらく皆さんが最初にお母様を捨て、どこかに消えてしまうか、さもなければ、お父様の前に戻って告白することになるだろう。

とにかく、滔滔とした復帰摂理史の流れに、一瞬、このような波、あのような波、風にのって漂っても、最後に残るのはお父様のみ言葉と教え、その業績と大本流だけである。

コップの中の嵐という言葉があるように、今、私たちは「無原罪独生女」の波風にしばらく揺れているだけである。これが、皆さんのような側近、腕章マンが聞くことのできない食口全体の隠れた民心の流れであり、この沈黙する民心はまさに天心である。

それゆえ、今からでもお母様が無原罪独生女という非原理的妄想を放棄され、再臨主である真のお父様の配偶者、妻の位置に戻っていただけるよう、切なる忠言を捧げることお願いしたい。

皆さんにできなければ、このような文であっても上疏文であると思って、正確に、正直に読んで差し上げることを願う。巧言令色、曲学阿世する者のみが囲み、四方が詰まり、言路が詰まった独生女である。

とても寂しいはず​​なので、このような文でも聞いて、目と耳の開いた万人の真の母として戻って来られる事を心から祈ってやまないしだいである。


後世の歴史のために、この文を書く。

2016年11月15日



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理想と現実(最高の理想を追求すること)

先日、UCを卒業した古参のシックに会い、色々とお話しを聞く事が出来ました。

分ったことは、彼は世俗の世界が恋しくて、UCを卒業したのではなく、もっと高い理想を追求していたために卒業をしたのでした。

UCが説いていることと、実際にやっていることとが余りにも違うので、卒業する人が多いのです。

良心・本心が求める世界と余りにも違うことをやり続けると、うんざりして、もっと精神衛生に良い世界を求めるが故に、卒業するのです。

昔は原理の理想が高すぎて、ついていけなくなって、去って行く人が多数でしたが、今では逆のようです。

UCの現実が、本心が求める神の理想から低すぎ、神を求め、神が願う創造本然の世界を求めるが故に、去ってゆくのです。

UCの卒業生を見ていると、修行僧のように、清く、正しく生活をしている人たちが沢山います。

まるで、彼らは神によって導かれてUCに入信又は献身し、導かれて卒業しているようにも見えます。より神に近づくために卒業をすることは健全な卒業の仕方なのでしょう。

クワバラ、クワバラ・・・




より高い理想を追求するためにUCを卒業する人がいるとは残念なことだ。最高の理想を追求していたかつてのUCの姿に戻ってほしいなと思われた方はクリックお願いします。
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クリスマスコンサートのご案内(芸術文化の力で永遠なる価値観を分かち合う)



 人間の欲望には限りがありませんが、その欲望を満たす物質の量には限りがあります。限られた資源の中で人間の欲望が野放しにされるのなら、地球の資源は遅かれ早かれ枯渇してしまうことでしょう。

しかし、人間には、衣食住,性などを追求する肉体的、物質的欲望の他に、真善美、聖、愛などを追求する崇高本能とも言うべき精神的、人格的な価値追求欲があります。

それゆえ、生きるに必要な物質が獲得された後には欲望の質的転換が必要となります。本来、宗教はこの物質世界の無常を説き、時空を超えた永遠絶対なる世界における価値観を説くものでしたが、いまいち、魅力に欠け、人類を導く力にはなり得ていません。

そこで、私は芸術・文化の力を提言したいと思います。私共におきましては、音楽、特に歌の力を担当することになるでしょう。

そんな訳で11/27(日)に、さいたま市の「市民会館うらわ」のホ-ル(2:00-4:00pm)で恒例のクリスマスコンサ-トを
開催することになりました。どうぞ、多くの方々のご来場をお待ちしています。

ちなみに、今年の私はTime to say good-bye
https://www.youtube.com/watch?v=IWo9dLa_EEE

を歌わせて頂きます。

自分で日本語の歌詞を付けてみました:

苦楽を共に分け合う真の愛 険しき峠 超え行き 
愛する君と行け

み国を目指し 行け 行け 旅だて Time to say good–bye

過ぎし日よ さよなら 新たな未来へ旅だとう 
あなたと共に海原を乗越え

新たな未来へ旅だとう 神共にいませり 荒波を乗り越え 
新たな未来へ旅だとう 気高き理想へ 行こう



以下はパンフレットの内容です:

クリスマスシーズンが近づいてきました。今年も、恒例のクリスマスコンサートを開催いたします。音楽を愛する人々が集い寄って演奏する、楽しい音楽会です。皆様もお気軽にいらして、合唱と独唱をお楽しみ下さい。お待ちしております。

【主催】ハレルヤコーラス愛唱会

プログラム紹介

第一部  合唱

「世界の歌」サンタルチア(ナポリ民謡)、夢路より(フォスタ-作曲)、トロイカ(ロシア民謡)
「メサイア」ハレルヤコーラス 他5曲

第二部  独唱と合唱

独唱 「マイ・フエア・レデイ」より ステキじゃない
「ウエストサイド物語」より どこかに
「友人フリッツ」より わずかの花を
「フイガロの結婚」より もう飛ぶまいぞ蝶々
「アドリアーナ・ルクブルール」より 私は芸術の下僕です
からたちの花  ふるさとは今もかわらず
いとしい人よ、私を死なせて   魅惑

二重唱  ネラ・フアンタジア   タイム・トゥ・セイ・グッドバイ

独唱と合唱  「椿姫」より 乾杯の歌  「メリ-ウイド-」より ヴィリアの歌


11月27日(日)

13:30【開場】/ 14:00【開演】 入場無料
【会場】さいたま市民会館うらわホール
さいたま市浦和区仲町2-10-22 浦和駅西口 徒歩10分 パインズホテル裏 



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恩恵論(どれだけ神と同じ位置に立つことが出来て、創造本性の人格を形成しているか)




キリスト教において、恩寵と言えば、洗礼が罪の許しの恩寵です。すなわち、原罪もこれまでに犯した一切の自犯罪も許されるというのです。

儀式としては一旦水の中に全身を浸し、水から出てくるのです。これは一旦イエスの十字架と共に死し、復活して新生することを象徴的に表わしたものです。

洗礼には客観的恩寵と実存的恩寵があります。幼児洗礼などは本人が実存的な自覚が無くても、客観的には恩寵を受けたのであるから、有効であるとみなすというのです。カトリックやギリシャ正教はこの立場です。

しかしバプテスト教会などでは、あくまでも本人の実存的自覚を伴わない洗礼は無効と見なします。実存とは自分との自覚された係わりです。

UCにおいては、洗礼に当たるのが祝福です。サタンの血統から神の血統に繋がる血統転換です。かって3600万双だったでしょうか大量祝福摂理の時には、聖酒をヘリコプタ-で町中に注ぐとか水道水の水源に流すとか、真剣な話が飛び出していたことを思い出します。

このような祝福は本人の自覚がありませんので、客観的恩寵論に当たるでしょうが、問題はその中身です。いくら聖酒を飲んでも価値観が変わらず、自己中心的生活から神中心の生活へと人間革命がなされないと神が主管できる人間や社会や町にはなりません。

古参の信徒達は祝福を受けるための公式路程があり、三年間の献身生活と霊の子女3人復帰などの条件を満たすことが必要でしたので、実存が伴わない客観的恩寵論のような祝福は受け入れがたいもでした。

原理によると、どんなに修行した聖人でも長成期完成級まで上れても、個性完成には届かないというのです。なぜなら、人類の始祖であるアダムとエバが長成期完成級で堕落した結果、原罪を持つようになったので、それ以上、個性完成に向かって成長できないというのです。

しかしこれは信仰の論理であって、客観論理ではありません。果たして、祝福を受けて、原罪を脱いだはずの誰が個性を完成したというのでしょうか。36家庭の先生から始まって、一体誰が個性を完成したのでしょうか。未だに聞いたことがありません。

それどころか、みんな自己中心で、日本の信徒の献金を食い物にしている話しばかりです。さらに、真の子女ですら、一線を越えた人たちばかりで、未だいるのでしょうが、亨進氏のみが童貞を守ってきたようなお話しです。

個性完成とは創造本然の神性を開花し、育成し、発展させ、神と完全に一体化するところまで成長させることでしょうがそのためには堕落性を脱ぐか、少なくても克服または主管できるところまで行かなくてはならないでしょう。

ところで、アボジは自己主管するとことまで到達したのでしょうか。アボジが何故車の免許を取らないのかというと、免許を取ったら抜かされるのがイヤで、自分が一番でないと、気がすまないから猛スピ-ドを出してしまうというのが理由だという。これは身内の食口が聞いても笑って済まされますが、一般人が聞いたらどうでしょうか。

抜かされるのがイヤで車の免許を取らないというのであれば、それは自分の性格やそこからし生じる欲望を主管出来ているとはいえないでしょう。追い抜かれることを気持ちよく思わない市民は沢山いるでしょうが、彼らは車の免許を持っていても、それを人格で主管して猛スピ-ドをださないように運転しているのです。

親というものは幼い子供と相撲をとる時は、大人になって負けてあげるものです。そして、子供を喜ばせて喜ぶものです。

自分のことを人類の真の父母というからには子女に当たる人類の誰が車で追い抜こうと、気にもかけず、悠然としているのが父母のあるべき姿ですから、こんなことを聞くと人々は不思議に思い、色々と質問してくるのです。

ところで、勇気にも負ける勇気というものがあるのです。これは、けっこう有名なハリウッド映画で、題名はSpiritです。

舞台は1910年の上海で、中国人の武道家のフォ・ユアンジャ(ジエット・リ-)と日本の武道家の田中安堵が対決するのですが、フォ・ユアンジャが最後に奥義を使って相手を倒せるところまで行くのですが、それを使うと相手が死んでしまうので、寸止めで止めてしまったので、自分が負けてしまうのです。観客から見ると自分が負けて見えるのですが、天から見ると自分が勝っているのです。

しかし、それは天と自分だけの秘密として、力尽きて主人公が死んでゆく映画です。

実はその奥義は自分の父がすでに開眼した技ですが全国大会で一位を争う試合で、勝っていたのですがやはり寸止めで二位の位置を甘受したのでした。息子であるフォ・ユアンジャはその理由が分らなかったのですが、自分がその立場に立って初めて分るのです。負ける勇気はとても大切なのです。

私は1969年だったでしょうか、原理を受け入れた「あじろぎ教団」に教会を挙げて行く途中、汽車を待っている時間、みんな暇で相撲を取り始めたのです。

鳥取大の180cm大の荒川氏がとても強くて、九大生を次から次へと倒して行きました。とうとう、小生の出番が来たので、出て行ったら彼は小ばかにしたように私を笑ったのです。身長が160cmにも満たなく、左手がありませんので相手にならないと言うのです。

それを聞いた小生はムット来てしまい、普通の技では倒れないので、秘技「回転」を使ってしまったのです。これは自分から倒れながら地面に着く寸前で掛ける技なので、上になっていた彼は半回転して後頭部をプラットホ-ムのコンクリ-トに打ち付けて、頭蓋骨にヒビが入りました。

その時、久保木会長は何をするのだ!と怒鳴りました。それはまさに神の怒りに思えました。人間的には勝ったように見えますが、天から見ると、自分の人間的なのプライド、面子、意地に負けてしまい、天の宝である有能な神の子に危なく致命的なダメ-ジを負わせるところでした。

これは神と同じ絶対的立場に立てず、相対的な人間的な挑発に相対してしまった結果でした。

個性完成した人は自分を神と同じ絶対的位置に立つことが出きる人だと思います。そして必要とあれば、負ける勇気を持っている人です。

これは無原罪であろうが有原罪であろうが関係ないことだと思います。無原罪の祝福の子女や真の子女であろうと、絶対の位置に立てない人はけっこういますし、有原罪であっても絶対の位置に立てる人は沢山います。

祝福を受けたかどうかで人を判断するのではなく、どれだけ神と同じ位置に立つことが出来て、創造本性の人格を形成しているかで判断できれば幸いなことでしょう。




祝福を受けたから救いが完成したのではなく、どれだけ神と同じ位置に立つことができて、創造本姓の人格を形成できたかを目標とするUC信徒になってほしいなと思われた方はクリックお願いします。
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免罪符(歴史は繰り返すのか)

後輩達から、「日本にだけ課する高額の献金要請を即刻止めて欲しいです。それと献金を中抜きした元・現幹部への調査・処罰・返還命令も必要でしょう。これをしないで、献金を要求し続けるというその神経が分からない。」という声を聞いた。

私は真理の前には先輩も後輩もない、全く平等であると考えています。ちなみに、教会の中だけしか知らない777双には教会から出される方針だけがみ旨や摂理だと思っている人がいる。

これに対して、氏族メシヤや国家メシヤは自分が小メシヤの立場で自分に課せられたみ旨が何であるかを考えて摂理を生み出していかなければならない。

また、後輩である1800双は120ケ国の宣教の経験があるので、我々より、もっと視野が広く、創造的に摂理を展開して行く能力がある。

それゆえ、誰がではなく、何をしているかがより大切である。実際に、世界に出てみると、UC以上に為になることをしている団体は多い。本来なら我々がしなければならないことを彼らはすでにやっている。

残念ながら、UCほど独善的であり、内容の無い権威主義に陥っている団体をオ-ムを除いて他に見たことがない。

神のみ旨と摂理はUCが存在するはるか以前から存在し、再臨主の逝去以後も全人類が救われるまで、延々と続くことを知らない信徒が多い。3年間で天宙復帰ができるといわれて、本気で献身した頃を思い出すと可笑しくなる。

前置きが長くなりましたので、本論に入りたいと思います。



免罪符(歴史は繰り返すのか)

そもそも宗教改革が起きる切っ掛けとなったのはカトリック教会が免罪符を売り始めたからであった。

ところで、UCもそれに酷似した物(例えば祈願書など)を売り始めて、随分と月日がたっている。霊感商法で復帰された信徒達は疑問を抱かないでしょうが、直接原理を聞いて伝道された信徒やみ言葉に相対して長い信仰生活の伝統を持っている先輩の信徒達にはとても違和感を覚えている人たちが多い。

すなわち、キリスト教の伝統や文化を継承して来ている人たちには、そのやり方はご利益宗教に見えるのである。それゆえ、このような方々はこの救済の仕方をUCとは異なって見えるので”清平教”と呼ぶようになった。

救いの摂理を履行しようと思えばお金がかかるのは当然であるので、大儀名文さえ明確に説明すれば、献金するのである。そして、それはそれ以上でもなければ、それ以下でもない。

ところが、清平のお札(免罪符)をかったら、先祖が救われるとか、願いが叶えられるなどと言い出したり、貧乏な信徒には手も出ないような高額な献金額をしないと救われないようなことを言い出すと、お金の無い者は救われないことになる。

しかも、韓国人はタダも同然で、日本人だけには破格な値段を付けると、その基準はいい加減であり、ゆわゆる金儲けの手段に見えてくるのである。

しかも、そのようにして集めたお金が、中抜きされたり、一部の幹部の手に流れたり、個人名義の破産寸の企業に流用されたり、負けた裁判費用などに使われたりすると、サタンへの供え物になってしまうのである。

すると、どうでしょう。当然宗教改革を叫ぶ人々の数が大きくなっていくのです。そのような状況の中で、へたに777双の使命などを言い出すと、せいぜい、ルター役でもやってくれと言われてしまうのです。

これは段々とUCのルターを待望する客観的状況が出来つつあると言っても過言ではないでしょう。

時にはクロノス(平常に流れている人間の時)とカイロス(竹のように節々に当たる神の時)があります。この二つが交わった時に維新や革命が起きるという。イエスはこのような状態を時は満ちたりと言ったのです。

原理によれば縦からなるキリスト教の2000年の歴史をUCが横的に蕩減すると言うのですから、同じような現象がUCの中でも起きているのでしょうが困ったことです。

宗教改革に関しては、2通りの宗教改革が考えられます。一つはUCの中からルタ-的器を持った人物が現れて改革することです。出来れば子女様の中から現れれば、理想的でしょう。

もう一つは、今のような状況をUCが続けると、信徒の心が教会から離れ、自然消滅状態になり、改革が余儀なくされる様になることです。使徒行伝では律法学者のガマリエルがキリスト教の興こりが人から出たものであれば、自然消滅し、神から出たものであれば、神に任せておきなさいというのである。

私が出席した宗教学者の会議ではUCこれ以上伸びることは無く、何処にでもあるような小さな宗教団体として存在するだけであろうと言うのです。公安もUCの二世・三世を見て、危険団体のリストからはずしたというのですから、似たような結論でしょう。

ところで、UCから心が離れた信徒達は何処へ行くのでしょうか。その受け皿として、氏族メシヤの勝利が必要です。各祝福家庭が理想のcommunityを作る以外に道はありません。

1家庭では力不足というのであれば、2,3家庭が連合して、礼拝し、繋がった人たちに喜びと希望を与えることが出来るでしょう。そこで、もうそろそろ、色々な祝福家庭の氏族メシヤ活動の紹介があってもよいのではないかと思います。



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総括論(キリスト教と比較してUCの現状を分析する)



私が宗教学に精通している教授に原理の講義をした時に、この方は大変感動しました。原理の何処に感動したかと言うと、イエスの十字架は失敗だったと言い切ったことだという。

色々な宗教を研究してきたが、キリスト教徒がメシヤである自分の教祖を失敗したなどと公言する教義などを見たことがないというのです。それゆえ、それを解き明かした文先生は偉大だというのです。

しかし、それをやると、今度は自分が同じ立場に立ったときに、自分の言い切った言葉がそのままそっくり返された時に、果たしてそれを受け入れることが出きるかどうかで、人物の大きさが決まると同時に本物であるかどうかも分るというのです。

それゆえ、私も文師が器の大きな方であり、本物であること証明するために、メシヤとその教会の歩みを総括しなければならないであろう。

手順として、講論によるキリスト教に対する総括を見てみましょう。

「イエスの十字架の贖罪により、復帰摂理の目的が完成され、すべての信徒達が創造本然性を復帰し、地上天国を成就できるようになったであろうか。(P179)」というのであるが、同じ質問がクリスチャンの観点からされると、UCでは、再臨のメシヤと言われている文鮮明師の祝福・血統転換によって、「復帰摂理の目的が完成され、すべての信徒達が創造本然性を復帰し、地上天国を成就できるようになったであろうか」ということになります。

それでは、復帰摂理の目的とは何でしょうか。講論によれば、1.個性を完成し、神を中心とした真の家庭、社会を形成し、2.地上天国と天上天国を築き、3.神の善主権の世界を実現することだと言う。

すると、クリスチャンだけでなく、人類までが、それでは一体、真の家庭やそれに続く祝福家庭、信徒の中で、誰が個性を完成したのかと問うようになります。個性完成とは神の心情を体現し、神性に満ち、神と一体化し、神と不可分の生活する人だという。

しかし、食口から見てさえも、どの子女様をみても全員それぞれバラバラで、争いもあり、様々な問題を抱えて、神と一体化している様には見えないという。

そして、人々は再臨主が生まれて一世紀近くもなるのに、何処に地上天国が実現したのかと問いただして来ます。未だ、世界は紛争と闘争に明け暮れているではないかと言うのです。しかも、何時終りが来るのかも見通しがつかない状況です。それゆえ、神の善主権の世界の実現は未だ成就されてはいないのです。

さらに、講論は「贖罪が必要でなく、祈祷や信仰生活をしなくてもよいような信徒は一人もいないのである」と畳み掛けるのですが、この言葉をそのままUCにお返しすると、再臨主の贖罪によって、祈祷や信仰生活をしなくてもよいような信徒はUCの中に本当にいるのですかということになります。むしろ、UCの方が条件祈祷を頻繁にやるし、信仰生活も早朝5時に起きて、訓読会している状況です。

講論はさらに「それでは、十字架の犠牲は全く無為に帰したのであろうか。決してそうではない。もしそうであったとしたら、今日のキリスト教の歴史はありえなかったのである。我々の信仰生活の体験から見ても、十字架の贖罪の恩賜がいかに大きいかということは否定できない。」(P180)と言うのですが、これをUCにそのまま当てはめますと、「再臨主の祝福による血統転換は全く無為に帰したのであろうか。決してそうではない。もしそうであったとしたら、今日のUCの歴史はありえなかったのである。我々の信仰生活の体験から見ても、祝福の恩賜がいかに大きいかということは否定できない。」と言うことになります。

それでは、再臨主は何処まで人類を救済したのだろうか。ある霊能者に言わせると、イエスの十字架の贖罪の恩賜が50%だとすると、再臨主の祝福の恩賜は75%ぐらいだと言う。

うまいことを言うものだな、とは思いますが、神学という客観論理に係わる者として、鵜呑にする訳には行きません。このことを、亨進様によれば、原罪は無いが、遺伝罪や連帯罪や堕落性もあり、自分には罪が全く無いという存在ではないと言う。

そこで、我々ももう再臨主とそれに付随するUCの成した業を総括してみる必要があるであろう。すなわち、成功したものは何であり、失敗したものはなんだったのかを明らかにし、差し引きしたtotalは何なのかを知って、次に向かって前進しなくてはならないからです。

そこで、これについて皆さんはどのように総括するのでしょうか。お聞きしたいところです。

ちなみに、アボジは紀元節までどんなことをしても生かすべきであったという人たちがいます。国進様と亨進様は点滴を続けてでも生かすべきであったと言う。

しかし、金孝南さんは霊界では興進様や孝進様も待っていることなので00日までには、霊界には行かなければならないと言い、点滴をはずさせようとしたが、カトリック病院ではそんなことは許されないので、清平の病院へ戻したと言う。

これに対して国進さまと亨進様は猛反対をして、彼女を部屋から追い出した話しは有名です。結果としては、清平の病院へ移され、紀元節前に霊界に行ってしまったことになります。それゆえ、いくらアボジがすべて成すべきこと成したと言われても多くの信徒にはスッキリしないのです。

なぜなら、イエスもすべてが終わったと言って十字架で息を引き取りましたが、み旨成就ではなかったからです。だから、ここは神学的にはイニグマ(謎)なのです。その後、国進様は清平の清心財団にメスを入れようとしましたが、解任され、すべての調査情報を明らかにしたと言われています。我々は、それを米本ライタ-を通して知ることになる。

蛇足ですが、ある兄弟の「私はあなた達なしで完成できないし、あなた達は私なしには完成できないのです。」 という神の啓示(?)は、この謎を解くカギを示唆しているのかもしれません。

すなわち、「私はアボジの勝利だけでなく、あなた達の氏族メシヤの勝利なくしては完成できない」と解釈すれば、アボジはあえて、我々の責任分担を残して、霊界に行かれたのである、と言うことになります。



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新規伝道とは(自然に喜びを分かち合うこと)

新規伝道を成功されるためには、信徒達が喜びに満ち溢れていなければなりません。その結果、その喜びを人々に自然の発露として分かち合いたい気持ちにならなければ、これはとても難しいことでしょう。

これに関して、哲学者のカントから学ぶものがあります。彼によれば、「人間は人間自身が目的であって手段ではない」というのです。いかなる組織も、いや、国家ですらも人間を手段に出来ないというのです。

それでは、神なら人間を手段にしてもいいのであろうか。み言によれば、神すらも人間のために生きていますから、人間は神が愛する対象、即ち目的であって手段ではないというのです。それでは、神の摂理のためなら、人間を手段にしていいのでしょうか?

すなわち、摂理のためなら人間を犠牲にしてもいいのでしょうかという問題です。一見いいように見えるのですが、摂理は人間の救援摂理というのですから、人間を手段にすることではなく、救済することが目的です。

ところが、この救済という目的を忘れて組織の上から来る命令そのものが知らぬ間に自己目的化してしまい、それがいわゆるノルマとして各々の責任者へ、そして信徒へと課せられ,のしかかって来るのです。こうなってしまうと人間は手段化され喜びはどこかへ行ってしまうのです。こうして、新規伝道は難しくなって行くのです。

更に、せっかく新規の人を教会につれていっても、その人は霊の親から切り離されて、献金ト-クの対象、すなわち、被伝道者は献金のための手段として扱われますから、いろいろな問題が起こってくるのです。

縦的問題としては、霊界は絶対善霊よりもカイン的霊の方がはるかに多いのですから、このような事態を「天法である心情蹂躙に引っかかる」として讒訴してくるでしょうし、さらには、「新規・新規というけれども、結局は献金のための手段ではないか」と言って讒訴してくることでしょう。

横的問題としては、多額の献金ノルマゆえに自己破産に追い込まれ、生存権(憲法25条)まで脅かされることです。ここまで来ると、公安は黙ってはいません。公安は生存権の問題をもちろん気にかけますが、それ以上にその献金がどこに流れていくのかを気にかけているのです。

一番いいのは、その献金によって多くの人々が救われている実態を示すことです。このことを世の人々は「説明責任を果たすこと」といっているのです。

すなわち、UCの全ての無形・有形の財産と活動はひとえに人類救済のためであることを分りやすい形で証すことが急務です。それゆえ、新規伝道の成功はこれが出来るかどうかに掛かっているといっても過言でないでしょう。

例えば、マザ-テレサは質素で簡素な日常生活をしていたと言う。彼女は可能なら、いつも裸足で出かけ、愛の宣教者の会の他の夫人たちと一緒に寮の床の上で寝る。

食事は簡素なもので、水はポンプからの冷水を使うだけでである。読む必要のないときには礼拝の最中でさえ明かりを消す。「貧しい人々のために与えられたお金を私たちの電気のために消費してはなりません。私たちはは絶対に必要な物だけを使うのです」と彼女は説明しているという。

このような生活態度は一般の人々の目にはとても分りやすく、自分と自分たちの教会の維持費のために出来る限りお金を使わないようにして、他者のために献身的に働いていることが分ります。

然るに、統一教会はどうでしょう。一体統一教会のどの建物が、どの部門が目に見える形で人々を救済してしているのでしょうか。

信仰の論理によれば、教会を拡大する事自体がその救済の教義を広めることだから、他者のために生きているのだといいたいことでしょう。

しかし、これを言い出すと、どの宗教もそのように思って自分たちの宗教施設や関連ビジネスを拡大してきたのです。それゆえに、世の人々には自分たちの団体の為か、少数の幹部のために働いているようにしか写らないのです。特に、金孝南氏の個人資産や豪華な生活ぶりは、宗教的救済を売り物にして自分の資産を増やしているように写ることでしょう。

それゆえ、マザーテレサのようなノ-ベル賞ではなく、米本氏からスキャンダルとしてその実態(?)が露にされる始末です。・・・がその一方では、貧しい食口がいて、生活に喘ぎ、しまいには焼身自殺事件が起きている有様です。

もう一つ、人々に分りやすい「為に生きる」例を挙げますと、バングラデシュのグラミンでしょう。彼は、グラミン銀行をつくり、貧しい人々に小口で無担保融資を行ない、多くの貧しい人々を救済しました。お陰でノ-ベル賞を受賞しました。これは本来なら統一教会がしなければならない仕事であると思っています。

目覚めたUC信徒たちが結束して、氏族メシヤの一環としてこのような救済活動を出来ることを夢見ています。




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原罪論の限界と良心論の意義(真の超教派運動をめざして)



キリスト教の最大の問題性はその独善性にあります。

独善性とは何か、と言いますと、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことは出来ない」というみ言葉です。

伝統的なキリスト教の教義によれば、アダムとエバの堕落の結果、人類は原罪を持っているので、無原罪のイエス・キリストを通さないと誰も救われないと説くのです。

それゆえ、中世においては、キリスト教のみを絶対化し、異教徒を打てといって、他宗教を改宗させるために、遠征するのです。十字軍戦争もそうでしたが、アフリカや南米や東南アジアなどはその標的になりました。

先に、宣教師を送り、その後、軍隊が派遣されるのです。日本では、秀吉がそれに気づいてキリスト教を禁止したとも言われています。

原理によれば、全ての善なる宗教は善の主体である神から時代と環境に応じて出てきたものであるという。

したがって、程度の差はあるかも知りませんがイエスだけが道であり、真理であり、命であり、イエスによらないと神のもとには行けない、ということにはならないのです。

排他性が強いといたるところに、宗教戦争を引き起こすのです。キリスト教徒と回教徒の戦争も然りですが、キリスト教内部でもカトリックとプロテスタントの宗教戦争も凄まじいものでした。ペストの流行も加わって、この宗教戦争のおかげで、ヨ-ロッパの1/3の人口を失うほどでした。

イスラム教も右手にコ-ラン、左手に剣というのですから、独善的排他性は避けられません。

かって、イスラム教徒がインドを侵攻した時、仏教徒は一網打尽でした。しかし、ヒンズ-教徒は生き残ったのです。出家の仏教は寺を襲われたら、一網打尽ですが、在家のヒンズ-教は生活・文化そのものがヒンズ-教なので、国民全部を殺さない限り、生き残るのです。

アボジはよく世界の各宗教に呼びかけて、超宗教会議を行いましたが、キリスト教の代表とイスラム教の代表は過去の負の遺産故に、度々、学者達から批判に曝されることがありました。

ところで、統一教はどうでしょうか?超宗教会議に集まってくる宗教家や学者の中には、警戒心を持っている人が多いのです。なぜなら、その教義がキリスト教と同じように、原理以外に救いの道はないという独善性とそれに付随する排他性があるからです。

アボジがスポンサ-になって、旅費も宿代も滞在費も会議にかかる一切の費用を出して、宗教的寛容さを示しているにも拘らず、その教義故に警戒するのです。

即ち、誰であろうと、文教祖の祝福を受けて、血統転換されない限り、原罪は脱げず、何人も天国には行けないという教義があるからです。

以前にも、話しましたが、ガンジ-の著名な弟子が超宗教会議に参加して、こんな小さい宗教団体(UC)が、一切の費用を受け持つものですから、その宗教的寛容さに感銘し、アメリカの統一神学校に客として暫く滞在し、原理を聞きました。

すると、激怒して帰って行きました。彼は、ヒンズ-教徒ですが、原理を聞いて統一教に改宗しない限り、救いはないというという教義だと思ってからです。

超宗教という衣の下に原理への改宗という鎧が隠されていると思ったのでしょう。要するに、本音を知ってしまったのです。

原理によれば、どんな義人・聖人も原罪故に長成期完成級まで行けるが、そこでメシアを迎えて血統転換し、原罪を脱がないと
人格完成は出来ないという。さらに、生霊体級の霊人だけが天国に行けるという。それでは、UCの中の誰が人格完成したのでしょうか?

具体的には原罪の無いはずの統一家の誰が人格完成したのでしょうか? み言葉によると、天国とは三対象の愛を完成した夫婦が
そろって行くところだと言う。アボジの伴侶である韓鶴子女史が堕落したバビロンの大淫婦なら、アボジは単独で天国に行ったのでしょうか。

長女の誉進さんは、父母から愛され無かったという恨みを抱いています。それは、期待した男の子でなく女の子であったからだという。

アボジはがっかりして、あまり喜ばれなかったので、TMまでもあまり愛してくれなかったという。ところが、次に、長男の孝進氏が生まれた時にはアボジもTMもめろめろに彼を愛したという。

韓国文化の中で、彼女は男と女の価値の差を痛感したのです。お陰で、彼女はフエミニストのようになってしまい、独生女論を支持し、唱えています。

このような子女を出してしまったということは、父母の愛が全うされなかったということです。子女の愛は、離婚、不倫、略奪婚、事実婚、不従順などが展開され、大方の子女達が父母の愛に対して、美を返していませんので、全うされていないことになるでしょう。

原理によれば、主体なる神は対象である被造物が完成しない限り神も完成しないという。ならば、真の意味において対象である妻や子女の完成が無くして、父母の完成はあるのでしょうか?

さらに、たとえ、アボジ一人が天国にいけたとしても愛と心情の観点から見て、妻や子女が地獄で呻吟しているのを見て、そこは天国なのでしょうか?

原理は、内的真理ですら論理的、科学的、実証的でなければならないと言いますが、原理は所詮、形而上学的仮説に過ぎません。科学的仮説と言うものは、仮説を立てて、片っ端から実験して行けば、良いのです。

ならば、原理と言う仮説に基づいて実験(実践)した結果、どうなったでしょうか?三つ巴の分裂と献金地獄の状態が出来上がったのです。

世の人々は聖書に習って、これを「実を見れば木が分る」という。即ち、結果から判断して、原理は神話かウリナラファンタジ-ということになってしまうのです。

無原罪の人々の集まりがこの状態では有原罪の義人、偉人、聖人よりも劣ることになります。原理を天法と見なし、地の法を軽んじ、サタン扱いまでした結果、霊感商法などによってカルトに分類されてしまったのです。

この宗教は非常に独善的です。そして、原罪論に固執する限り、排他的にります。したがって、原罪論では普遍的宗教にはなれません。盲目的に信じる限られた人しか入って来れなくなります。

しかし、幸いな事に、アボジは良心は神よりも、父母よりも、先生よりも偉大だと説いているので、他宗教も無神論者も、原罪、無原罪に関係なく、万民が受け入れることが出来ます。

原理によれば、良心作用は良心がその主体である神と授受作用する時に生じるというのですから、本心と同じ意味になります。そして、ここまで来ると、「メシアとは心を尽くし、思いを尽くし、魂を尽くして神のみ旨をなす者」と言うみ言葉が活きて来るのです。ここでは、無原罪のメシアも有原罪のメシアも競争して(?)良心に従ってみ旨に邁進すれば良いのです。

そうすれば、未祝福、祝福の差別は無くなり、ヤコブ(信仰二世)と祝福二世の差別も無くなり、未祝福の高齢の女性達も肩身の狭い思いをせずに過ごせるのです。

さらに、良心に基づいて、円満に相思相愛で結婚している人を差別しなくなるでしょう。だからといって、祝福するなと言っているのではありません。人間の価値をただ単に、原罪、無原罪で決めるな、と言っているのです。人間の内容が良心に従って、どれだけ神の願いを果たしているがもっと大切だといっているのです。

そして、これからは神よりも偉大な良心を中心とした価値観で教会の方向性を転換することです。これが我等が目指す方向性でしょう。

したがって、吉田松陰ではありませんが、松下村塾のような良心塾が必要です。かって、久保木会長を中心に救国連盟をつくりかけたことがありましたが、今では松下聖経塾があり、小池塾まで出来つつあります。

名前はともかくとして、救国連盟のコンセプトを持った組織作りが必要なのです。結果的には、戦略として、従来の原罪論と平行して良心論が台頭したかたちの二刀流で展開されることになるでしょう。




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教わった相手に劣等・恥を感じる韓国と、教わった相手に感謝の日本(韓国人をより深く理解するために)



これはあるSNSにD氏が投稿した内容ですが、韓国人をより深く理解するうえで、かなり参考になる内容なので、少し長いですが転載の許可を得てここに紹介します。




要するに、日本の影響下で経済発展したとか、日本の影響下で技術を教わったとか、そういった状態そのものが多くの韓国人にとって感謝の対象ではなく恥辱の対象であり、「日本から教わった」という状況が「日本が韓国を見下している」というように見えているのです。


日本の場合ですと、教わった相手に感謝をするという考え方が多くの場合で一般的になるわけですが、韓国ではこの部分の発想が私達とは全く異なっているのです。



http://ch.nicovideo.jp/ooguchib/blomaga/ar1129495
韓国独特の「儀式」文化
2016-10-29 22:43155

さて、本日のこのタイトルなのですが、いわゆる一般的な意味での儀式、つまり宗教的な行為に関わる行事などのことではなく、とくに実益などがあるわけではないが慣習として一般的に行われている行事、つまり入社式と入学式、開会式と閉会式、成人式や還暦などと同じようなものを想定してください。


韓国を観察していると、頻繁に異文化の排他行動(国語純化運動など)が行われているが、たとえばフランスが過去に行った英語排除運動などとは違い、その行いがまるで徹底しておらず「目に付くものだけを排除する」「上辺だけそう見せかける」等の不合理なものが多い。


実はこうした韓国の行いは、実際には主目的が排他行動そのものにはなく、そうした行為を行う事によって発生する愛国心や民族主義の発露と同時に、異文化などの影響を排除する事で「相手よりも序列が上になった事の確認」を目的とした「儀式」としての意味合いが強い。


こうした行いは、特に日本関連で発生することが多いため、特に日本人は日本による朝鮮統治と関連付けて考える場合が多く、また韓国側もそう主張する場合が多いが、実際にはその目的として考えると不合理な部分があり、実態は儀式的な意味で行われているものが多い。


※一部を除き、引用記事が日本語の場合には文中にリンク用アドレスとタイトルのみ表記、韓国語のものやリンク切れで参照不能な記事のみ文末にまとめて本文を引用します。
※本文中のリンクは引用の元記事、或いはインターネットアーカイブやウェブ魚拓(別サイト)へのリンクです。



1:排他性の強い儀式文化

まずはこちらの記事から


世界一の韓国造船業のプライドがズタズタ?現場に日本語がまん延
Record china 2016年10月25日
http://www.recordchina.co.jp/a153346.html

2016年10月22日、韓国・イーデイリーによると、日本を抜き世界トップの技術力を備えた韓国の造船業界で、日本語由来の用語が頻繁に使われている。韓国造船業のプライドを守るには、こうした語を整理し「言語の純化」を進める必要があると指摘する声もあるという。

韓国の造船業界、特に現場に日本語由来の語が多く残るのは、韓国が1970年代初め、日本から建造工法や管理方式などを学んだことによる。例えば「満タン」や「いっぱい」の語は、発音も意味もほぼそのまま、どの現場でも聞こえる日本語になっている。また、面積を表す「平米(へいべい)」、体積を表す「立米(りゅうべい)」も、それぞれ「ヘベ」「ルベ」の発音で使われているそうだ。

記事は、「こうした傾向は、造船業だけではなく建設業や製造業など産業界全般のほか法曹界、学界などわれわれの社会全般に広がっている」とした上で、「誤って使われている日本式用語」を20余り挙げている。リストを見ると、「壁」「勾配」「枠」「傷」など日本語そのままの意味を保った語のほか、「足場」「段取り」「かっぱ(防水の覆いなどを指す)」「収まり」「ならし」「じゃばら」「見当」「切れっぱし」など、製造現場から伝わったことがよく分かる語も多い。

造船業の関係者の一人は「いまだに現場のあちこちで日本語を使っていることは、いまだわれわれが世界最高になれていないことを意味する」とし、「言葉や文字から韓国のものに変えなければ、最高のプライドを回復することはできない」と述べた。


元記事
世界1位韓造船業、乾燥ドッグのライン「ダメージ・満タン」日用語満載 イーデイリー(韓国語) 2016.10.22

※本文を読むと「ダメージ」に関しては発音が日本式という事のようです。


記事を読むと、要するに韓国の造船業などの現場では日本由来の業界用語が多数使われており、これは日本に技術を教わりに行った事の名残であり、韓国は技術で日本を抜いたのだから日本語由来の業界用語を排除しようという趣旨の記事です。


これが特徴的なのは、これまで韓国が「日帝残滓」として排除してきた日本語は、要するに日本統治時代に朝鮮へと入ってきた単語であり、「だからこそ排除するのだ」という一応の大義名分があったのですが、これにはその大義名分すらない事例です。


またそもそも、この件だけではなくいわゆる韓国における国語純化運動全般に言えることなのですが、韓国ではいわゆる和製漢字や和製漢語由来の言葉もかなり使われているにも関わらず、そういったものは実は殆ど排除の対象ではなく、事実上この純化運動には言語学的な「純化」としての効果が一切ありません。


ではなぜ韓国はこんな事をしているのかといえば、その答えが今回引用した記事の「業界における言語の純化運動」にあるのです。


上記の記事では、日本語由来の単語の排除の動機を「日本を抜き世界トップの技術力を備えた韓国の造船業界で、日本語由来の用語が頻繁に使われている」「韓国造船業のプライドを守るには、こうした語を整理し「言語の純化」を進める必要がある」としています。


これは非常に韓国的な考え方で、対等の概念が希薄な序列社会の韓国において、相手に何かを教わるという事は、無条件に相手のほうが「序列が上」であると同時に、「弟子が師匠を超えるのは失礼な行為」とされている事もあり、日本語由来の単語を使っているという事は無条件に日本が上なってしまうのです。


しかし韓国では、日本は一時的に武力で朝鮮を併合して優位に立っただけであり、本来「自分達のほうが民族として優れている」という考え方があるため、なんとかして自分達のほうが上位の存在であるとアピールしないといけません。


対等の概念が希薄なので「常に比較し続けないといけない」のです。


要するに、日本の影響下で経済発展したとか、日本の影響下で技術を教わったとか、そういった状態そのものが多くの韓国人にとって感謝の対象ではなく恥辱の対象であり、「日本から教わった」という状況が「日本が韓国を見下している」というように見えているのです。


日本の場合ですと、教わった相手に感謝をするという考え方が多くの場合で一般的になるわけですが、韓国ではこの部分の発想が私達とは全く異なっているのです。


彼らはこの事例でわかるように、経済的に成功したら「日本の影響下にあったことの痕跡」そのものを消すことで、「自分達のほうが上だ」という事を証明しようとしているのであり、だからこそ言語学的に意味が無くとも問題が無いのです。


つまり、学術的な観点に立った言語の置き換えではなく、国粋主義や民族主義の観点に立った「儀式」として彼らは日本語の排除のパフォーマンスを行っているという事になります。
儀式ですから、重要なのは行為そのもので厳密さは必要ないのです。


2:「韓国起源説」と結びつく儀式

上記のように、韓国ではその独特の価値観から来る発想に基き、「儀式的な言語の排除運動」が頻繁に行われているのですが、言語以外でも文化面で同じようなことが行われています。


たとえば、現在韓国では日本酒がじわじわと人気になってきており、韓国社会が民族主義的観点から普及させようとしているマッコリは存在感を韓国内ですらあまり示せていません。


そして自ら日本酒を選んでいるにも関わらず、多くの韓国人が「日本由来の酒」が市場で影響力を持ち始めていることを恥辱(=日本のほうが上位と思われている)と感じており、その解としての対策を行っています。


その対策とは、「韓国産の清酒」を販売することで日本産の清酒の市場を取り戻そうという動きであり、要するに清酒が元々朝鮮でも作られていた=韓国起源として、日本酒市場を韓国起源の清酒で上書きしようとしているのです。


(※1)
京畿道農技院、新米で醸し澄んだ酒「K3」発売 亜州経済(韓国語) 2016-10-25


(実際に販売されている韓国の清酒、韓国産をアピールしているわりになぜか日本語です)

[gift&]大韓民国代表清酒、茶礼酒にぴったり 中央日報(韓国語) 2016-09-01


以前どこかで書きましたが、そもそも朝鮮には伝統的に清酒が存在した記録が一切無く、彼らの主張は古事記に記載のある百済出身の仁番という人物の記録「仁番が天皇に対して神酒(みき)を献上した」と記録されている内容を、「仁番は酒の神として崇められた」と曲解して起源主張しただけのものです。


こうして韓国では、年々若い世代を中心に民族主義が先鋭化傾向にあるため、「日本由来の酒に人気が出てきている」が許容できず、その解決策として清酒(日本酒)の起源を主張し、同時に韓国産の清酒で上書きする事で表面的な結果を変えて受け入れようとしているのです。


これに関しても、実態としては本来の韓国の伝統が一切反映されておらず、実際には「ガワを変えただけで何も変わっていない」わけですから、この行為も定義としては「心情的な納得」を得るための「儀式」となります。


似たような事例として茶道の起源主張も同様に儀式的な意味合いが強いです。
韓国では1990年代中盤頃から緑茶に人気が出始めており、更に2000年代に入ってからは国際的にも緑茶の人気が高まったため、日本由来である事を打ち消すために緑茶や茶道の起源が始まったという背景があります。


(※2)
[インタビュー] 茶道文化の生き証人シン・ウナク、茶を語る ニュース天地(韓国語) 2016.09.23


これに関しても以前どこかで書きましたが、元々朝鮮では李朝時代に大規模な仏教弾圧がありそのときにお茶の文化そのものが廃れてしまっていたうえに、それ以前も朝鮮で主流であったのは固形茶などの発酵を伴う茶葉を前提とした文化であり、根本的に緑茶も茶道も存在していません。


要するに、実態としてはそもそも朝鮮伝統の茶文化は一切反映されておらず、起源主張によって上辺の看板を変えただけですので実際には何も変わっていません、そういう儀式を行っているだけです。


3:「歴史問題」は関係が無い

今回書いたような事例は、予備知識のない多くの日本人にとって、それが否定的な答えになるにせよ肯定的な答えになるにせよ、「何かしらの形で日韓併合などの影響が関係しているのではないか」と考えがちになります。


また韓国側もこうした「儀式」の動機として歴史問題を理由として挙げます。


しかし実態は、意識として多少は歴史問題が考慮に入っている可能性もゼロではないですが、主な動機は彼ら独特の序列意識によって発生する「日本より上でありたい」という考え方が根底にあるのです。


また他にも現在の韓国には、華夷秩序に基く中華思想が「明」滅亡後の李氏朝鮮で変化した小中華思想の影響が非常に強く残っており、この影響で韓国人の多くは「日本は東アジアの序列の中で最も下である」との考えを持っています。


ですから尚更、朝鮮から日本への恩恵は積極的に肯定されるべきだが、日本から朝鮮への恩恵は一切認められない(あってはならない)とする考え方が非常に強く、だからこそこうした儀式を通じて「日本の影響を」を消したがるのです。


このことが解っているかいないかで韓国人に対する対応や反応も大きく変わるでしょう。


この問題を歴史問題を前提に解釈し対応した場合、当然の事ですが否定的に扱えば「差別問題」などにこじつけられてしまいますし、肯定的に扱えば「更なる謝罪要求の口実」を増やすだけになります。


しかし、今回のように韓国側の民族主義や国粋主義に根ざした考え方、対等の概念が希薄な序列社会だからこその考え方が前提として存在し、原因は歴史問題ではなく「現在の韓国の事情に起因している」という事がわかっていれば、こちらのアプローチ方法も根本から変わってきます。


要するに、韓国や韓国の側に立つ人々に都合のいい前提に立つ必要が無くなくなるので、彼らの土俵で論じる必要がなくなりますし、何より第三者にも事情を説明し易くなるのです。


歴史問題に絡めてしまうと、面倒なうえに実態とかけ離れているからこそ何とでもいえてしまいますから、それを防ぐのにも効果的です。


今回紹介した造船業の事例や清酒、茶道の事例は、まさに「韓国独立後の出来事」が影響を与えたことがはっきりとわかる事例なので、特にこの問題を扱ううえでの貴重なサンプルとなります。



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日本のカインアベル問題(内容のない権威主義)

日本のカイン・アベルの問題は一言でいうと、内容のない権威主義といえるでしょうね。

「講論」の書き方にも問題があるように思います。カインはアベルを愛し、仲保とし、屈服し、アベルを通して、み言葉を受けなければならないと言うのですが、アベルがカインに対してなすべきことが書いてはいない。

ヤコブがエソウに侍って、受け入れられる場面で初めて、アベルのあり方が出てきますが、すでに原理を受け入れた教会の信仰生活ではアベルがエソウのような侍りを必要としませんので、昔の軍隊のように上官(アベル)の命令は天皇(TF)の命令なりと言わんばかりの絶対服従を簡単に要求できる環境になっているといって過言ではないでしょう。

しかしながら、アベルと言っても具体的な個々人ですから、個人によって違うことも確かです。周藤先生のようにとても優しいアベルもいれば、昔やくざであったと言われているEさんのように、脅しと凄みで主管しようとする人もいれば、その中間もいる。しかもこれは国の文化によってもヴァリエションがあるようです。

日本でしたら武士道みたいなカイン・アベル観、韓国なら儒教的であろうし、欧米のそれも特色がありましたね。IOWCにいたので、その国のカラーが出てきてまとめるのが大変でした。

「摂理から見たアベルの正道」というみ言葉でアベルのあり方がかなり具体化し、神山さんがダンベリ-でアボジから受けたみ言葉では、アベルたる者はカイン圏に僕の僕から使えて、横的・縦的8段回を勝利して、カイン圏から、同情と尊敬と賛美の祝福を勝ちとり、長子権を復帰して来いと言うのです。

そして、これをやったのはUCではなく、マザーテレサでした。カルカッタ-の貧民によく使え、侍り、彼らから同情と尊敬と賛美の祝福を勝ちとったではありませんか。そして、ノーベル賞を受賞し、本人が貧しい人々と共に葬ってもらうことを願っていたにも拘わらず、国葬されたのです。これがアベルの正道です。

しかるに、UCが勝ち取ったものは何であろうか。ノーベル賞ではなくカルト賞ではありませんか。これでは親が心配して子供を拉致監禁しょうとすることは無理のないことでしよう。

それゆえ、幹部達がこの根本問題を解決しようとしないで、いたずらに首を突っ込んで、途中で逃げ出すのを怒るこるのは当然でしよう。私憤は問題ですが公憤は必要なものであり、神の怒りといって過言ではないでしょう。

私が本部の対策を辞任して野に下ったのはこの根本問題を解決しょうする姿勢を見ることが出来なかったからです。目先のノルマ達成のみに追われて、信徒を脅し、弱い者を虐め、半強制的に献金をさせて、威張っている姿には神の国を見ることは出来ないのです。

それゆえ、マザーテレサのように一人から始め、氏族メシヤ教会を勝利し、理想の教会を作る以外に道はないであろうと考え、合唱団を作り、第九の「喜びの歌」と「ハレルヤコ-ラス」を歌いながら市民運動をしているのです。

ヘルツゴビ-ナで二つの民族が戦争して多大な傷を受けたが、日本人の指揮者と合唱団がそこに出かけて行き、主導して第九を演奏し、彼らも参加し、喜びの歌の「今まで、神の民が戦争し、四散していたが神の愛の翼の下に一つとなり、兄弟となる」というメセ-ジを唄うものですから、彼らは感動し、涙を流すのです。

私はここに神の国を見るのです。ニュースでは彼らは日本に来て、全国で演奏すると言う。私が市民とやっていることはこれなのです。



目先のノルマ達成のみに追われて、信徒を脅し、弱い者を虐め、半強制的に献金をさせて、威張っているのではなく、カイン圏から、同情と尊敬と賛美の祝福を勝ちとり、長子権を復帰してくるアベルがいる組織になってほしいなと思われた方はクリックお願いします。
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