姜賢実先生の声明文に対する元老牧会者会の論述とその矛盾点



姜賢実先生が声明文を発表して清平を去ったのは、まだ記憶に新しいことですが、元老牧会者会が姜賢実先生の声明文に対して「姜賢実会長の信仰の屈折を惜しんで」と題した論述を出していますので、その要約と矛盾点を指摘しておきます。



元老牧会者会の姜賢実先生の声明文に対する論述の要約:


姜賢実会長の最後の声明文中の核心を要約すると次の通りである。

1)女性はメシアになることができない。

2)独生女・お母様の無原罪誕生とお父様の原罪関連のお母​​様のみ言葉を信じることができない。

3)お母様は格上げされ、お父様は格下げするようなみ言葉に同意することができない。

4)真のお母様のみ言葉に「私は神」というみ言葉を信じることができないということだ。

姜会長の主張には大きな誤謬 (ごびゅう/誤まり、間違い)がある。特に女性はメシアになることができないというのがそれだ。

​女性はメシアになることができないということは、女性は真の父母になることができないということと同じだからだ。

メシアだけでなく、実体の神様としておられる方であることを知っているならば、そのような不敬な言葉を声明文に入れることができたであろうか。




これに対する私のコメント:

・ 姜先生は女性は真の父母になることができないという意味でメシアになることができないと言っている訳ではないでしょう。

生まれながらに原罪の無い第三アダムである再臨主が降臨し、堕落圏から真の母になり得る女性を探し出し、復帰して真の母に育て上げるが原理だといっているのでしょう。この元老牧会者は意図的に真意を汲み取らず曲解へと誘導しているような韓国人独特の悪い性格を現しているような論述の仕方です。性格が悪いですね!

・人間は神の実体対象になりえても実体の神様にはなり得ません。原理のキリスト論でイエスは神御自身ではないことを説明しています。(p258)

原理は創造目的を完成した人間の価値を説いているのであって、同じ存在だとは言ってはいないのです。神は永遠、無限、不変、絶対の存在ですが、被造物である人間は一時的、有限的、可変的、相対的な存在です。

人間は存在論的には真逆の存在ですが、価値と言う実存の観点から見ると親なる神においてはかけがいのない存在なのです。この元老牧会者は哲学の基礎が無いので存在と実存の区別が出来ないようです。

存在と実存の区別を分りやすく説明しますと、人間と鰯の頭とは全然違う存在なのですが、アボジが食べ残した鰯の頭なら、人によっては家宝として神棚に手厚く飾っておくほどの価値ある存在になるのです。

・「お母様は格上げされ、お父様は格下げするようなみ言葉に同意することができない」はシックなら誰でも同感です。

お母様は原罪なしで生まれたが、お父様は原罪を持って生まれたといったら、明らかに格下げになるでしょう。この元老牧会者はこれについての説明は全くしていません。

・私から見ると、姜賢実先生はH2のメシア観が自分に共鳴するとこがあるので、信仰の屈折ではなく、信仰を貫く為に取った行為でしょう。

従って、元老牧会者会の方がイカレテイルと言えるでしょう。




姜賢実先生の主張は、元老牧会者会の主張よりもはるかにお父様の願いに近いのではないかと思われた方はクリックお願いします。
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編 集
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「韓国元老牧会者会」声明文に対する私のコメント



少し前に「韓国元老牧会者会」と名乗る人たちが声明文を発表した。要約すると次のようであった。



真のお父様の時代が終わり、真のお母様の時代となったのだから、今ではすべての基準は真のお母様であられる。

真のお父様の教えと業績は私たちが承継しなければならない伝統ではなく、すべて捨てなければならない古びた習慣に過ぎず、古部隊である。

新しい酒は新しい皮袋に入れなければならないというものである。新しい酒とは真のお母様の教えであり、新しい部隊とは、お母様が統治される体制と業績であるというのである。

したがって、真のお父様のもとで育てられた36家庭の元老先輩をはじめとする第1世代は全員、お母様のみ言葉や業績がお父様の教えとは違っていたとしても、黙って隅で小さくなっていなければならない。

ただ息だけしていればよいものを何をガタガタ口言っているのかというのである。口は「韓国元老牧会者会」が開けるので、お前達は指示された通りに従っていればよいというのである。

したがって彼らは、お母様が主張する「原罪なく生まれた独生女」を信じ「お父様からは何の教えも教育も受けていない」ということを信じ、お母様が語られるすべての事を信じるというである。

6000年の救援摂理史も、5000年の韓民族の歴史も、韓鶴子独生女を迎える歴史であり、大韓民国の国号も韓鶴子家門に起因したものであり、韓江(漢江を韓江だと思っている様子?)もその為に付けられた名前であるということに拍手喝采してOK!

それどころか、彼ら「韓国元老牧会者会」の主張による、ここに列挙することのできないほどの多くのお父様とは違った非原理、反原理のごった煮、無知の低級主張もお母様が語ることはすべて信じ、お父様のものは片付けなければならないということである。



これに対する私のコメント:

これは大変興味深い主張で、現在のUC・家庭連合の現実的対応を代弁していると言って過言で無いでしょう。

講論の中に、「神は絶対者でありながら、相対的な二性性相の中和的存在であられるので・・・」(p77)と書かれています。

これはいくら神が絶対的存在であっても相対的な人間を中心に立てて摂理を展開しますと人間の数だけ相対化されてしまうことを意味します。その意味においては大変原理的です。「韓国元老牧会者会」の中心はアボジを絶対化していないことです。

それはUCではタブ-視されて来た観点を堂々と打ち破ってところに大変意義があります。但し、この論法で進めて行くとTMが逝去したら、次の後継者が絶対化され、TMが相対化されることになります。

伝統的なキリスト教会のキリストに対する見解は神性(絶対性)と人性(相対性)の両面がキリストの中にあることです。

この伝統的な観点に立てばアボジにもオモニにもこの両面があることになります。しかし、人間の堕落が神性によるのではなく、人性によって成されましたので、復帰も人性によって成されなくてはならないので、たとえ両面があっても圧倒的に人性面が現実的には展開されることになります。

それゆえ、神は十戒の第一条で、神以外のものを崇拝してはならないと言うのです。

事実、サムエルがサウルを王、即ちメシアに任命する時に、本当の王は神だけであって、サウルはその代理に過ぎないと釘を刺すのです。

これは第一アダム、第二アダム(イエス)、第三アダム(文鮮明師)においても例外ではありません。神は絶対、不変、永遠、無限の存在ですが、人間は相対的、可変的、一時的、有限的存在ですので、人間は神にはなれません。TFもTMも人間ですので、例外ではありません。

それゆえ、神の実体対象と言うのであれば、まだしもですが、”神の実体”と言ってしまうと誤解を生じやすいのです。

残念ながら、UC・家庭連合はTPを絶対化し、神扱いしているように見えます。TPとシックが親子の関係なら、何でも言い合える関係であるべきです。

どちらも人間ですから神から見れば欠点だらけなのです。ところが、韓国の儒教文化では親は子を産んだ時点で王になってしまうのです。育てられたた時点で子は王である親に絶対服従すべき存在になってしまうのです。

TMが神山氏を除名するのは親子の関係ではなく、王と家臣の関係だからです。自分の実の子に対する制裁も王と思い込んで采配をふるっているように見えます。これでは万民一家族の世界を築くことは出来ません。




韓国元老牧会者会や今の家庭連合のようにお母様をあまり神格化しすぎるのは、十戎の第一条の「神以外のものを崇拝してはならない」に反し、神様の本当の願いに反しているのではないかと思われた方はクリックお願いします。
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弱肉強食について(アボジはスーパーマンではありません)



弱肉強食に関してTFの次のようなみことばがあります。


すなわち、鉱物は植物に、植物は動物に、結局は人間にすべて吸収されることを願うのです。ですからすべての存在は、捕まって食べられたり、吸収されたりして、より高い愛の次元に上がり、最後は愛の根源であられる神様の最も近い愛を受ける立場まで進んでいくようになるのです。
(東西南北統一は真の愛で/真の愛は誰もが願う)


すべての万物は、自分の横的なる人格完成の素材なのです。みんな愛を求めて、互いに食べられないと、その道は行けないのです。ですから弱肉強食という論法は、宇宙存亡の原則を無視する結論です。  

君たちも毎日、何かを取って食べているでしょう? 何かを殺して食べているのですね。牛肉を食べるのは、みんな牛を殺して消化していく泥棒なのです。もし裁判にかけるとすれば、一番悪いものが人間です。

なぜかというと、みんな許しもなしに、乗っ取って食べてしまうからです。ですから、よく挨拶してから食べなければなりません。食物は言っているのです。「ワー 悪魔の実体に食べられるのは嫌だー」と。しかし愛の実体に、「早く、早く、食べてください」と言うのです。消化されて、愛の極致に入って、そこで元素が解放されるのです。 (真の自分を探しましょう)

以上みことばからの引用



これは一つの解釈であって、あらゆる分野の科学から検討してみる必要があるでしょう。

TVで鷹が鳩を狩りをする場面がありました。しかし、その鳩は何とか逃げ切りました。 それを見ていた原罪がないという祝福の子女の二世達はほっとして良かったね、と言いました。

誰も高い次元に吸収されなくて残念だとは言いませんでした。これは彼らの自然な本性から出て来た感性だと思います。それではこの自然な本性は神から与えられた本性でしょうか、それとも堕落性でしょうか。私は神から与えられた本性だと思います。

かつて私の村人の1人が自分の飼っている牛を屠殺場に連れて行く途中で涙を流したという。その人は動物の本能で自分が殺されるのを感じとったからだと思ったという。

自分が愛情をかけて育ててきたものを殺すことは、たとえ家畜であっても辛いものです。私の姉は逃げ惑う鶏が捕えられて、断末魔の叫び声をあげて首を切られるのを見て、鶏肉を食べられなくなりました。

そこで、質問ですが、アボジが鶏を捕まえようとしたら、喜んで捕まえられるでしょうか。また、殺される時も叫び声をあげないで殺されるでしょか。私は、捕まえようとしたら、同じように逃げるでしょうし、叫び声を上げると思います。

アボジは釣りが好きですが、魚がアボジだからだといって、自分から釣ってくれといってよってくるわけではありません。

釣れない日もあり、かえってお供の弟子たちの方が釣れる時があります。弟子がアボジより大きな魚を釣ったら大変です。それ以上の大きい魚を釣ろうとして、夜空に星が出るまで粘るのです。お陰で、弟子達は大事な会議に遅れたり、出れなくなったりします。

また、アボジが魚を釣り上げる時、魚は嫌がって必死でもがいて逃げようとします。現実は「早く、早く、食べてください」という感じではありません。

恐ろしいことは何処の宗教も教祖を妄信して、美化することです。メシアとは使命においてメシアであって、アダムと同じ生身の人間です。

アダムとは違ったスーパーマンでもありません。同じでないとアダムの蕩減にはならないのです。アボジはイエスの十字架は失敗の結果だ、と言ったからには、今度はクリスチャンからそういうあなたも失敗者だ、と言われることを覚悟しなければなりません。

H2はTMがアボジに従わない反逆者と見なし、批判しますが、世間の人々、すなわち、人類はアボジは自分の妻も子女達も主管出来なかった人と見なします。結果として、TM,H1,H2の三つ巴の分裂をもたらした人と見なすのです。

ところで、動物を殺すことを嫌がる人たちは動物愛護協会などを設立し、その中には人間は本来動物を食わなくても生きて行けることを説いたりするベジタリアンも沢山います。

困ったことには文化の違いからトンチンカンなことを唱える人たちもいます。捕鯨は禁止するが牛肉食はOKとか、日本や西欧ではイヌを食べたりはしないが、韓国はイヌを食べる文化で知られています。この文化を天の文化として押し付けられたら厄介な事になるでしょう。

なぜなら、一般の日本人には犬は家族の一員ですからさすがに食べるきがしません。にも拘らず、そのような民族と文化を選民と選民文化として崇めているUCは妄信的に見えることでしょう。

幸いそのような文化を天の文化として押し付けられてはいないようなのでせめてもの救いでしょう。



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家庭連合はアヘンか?(光を失った家庭連合の実態)



講論の総序を見ると、「あらゆる宗教は、暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの心霊の行く手を照らし出していた蘇生の光を、時の流れと共に何時しか失ってしまい、今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しくて照らしているに過ぎないのである」(p26)と書かれています。

残念ながら、皮肉な事に、この記述は現在の家庭連合にあまりにも良く当てはまります。「あらゆる宗教」を「UC・家庭連合」に直すだけで、その通りになってしまうのです。

残念ながら「家庭連合は、暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの心霊の行く手を照らし出していた蘇生の光を、時の流れと共に何時しか失ってしまい、今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しくて照らしているに過ぎないのである」となっています。

三つ巴に分裂し、彼らの残骸を見苦しくて照らしているに過ぎないのです。

http://shimpankaihiproject.blog.fc2.com/blog-entry-63.html(応答がまるでヤクザの口調のように聞こえる)

さらに、総序は「初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨ-ロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民がたちが貧民窟から泣き叫ぶ時、彼らに対する救いの歓声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これが即ち共産主義である。神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が初代教会の残骸と化してしまった時、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者達が現れたとしても、無理からぬことである」(p27)と言う。

UCにおいては愛があって優しい教会長は信徒から無理に献金を取り立てることをしませんので、献金実績が下がり左遷され、ヤクザのように無慈悲に脅してでも献金を取り立てる教会長は出世し、長の位が上がっていきます。

献金の財欲の嵐が、全教会を吹き荒らし、自己破産を指示され、飢餓に苦しむ数多くの信徒がたちが貧民窟から泣き叫び、自殺者まで続出している時、彼らに対する救いの歓声は、天からか、地からかは知らねども、顕進派や亨進派と聞こえてきたのであった。なにやら、献金は自由意志で行い、祝福も聖和式もただ同然なくらい安いというのでそちらに行く人もいると言う。

もっと深刻な問題は韓国社会や国家の危機とそれを取り巻く国際情勢が厳しくなっている時に家庭連合が「手を束ねたまま、何の対策も講ずることもせず」(p27)、日本からの献金だけに意識が向いていることです。

UCは地上天国実現のために、再臨主が降臨たと言いながら、いつの間にか地上天国実現に全く無関心になり、祝福を受けて無原罪になり、死後天国に行ければそれで良いような個人の救いのみに関心が行っていることです。

セウル号事件やナッツ姫事件で、韓国人の資質が世界から問われ、法王から「韓国は生まれ変わらねばならない」とまで言われても、教主と教権側が率いる家庭連合は何の社会浄化運動をせず、実体の伴わない人格完成を説いている。

清平で先祖解放の儀式でもすれば、人格完成に近づき、韓国人の資質が変わるとでも思っているのでしょうか。

聞くところによると、日本人信徒からの収入源の一番多い場所が清平だという。従って、現実的には清平は人格完成は二の次で献金集めの場に過ぎません。

さらに、10億円は貰うが慰安婦像を建てつづけ、日本から盗んだ仏像を裁判所が韓国の物だという判定を下す。

しかし、UC教主も信徒もそれに対して何の抗議もしない。それどころか、韓国の世界日報は慰安婦像を建てつづける行為を支持する論調を書く。

日本の教会内部でこれを批判するものは誰もいない。まるで、韓国に日本を売る人々の集まりのようです。特に韓国人牧会者は安倍政権に批判的です。

さらに、崔順実ゲ-トで朴クネ政権が危機に直面しているのに、家庭連合は何の役にも立ちません。マルクスは宗教はアヘンであると言いましたが、この言葉はまさしく今のUC・家庭連合にあまりにも当てはまります。

以下は古参の食口が久しぶりで教会の礼拝に参加した時の感想です。


1、日本UC内で、日本を誇ったり、愛国心を公表することに関し、公言しにくい空気がある。

2、韓国を批判することに関し、公表しにくい雰囲気がある。韓国に限らず、どの国に対しても、良いものは良い、悪いものは悪いとして公正に評価すべきである。つまり教会内言論の自由に懸念がある。

3、最近、日本UCで、一体ここはどこの国の教会なのかとの印象を持った。国籍不明であるとの印象を受ける。礼拝で家庭盟誓、天一国国歌、万歳三唱などがハングルでなざれている。個人的希望としては、日本語で行えばいいのにと率直に感じる。

4、日本UCとしての意思表示がほとんど無く、顔が見えない。日本UCの信徒数、経済力、影響力などから言って、世界UCのあり方や、日本UCの権利について、もっと発信や提言があっても良いのではないか。今まで、ただ従順に従っていくだけだったが、これからはきちんと自己主張していくべきだと思う。日本は安部政権になって、戦後初めて世界に向けて発信を始めて、日米で世界をリードしていこうという明確な意思を表明するようになった。安部政権を見習うべきだ。



残念ながら「家庭連合は、暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの心霊の行く手を照らし出していた蘇生の光を、時の流れと共に何時しか失ってしまい、今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しくて照らしているに過ぎないのである」となってしまっていると思われた方はクリックお願いします。
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多様性の中の一致(UC内における宗教改革の必要性について)

アボジが主催する様々な超宗教的会議がありましたが、God Conferenceは有名でした。

原理講論によれば、すべての宗教は神から出て来たものであり、善を説くという。再臨主が来た時には、霊界の働きでそれぞれの宗教がそれを求めて一つになるという。

事実、そのようなことも多少はありましたが大きなうねりにはなりませんでした。

原理は内的真理も論理的、科学的、実証的にも解明されねばならないと説いていますので、宗教学者が集まりやすいのです。彼らは客観的、学問的観点から原理だけでなく、様々な宗教も例外はありますがほとんど和やかに論じていました。

それは客観的に自分と自分の信仰を観ることが出来るもう1人の自分がいるからです。超宗教において、Unity in Diversityがkeywordになっていたかと思います。

「多様性の中の一致」とでも和訳しておきましょう。一致点は善であり、人々を幸せにすることです。霊界では、内容(善)がない状態で天国に行くとそこは地獄よりも苦しいところだという(霊界の実相)。

UC内部の分派(?)においても、お互いに裁き合うのではなく、「多様性の中の一致」を和気藹々と語れることが必要です。超宗教活動ではそれが出来るのですが、いざ自分達の内部のこととなると神山氏を除名したり、H1やH2の影響を警戒し、ピリピリして見張るというまるで昔の共産主義の社会のようです。

これでは説いていることとやっていることが矛盾していますので、矛盾教会と命名する方が良いでしょう。

せめて、我々だけでもそのようにならないように務めましょう。李ヨハネ先生は「お母様も顕進様もどちらが先に天国を築くか競争したらよいのですよ」と言ったという。

その為には、先ず、自分達の信徒を幸せにし、その喜びを自然の発露として隣人に分かち合えるようにしないといけないでしょう。

残念ながら韓国至上主義の絶対君主制の献金奴隷制では人々を幸せには出来ないでしょう。むしろ国家(公安)から睨まれ、宗教法人剥奪と言うことになるでしょう。

韓国至上主義の絶対君主制を唱える今のUCにおいては、宗教改革が必要だなあと思われた方はクリックお願いします。
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愛について

現在、私の氏族メシアの活動として、さいたま市にある色々な創価学会の支部を訪れて、荒城の月、千の風、広い河の岸辺などを演奏をしてまいりましたがそこの信徒達は大変喜んでくれます。

荒城の月は「春 高楼の花の宴・・・・昔の光 いまいずこ」と言うようにこの世俗世界の無常観を唄っています。聴衆の信徒たちは一応仏教徒ですからとても理解できる歌詞と思い、これを一番初めに歌うのです。

そして最後は「千の風になって」を歌うのです。作曲した 新井氏によれば、自分の友人の配偶者が死に、その友人は大変落ち込んでいたという。

どのようにして慰めたらよいのか、思案に暮れていたら、千の風の英詩が目に留まったという。その内容は死者が生きている人を
千の風になって慰めているという。朝は鳥になって、あなたを目覚めさせ、夜は星になってあなたを見守るという。

この詩のメッセ-ジは仏教思想に通じるものがあります。釈尊によれば、人はみんな大宇宙の生命に還元され、大宇宙の生命体そのものになるという。そして、これが釈尊が開いた悟りの境地なのです。

すなわち、小我は消えたように見えますが大我(大宇宙の生命)となって永遠に息づいているというのです。

NHKのクロ-ズアップ現代によれば、千の風は多くの人々の心に癒しを与え、多大なる社会貢献をしているという。

以上が私が意図したメセ-ジでしたが、聴いている人は誰も気づきませんので、後から解説しますと、「なるほど」と言って驚きます。

ちなみに、歌い手は私だけではなく、元食口と二人の歌姫を創価学会から選び、カルテット(四重唱)で歌いますので、大変、人気があり、あちこちの支部から声がかかります。このように、歌には宗教、国境、民族の壁を越える力があります。


スコットランド民謡の「広い河の岸辺The Water Is Wide」は、昨年NHKの朝ドラのマッサンで有名になり、クミコの歌としてあちこちで歌われていますので、我々も歌っていますが歌詞を変えて歌っています。


「愛の始まりは 美しく 優しく 花のよう  時の流れに 色あせて 朝露と消えてゆく」が歌詞ですが、これは私どものどの家庭にも当てはまりませんので、「愛の始まりは 美しく 優しく 花のよう 、時の流れに 色栄えて 永久に輝く」と歌いますと聴衆の中には歌詞の意味が分って感動して、喜んでくれる人達もいます。

ここで、愛(エロスの愛VSアガペの愛)についての解説をしてみましょう。


エロスの愛:

1.人間的愛
2.肉体的愛 
3.自己中心の愛、同時に最も崇高な自己主張の形態
4.必要感によって獲得し、所有せんとする意志
5.自己のための、上昇せんとする人間の努力
6.対象の価値を認め、それゆえに対象を愛する


アガペの愛:

1.神的愛
2.精神的愛(隣人愛)
3.非利己的な愛、ゆえに惜しみなく自己を消費する
4.無条件に与え、与えたことをがゆえに所有を主張しない
5.上から自己を与えんとして降りてくるもの
6.先ず愛し、したがって対象の価値を求めず、かえって対象の中に価値を創造する


以上の対比から分りますように、愛の始まりはお互いに対象の価値を認め、それゆえに愛するのですが、やがて、高齢になり、大変な介護が必要となり、しまいには自分が誰だか分らなくなっていく相手を変わらない愛で接してゆくにはアガペ-の愛が必要です。

ちなみに、高村光太郎は気が狂って行く智恵子を変わらない愛で、愛して行く生き様はアガペ-の愛ということになるでしょう。

私どものコンサ-トの第一部は人間的愛を中心に歌う人が多いですから、エロスの愛です。「椿姫」はその典型的な物語でしょう。

これに対して、第二部はメサイア(メシア)ですから、神の愛(アガペ)です。人間が罪を犯し、神から愛される価値を失い、自己中心が世を支配する状態から、神、自ら人間イエスの体をまとって、その罪を贖う為に自己を惜しみなく消費すると言うのです。


しかしながら、創価学会のある支部での金という人のお話しは、一生懸命信心をしたら、家も嫁も手に入ったというご利益のお話しでした。

これはエロスの愛の4と5に該当する世界でしょう。統一教会も清平で先祖解放のために00額を献金した00の恵を受けたというのも似たようなものでしょう。

否定はしませんがアガペ-よりもエロスの価値観が主体となりますと免罪符と同じような堕落となるでしょう。

但し、6の「対象の価値を認め、それゆえに対象をあいする」は需要と供給の原理ですから、これを否定することは出来ません。

そして、この二つの愛(エロスとアガペ)をどのように統一していくかが人類の課題なのです。




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UCは救済の実態を世に示しているのだろうか



私がUTS卒業の直後、アボジが再臨主であることを客観的に証明しようとして取り組んでみたが、残念ながら、それは不可能に近いという結論に至りました。

宗教とはそもそも実存的なもので、科学的、実証的なものではないということです。

イエスをメシアとして信じたら、救われたとう人もいれば、ブラジルでは、イエスではいまひとつでしたが、創価学会に入信したら救われたという人も沢山いて、土壌がカトリックなのに創価学会が破竹の勢いで伸びているという。

極端な例として、オ-ムや自称、イスラム国などを挙げることが出来ます。

客観的にはどう見てもサリンによる殺人カルトに見えるオ-ム(現在はアレフ)に年間500人が入信するという。イスラム国は客観的にはテロリスト集団に見えるのだが、年間1万人の若者が世界中から押し寄せて来るという。

日本でも北大卒業生が何だか知りませんが彼の実存がスパ-クして、イスラム国へ飛んで行きました。これは他人事ではなく、我々UCも客観的にはカルトに見えるということです。

霊感商法、六マリア、ヤコブの知恵(heavenly deception)等々、数え切れない実例が今なお、続いているのです。加えて、統一家の分裂は致命的です。み言葉によれば、「実態(体)はみ言葉の数十倍の価値だある」という。言い換えれば、「実を見れば木が分る」と言う事になる。

私が「統一教会のメシア観」という論文を書きました。

http://katsuwatanabe.blog.fc2.com/blog-entry-2.html

それを書くにあたって、ICPAの神学者会議の中で、人類のメシアなるものを客観的に証明できるかどうかを聞いてみた。

しかし、桜井先生もかの有名な松村先生(元東神大教授)、その他大勢の神学者もいたが、それは信仰告白の問題であって、科学的、実証的に証明する分野では無いということであった。

要するに、信仰とは実存的なものであるということである。また、どんなに頑張っても原理は所詮形而上学的仮説に過ぎないという結論であった。

この仮説に基づいて我々は半世紀以上も実践(宗教社会学的実験)をして来た結果が、今日の現実なのだから、当然、「実を見れば木が分る」と言われるのです。

残念なことに、日本における信徒に対する価値評価がどれだけ堕落性を抜いで人格完成に近づいたかではなく、どれだけ献金したかである。

清平における420代の摂理が打ち出された時に、まともな食口は「UCはとうとう旧約以前の供え物時代に逆戻りしてしまった」とため息をついていた。

そんな時に、タイムリ-に亨進様が宗教改革に立ち上がったものだから、多くの食口が共鳴しだした。

カトリックは近年になってルタ-の宗教改革を高く評価したことは注目に値する。お陰で、形骸化してしまったカトリックの内部から改革が起き、カトリックが立ち直ったので、高い評価を与えたのである。

UCも李ヨハネ先生が言うもでもなく、TMもH1もH2もどちらが神の国を先に築くか競争したらよいのです。

この方々のアボジ観はそれぞれ違いますが、それはそれぞれの実存を尊重することにして教義問題で宗教戦争をしない方がはるかにましである。

最後に、以前投稿した日記ですが、東神大卒のM牧師が三度も読んだというので、再度投稿しておきます。この内容は私、そのものなので私の実存(生き方)が良く分ります。


新規伝道を成功されるためには、信徒達が喜びに満ち溢れていなければなりません。その結果、その喜びを人々に自然の発露として分かち合いたい気持ちにならなければこれはとてもとても難しいことでしょう。

これに関して、哲学者のカントから学ぶものがあります。彼によれば、「人間は人間自身が目的であって手段ではない」というのです。いかなる組織も、いや、国家ですらも人間を手段に出来ないというのです。

それでは、神なら人間を手段にしてもいいのであろうか。み言によれば、神すらも人間のために生きていますから、人間は神が愛する対象、即ち目的であって手段ではないというのです。

それでは、神の摂理のためなら、人間を手段にしていいのでしょうか?すなわち、摂理のためなら人間を犠牲にしてもいいのでしょうかという問題です。

一見いいように見えるのですが、摂理は人間の救援摂理というのですから、人間を手段にすることではなく、救済することが目的です。

ところが、この救済という目的を忘れて組織の上から来る命令そのものが知らぬ間に自己目的化してしまい、それがいわゆるノルマとして各々の責任者へ、そして信徒へと課せられ,のしかかって来るのです。こうなってしまうと人間は手段化され喜びはどこかへ行ってしまうのです。こうして、新規伝道は難しくなって行くのです。

更に、せっかく新規の人を教会につれていっても、その人は霊の親から切り離されて、献金ト-クの対象、すなわち、被伝道者は献金のための手段として扱われますから、いろいろな問題が起こってくるのです。

縦的問題としては、霊界は絶対善霊よりもカイン的霊の方がはるかに多いのですから、このような事態を「天法である心情蹂躙に引っかかる」として讒訴してくるでしょうし、さらには、「新規・新規というけれども、結局は献金のための手段ではないか」と言って讒訴してくることでしょう。

横的問題としては、多額の献金ノルマゆえに自己破産に追い込まれ、生存権(憲法25条)まで脅かされることです。

ここまで来ると、公安は黙ってはいません。公安は生存権の問題をもちろん気にかけますが、それ以上にその献金がどこに流れていくのかを気にかけているのです。

一番いいのは、その献金によって多くの人々が救われている実態を示すことです。このことを世の人々は「説明責任を果たすこと」といっているのです。

すなわち、UCの全ての無形・有形の財産と活動はひとえに人類救済のためであることを分りやすい形で証すことが急務です。それゆえ、新規伝道の成功はこれが出来るかどうかに掛かっているといっても過言でないでしょう。

例えば、マザ-テレサは質素で簡素な日常生活をしていたと言う。彼女は可能なら、いつも裸足で出かけ、愛の宣教者の会の他の夫人たちと一緒に寮の床の上で寝る。

食事は簡素なもので、水はポンプからの冷水を使うだけでである。読む必要のないときには礼拝の最中でさえ明かりを消す。「貧しい人々のために与えられたお金を私たちの電気のために消費してはなりません。私たちはは絶対に必要な物だけを使うのです」と彼女は説明しているという。

このような生活態度は一般の人々の目にはとても分りやすく、自分と自分たちの教会の維持費のために出来る限りお金を使わないようにして、他者のために献身的に働いていることが分ります。

然るに、統一教会はどうでしょう。一体統一教会のどの建物が、どの部門が目に見える形で人々を救済してしているのでしょうか。

信仰の論理によれば、教会を拡大する事自体がその救済の教義を広めることだから、他者のために生きているのだといいたいことでしょう。

しかし、これを言い出すとどの宗教もそのように思って自分たちの宗教施設や関連ビジネスを拡大してきたのです。それゆえに、世の人々には自分たちの団体の為か、少数の幹部のために働いているようにしか写らないのです。

特に、金孝南さんの個人資産や豪華な生活ぶりは、宗教的救済を売り物にして自分の資産を増やしているように写ったことでしょう。

それゆえ、マザーテレサのようなノ-ベル賞ではなく、米本氏からスキャンダルとしてその実態(?)が露にされる始末です。がその一方では、貧しい食口がいて、生活に喘ぎ、しまいには妻が夫を絞め殺す事件が起きている有様です。

もう一つ、人々に分りやすい「為に生きる」例を挙げますと、バングラデシュのグラミンでしょう。彼は、グラミン銀行をつくり、貧しい人々に小口で無担保融資を行ない、多くの貧しい人々を救済しました。

お陰でノ-ベル賞を受賞しました。これは本来なら統一教会がしなければならない仕事であると思っています。

目覚めたUC信徒たちが結束して、氏族メシヤの一環としてこのような救済活動を出来ることを夢見ています。



救済の実態からかけ離れてしまった今のUCの現状を憂い、目覚めた信徒たちが救済の実態を世の人に示すことができるようになったら良いなと思われた方はクリックお願いします。
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それでもアボジは立派なメシヤです



アボジを 信じるか!信じないか、それだけです。とてもシンプルだと思います。という意見もあります。

この思考パターンはall or nothingの思考パターンです。但し、それが悪いと決め付けているのではありません。

むしろ、選択の問題でしょう。私はこれに対して、トータルで物事を見るのです。分りやすい例を挙げると、毛沢東です。

初めは絶対者でした。しかし、晩年には紅衛兵による文化大革命などで、恐怖の時代が到来し、評価が変わって来ました。

しかし、プラス、マイナスでトータルで中国の革命全体を見ると、毛沢東をなくして、中国の共産革命はなかったと言うのです。

それゆえに彼は色々問題はあったが中国の共産革命の父だという。ここでのものの評価は誰がではなく、何をしたかで評価しています。

これはとても大切な評価で、アボジも同じようなことを言っていましたね。「先生はメシアだから何もしなくて良いという訳には行かないのだよ。何をなすかが最も大切なのだよ。」と。

「誰が言ったかよりも何を言ったか」はとても大切です。カトリックの偉い司教達が宗教の権威の下に、太陽が地球の周りを回っていると言っても、事実がガリレオが言うように地動説が正しかったのです。

これは神でも同じ事で、もし神が天動説を唱えれば、地動説を知っている小学生に「神様って、たいしたことはないのだな!」と言われてしまうでしょう。

アボジも同じなのです。成して来た事で評価されるのです。すでに話しをしましたがアボジの中には神性面と人性面があるので、絶対的側面と相対的側面があるのです。

人性面においては、正しいものもあれば、そうでないものもあるのです。特に、ビジネスに関してはトンチンカンなものが沢山あるのです。よれゆえ、国進様ですら、「アボジの言う通りにやる駄目になる」と言うのです。

「躓く」と言う言葉は基本的に人間を絶対化したら起きてくる概念です。メシアとは「油を注がれた者」と言う意味です。旧約聖書には39人もいますが完全なメシアは1人もいません。だからと言ってメシアにならないということにはならないのです。

十戒の第一条は神以外のものを崇めることは偶像礼拝になると言うのです。それゆえ、メシアがトンチンカンなことをしますと預言者に糾弾されます。預言者たちは人間であるメシアに躓いたから糾弾しているのではないのです。

メシアが自分が人間であることを忘れて、神の権力を乱用しないように見張っているのです。

私はメシヤの使命は文王朝による絶対君主制を建設することではなく、万民一家族の共生共栄共義主義国家を建設することだと理解していますのでそこから外れたら賛成できません。

また、韓国の気象庁がダウンバーストが起きるので、飛ばないように忠告しているにもかかわらず、それを無視(?)して自分が乗っているヘリが墜落し、自分と家族を含めた同乗者を危険に曝し、食口の血のにじむような献金で購入した50億のヘリをオシャカにすることには賛成できません。

勿論、聖本を3000万で売りつけることにも賛成できません。

しかし、賛成できるものもあります。それは血統転換です。そしてこれがアボジの専門分野なのです。それだけで十分なメシアです。それゆえ、私のスタンスは是々非々です。

メシアだから何をやっても良いというスタンスと取りません。何をやるかが最も大切なのです。そんな訳で、アボジは欠点も大きけれどもトータルで見て立派なメシアです。

「私もメシアになろうとしているし、あなた方もメシアにならなくてはならない」というアボジのみ言葉には大賛成です。万人メシア説ですから、ここには偽メシアはいません。

みんな競争して万民一家族の共生共栄共義主義国家を建設をすればよいのです。その目的が共通であれは他宗教も神霊に導かれて統一協会になるでしょう。



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自虐的信仰の論理の問題(UCの自虐的信仰とクリスチャンの実存的信仰の違い)



アボジの子女達が、堕落したり、略奪婚や事実婚、更には母子の分裂、対立を展開している原因を、我々の祝福の子女達を守るために真の家庭が犠牲になって、蕩減したからだと言う信徒達がいます。

これは実存的信仰の論理のつもりとして言っているつもりでしょうが、蕩減の意味を履き違えているように見えます。

イエスが人類の罪の贖罪(蕩減)として、十字架に掛けられ、一命を神に捧げた。しかし、神を恨まず、自分を十字架に掛けた人たちまでも恨まず、逆に彼らを愛し、彼らの罪までも愛して神に対する信仰を全うされたというのです。

ここで、大切なことはイエスが女性と堕落したから贖罪(蕩減)になったというのではないのです。

そんなことをしたら、人類の罪の蕩減どころか、サタンに讒訴されるただの堕落になってしまうでしょう。

そして、これはと真の家庭の子女たちといえども同じことなのです。

逆に、命に換えても貞操を守り通したなら、蕩減になることでしょう。貞操の内的意味は、肉体の貞操を守ることを通して神に対する信仰を守り抜くことです。なぜなら、男女を問わず、それは神に捧げるものだからです。

このように、蕩減の内容になっていないものまでも、自分達、信徒の至らなさのせいだというと、電信柱の背が高いのも、郵便ポストが赤いのも私のせいだと言っているようなものです。私はこれを自虐的信仰の論理と呼びます。

これはクリスチャンの実存的信仰の論理とは似て非なるものです。クリスチャンの場合は、2000年前のイエスを十字架に掛けたのは自分の罪のせいであると言うのです。

客観的には物理的に2000年前のイエスを十字架につけるのは不可能ですが、実存的には可能なのです。

それはイエスを十字架に付けた人々の自己中心性、不信、嫉妬、妬み、色欲、情欲、残虐性、その他、堕落性から出てくるありとあらゆる罪深い欲望とその行為は程度の差こそあれ、現在の自分にも原罪としてあると言うのです。

このような罪深い思いや行為は時間を越えて、自己同一化できるというのです。これが実存的罪悪意識です。

このクリスチャンの実存的罪悪意識と同じ罪悪意識を食口がどうしても現在の統一家と共有をしたいというのであるならば、「他人のなりふりを見て、わが身を直せ」ということになります。

すなわち、統一家の子女が、堕落したり、略奪婚や事実婚、更には親子の分裂、対立は何処の祝福家庭に起きても不思議ではないと言うことです。

別な言葉で言い直すと、いくら原罪がないといっても堕落性を脱がない限り、同じことが起きるということです。

これがUCの「自虐的信仰の論理」とクリスチャンの「実存的罪意識」との違いです。

それでは、客観論理に基づいた統一家の子女における問題の現実的な理由は何であろうか。

そのヒントは亨進様の証しの中にあるようです:H2が自分の子女達に「お前達は王宮でもてなされ、挨拶され、何もしないのに尊敬されたが、それは悪魔になる道である」と言う。

それゆえ、自分の子供達を連れ出して、仕事をさせ、自分の手でお金を稼ぐように教育しているという。

ナンスクさんの書かれた本には、夫だった孝進様が教会の献金で生活をしていたために、経済的に自立できない人間になってしまったという。

要するに、亨進様によれば、自分自身や兄や姉達ががそうであったように、王宮に自分の子女である信俊様を預けておくと、食口から持ち上げられ、下にも置かないように侍られ、チヤホヤされ過ぎて、それが当然と思う甘やかされた人間になってしまうことを恐れた訳です。

分り易く言いますと、ナッツ姫みたいな人間になってしまうということです。アボジが子女教育に失敗したと言った言葉は有名です。

そして、TMもやはり、子女教育に失敗したと言ったのです。この言葉は現実をよく表わしている言葉でしょう。

これについてはすでに以下の題名で投稿していますので参考にしていただければ幸いです。

この問題については以前に投稿した「原理の儒教的受容論」にも書いてありますので参考までに再投稿致します。


二世に希苑教会に行って帰って来た二世の韓国人(婦人)が私の家に立ち寄った。

それは長男の嫁が韓国人なので、時々尋ねてやって来るのです。私が今日の礼拝はどうでしたかと聞くと、突然強い語調で怒り出した。

説教者は日本人二世だそうですが、TMが統一家の子女達の問題を批判してはならない。

なぜなら、TFもTMもカインの子女である祝福家庭を愛しなければならなかったので、自分の子女達を教育する暇が無かったからだと言ったという。

彼女の怒りの内容は:

1. 自分の父は高校生の時に原理を聞いて献身し、地方の貧しい教会の教会長だったので、子供たちは食べるのもママならない生活だったという。

お陰で、大学に行けず、高卒で働きに出て、せめて弟だけでも大学に行かせようとして、婚期を遅らせてまでも送金してあげねばならなかった。然るに、統一家の子女達は執事までついており、高級車を乗り廻していた。

すなわち、地方の教会長達は自分達の子女を犠牲にしてまでも、統一家に貢いで来たというのです。

2. 彼女の母は自分の子女を家に残したまま、教区長の子守の為に働いていたので、長女の彼女が3人の弟妹の面倒を見なければならなかった。

3. 韓国社会は上司が部下の家族の為に犠牲になるというシステムは無く、その逆のシステムになっているので、下層階級の教会長達の生活は惨めである。

4. 彼女の父は高卒で献身したため、原理を聞いても献身しないで、大学を出てから来た者はその間、信仰の訓練は無いにもかかわらず、学歴が優先されて、彼らの上司になって行く。

5. 彼女の父は年齢制限の為、退職させられ、住む家も無く、次女のアパ-トに老女の妻と共に居候の身であるため、彼女は日本で働き、老いたる父母の為に送金している。

6. 然るにTMと子女様たちは宮殿や豪邸に住み、王族の生活をしている。それゆえ、家庭を犠牲にして尽くしてきたのは、下層階級の地方の教会長達であって、統一家ではない。

子女様たちはそのほとんどがお金を積んでハバ-トに入学し、多額の学費を使うことが出来ましたが、彼女の妹達は高校に通うだけでも大変であった。それゆえ、TMの発言を聞かされた時、積もり積もった感情が爆発した。

7. 日本人信徒の大多数はTMを無条件に崇め奉るが韓国の信徒達の中には逆に、腹を立てたり、怒りを爆発させたり、恨みを抱き、少なくても敬服してはいない人々がけっこういる。


小生のコメント:

以前にも話しましたが、統一神学校の権威ある宗教辞典に中に統一教会の特色の一つとして、教祖と幹部達が裕福な生活をしているが平信徒たちの生活水準は低いという。

また、別な資料によると、韓国では、「父母」とは子供の為に自分を犠牲にして尽くし、愛情を限りなく注ぐ存在を意味するのではなく、家族の中の王様であり、子供達が忠孝を尽くすべき存在である。

これは李王朝時代に形成された朱子学の親子観と言ってよいであろう。親は子供を生んだ時点で権威をもち、生んで育ててもらった子供たちは親に絶対服従し、自分を犠牲にして忠孝を尽くすことによって、家庭の秩序が保たれ、社会秩序が保たれるという。

ちなみに、シムチョンという娘が盲人である父を助ける為に、自分の身を漁師に売り、船から荒海に飛び込む物語がある。これは、一見美談に見えるが一方的である。逆に父が盲人の娘の為に荒海に飛び込む物語も必要であろう。

セウル号において、父母の立場ある者達(船長とそのクル-)が子供の立場に立つ学生達を犠牲にして逃げ出す訳だが、彼らの精神構造は彼らの儒教観を如実に示している。

統一教会においても、「真の父母」と信徒に言われている方々とその一族が宮殿に住み、その維持費や諸々の事業の為に子女の立場にある信徒たち、特に日本の信徒達に過剰な献金を数十年に渡って課する文化構造は韓国の儒教原理主義に酷似している。家や土地を売らせ、自己破産させ、しまいには自殺にまで追い込もうが献金ノルマは加重されても減少することは無い。

これは明らかに「講論」が説く、万民一家族の共生共栄共義主義の神を中心とした社会主義社会ではなく、李王朝に酷似した絶対君主制社会になりつつある。

そこで、実体が伴わない教義はただの観念論に過ぎないのであるが、信仰義認という便利な神学がある。

この神学の教義によれば、メシヤはすべてを成したといったのだから、その言葉を信じる者は神によって義認され、救われるという。

これに対して、神学の中には信仰だけでなく、罪・堕落性が清められ、聖化されてこそ救われるという教義もある。

教会史の中ではどちらかと言えば、カトリックは聖化の重要性を説き、プロテスタントは義認を説いてきた。

UCの中にも実態がどうあれ、メシヤが「すべてを成した」と言ったのだから、それを信じれば義認され救われるという信徒もいる。しかし、実態が伴ってこそ神の国は地上に実現すると説く信徒もいる。さて、皆さんはどちらでしょうか。


注:アボジの在任中に自己破産で自殺者が出たが、その事実は恐らくは誰もアボジに知らせはしなかっただろと思われる。

参考: 36家庭は家庭の階級においては最高ではあるが、最高の地位において赤裸に自分の誤りをすべて露にして生きて行く苦しみとは表現しがたい。

地上にいるとき、女性問題、公金問題、その他の問題に引っかかった家庭は、地獄にいるのではなく、神のそばにいながら、露になった姿で生きて行かなくてはなりません。それは言葉で言えない苦しみです。

例えば、他の女性と性関係を持っている場面が随時、みんなの前に見えるのです。また、公金を自分勝手に使いながら、酒場に行って
女と堕落しながら、お金をばら撒く姿がはっきりと見えるのです。一言で、地獄よりも恐ろしいところです。(霊界の実相と地上生活p37)

コメント:実態の伴わない信仰義認で天国に行ってもこれでは地獄より恐ろしいところになる。それゆえ、松涛本部の教義の責任者が信仰義認論を説くとは奇奇怪怪な話しである。

TMにおかれましては、言い訳がましいことを言わないほうが良いでしょう。言い訳をしてしまうと、神という絶対的立場に立っている人が人間同士の言い争いのような相対の世界に入ってしまうからです。神の直接主管圏にいるとすれば、神が直接主管しているような言動が求められるでしょう。




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アボジについて思うこと

霊界のアボジについては、残念ながら、あまり良いニュ-スが入っては来ないのです。

大変な霊界にいて、どうしてこのようになってしまったのかと思案しているという。これは複数の霊能者が同じようなことを言っているという。

アボジの身近で御前会議に参加したことはありますが、残念ながらあまり良い印象を持ってはいないのです。また、変なことを言わないと良いのだが・・・という印象です。

朴先生や神山氏にアボジが何を言っても無視されている場面でした。何のことはない、声の大きい方に決まっていくのです。

それゆえに、アボジの最晩年はTMやその取り巻きから無視されて来たのではないかと思います。

私が小山田先生から、アボジが120歳まで生きるとか、140歳まで生きると豪語していたと言う話しを聞いた時、いやな予感がしました。

その頃、アボジは車椅子の生活でしたから、100歳は無理だと私は判断していたのです。

韓国には霊通する姉妹がいて、アボジがメシアではないという啓示を受けているという。

その啓示に同調をする韓国のKさんはアボジが120歳まで生きると言ったのに92歳で死んでしまったから、その通りだというのです。

変な事とはアボジが事実からかけ離れたことを言うことです。こんなことを言い続けていると、アボジ自身のメシア性の否定の口実にされてしまうのです。

この問題について、別なネットですでに質問を受けて、それに対する返信をしているので転送しましょう。


質問:アボジの本当の動機は何であったのか、というのが私の疑問です。

最初は人類のメシヤ意識があったが、後に韓国メシアに変わって行ったのか、初めから韓国メシアが本音で、建前として人類のメシアのように語っていたのかは私にも分りません。

これについてはウオンピル先生が一番知っているのでしょう。

アボジが目指したものは、講論では神を父母とした万民一家族の共生共栄共義で、それは神を中心とした社会主義社会だという。

このようなユ-トピア思想は世界のいたるところにあるようです。例えば、ユダヤ教のエッセネ派にもあり、現代ではイスラエルのキブツがそれに当たります。(Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/キブツ コルホーズ、人民公社など、他の国にも共同社会的な事業形態はあるが、イスラエルでキブツが果たしたほどの重要な役割を持った自発的な集産主義的共同体は、他にはない。)

実は、私はここのメンバ-なのです。初代の原始キリスト教時代には信徒たちはこのような生活をしていました(使徒4/32-34)。

現代ではアナバプテスト派のフッタ-ライトが500年前からこのような生活をしています。

ちなみに、日本でも、UCの初期には西川先生の指導の下で、献身者はこのような生活をしていました。

しかし、晩年のアボジのやることなすことが李王朝の再現かと思われるような絶対君主制の文王朝(?)建設の兆しを示し始めたように思われます。

一説によると、アボジ自身が模索していたとも言われています。日本の幹部たちにも絶対君主制を研究しておけという指示を出していましたから、きっとそうなのでしょう。

私もこのあたりからアボジの本音は何かと考えるようになりました。韓国において、アボジが私が韓国の王様だと自己顕示する為には、膨大な財が必要です。

その結果、日本UCは過剰な献金を課せられるようになりました。更に、自分の命令一つで、日本人が従って来ることを示す必要があったでしょう。

日韓併合のレベンジとして、韓日併合が韓国人の夢ですから、自分がそれを実現していることを韓国政府と民族に示すことは当然なことでしょう。

韓国人が日本だけではなく、世界中で各国の信徒を指導し、支配していることを当然示したいでしょう。お陰で、その弊害を受けた国々もあります。

ちなみに、TMの場合は文王朝に変わって、韓王朝の絶対君主制を主張しているだけに見えます。いずれにしても、絶対君主制は原理が説くところの万民一家族の共生共栄共義でではありませんので受け入れることは出来ません。

最初は人類のメシヤ意識があったが、後に韓国メシアに変わっていったのか、初めから韓国メシアが本音で、建前として人類のメシアのように語っていたのかは私にも分りません。

しかし、幸いな事に、子女であるH1もH2も前近代的な絶対君主制を目指してはいないようです。

もっと民主的な世界でしょうから、絶対君主制よりはましな世界でしょう。だからといって、彼らに従えというのではありません。我々各自が神の理想世界実現の主人なのです。

注目に値するのは、霊通する韓国の信徒達のmessageです。神はアボジに神を中心として世界を統一することを願ったのに、自分を中心に世界を統一しようとした。

それで、アボジはもはや神がアボジに願った使命から逸脱してしまったというのです。

人はお金によってその魂が救われるものではない。それゆえ、他の霊能者が見ると、210代の先祖はほとんど解放されていないという。

天聖経を一冊430万円を信徒に売るのは言語道断であるという。天から見れば、み言葉というものは貧しい人でも手に入れることが出来る値段にすべきものを法外な価格にしてはいけないという。

まして一冊でよいものを1人に何冊も買わせるのは天の願いではないという。しかも、韓国信徒には安く、日本の信徒だけに、破格な値段で売ることは心情の蹂躙罪になるという。

アボジを良く知っている古参の信徒達は、これはアボジの霊感商法であるという。壷や多宝塔を一般人に売れなくなったので、その分、内部の信徒にみ言葉を吊り上げて売る商法を思いついたというのです。これは明らかにカトリックの免罪符以上の世俗化です。

問題はこの段階でアボジは天道を逸脱したので、アボジの家庭は財の問題で分裂し、大きな家庭問題が起きてくるという啓示があったという。

すると、その通りになって来たので、ウオンピル先生を初め、大物先生方も内心ではうなずいているという。

にもかかわらず、TMまでが独自の天聖経などを三巻もつくり、1冊140万で販売し、何の効き目もない420代の先祖解放を主張しているのである。

残念ながら、このようなUCにはもはや救いはない。

All or nothingの人はこの段階で、アボジはもはやメシアではないとか、偽メシアになってしまうのでしょうが、総括してtotalでものを見る人には、否定すべき部分と肯定すべき部分を仕分けするのです。

なにやら、Kさんの話では、偽メシアは90%はみ言葉を語り、人々を信じ込ませ、残りの10%は自分のために信徒を導くという。これはなかなか説得力がありますが、私には偽メシアという概念がないのです。

なぜなら、旧約聖書には「油を注がれた者」は39人も登場してきますが、完全なメシアは1人もいません。

90%もみ言葉を語るメシアは神性が90%もあり、人性はたったの10%ですからこれは十分なメシアの資質でしょう。

せっかく金銀銅の鉱山を発見しても、金銀銅はせいぜい10-20%しかないという。これでは仕分けが大変でしょう。

私は今が素晴らしい時代だと思っています。アボジが今までのキリスト教に疑問を抱き、その疑問を解決する為に原理を発見したとするのなら、今度は我々の番ですから、同じように原理とUCに天的疑問を持ち、その解決を求めて更に発展してゆけば良いのです。

「故人の足跡をなめるのではなく、故人の求めたものをもとめよ」という心構えが必要です。TFやTMの失敗を教訓として、神の国実現の道を探究することが大切です。

そして、その原点は、アボジのみ言葉「メシヤとは心を尽くし、思いを尽くして、魂を尽くして、神のみ旨をなすものであり、私もメシアになろうとしているし、あなたもメシアにならなくてはならない」に至るのです。ここに戻り、ここから再出発するのです。

ちなみに、文師も韓女史も真の家庭を完成することが出来なかったのですから、真の父母にはなれなかったことになります。

父母たる者は子女が完成しないと父母として完成したことにはならないのです。沢山子女を生んだけれども、堕落しなかった子女はH2だけだというのではサタンも人類も真の父母として認めないでしょう。

すると神も認められないことになります。それゆえ、便宜上、無難なので、真の父母は神だけにしておきましょう。

本当は、主体なる神は対象である被造物が完成しないと完成したことにはならないのですが、とりあえず、「神を父母とした万民一家族の共生共栄共義」の実現のために前進しましょうという事になります。




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実存としてのメシアであるお父様



ある日、S氏より電話があり、彼の紹介でウオンピル先生が逝去されるまで付き添ったKさんと言う韓国の女性にお会いしました。

結論として、アボジはメシアではないというのです。実を見れば木が分るというのです。

ウオンピル先生もそのことで悩んで、悩んで死んでいったというのです。実を見れば木が分るという論理は客観性があり、説得力があります。

原理といえども科学の観点からは、所詮、形而上学的仮説に過ぎません。神、霊界、天使、アダム・エバなどの存在は科学的には証明できません。特に堕落論の物語は聖書を信じる前提がなければ成り立ちません。

科学では、色々な仮説を立てて片っ端からその仮説に基づいて実験していきます。

そして、実験の結果、仮説の通りにならなければ、その仮説は間違いだったということになります。

原理と言う仮設のもとにアボジと信徒達は半世紀以上の生涯を掛けて、実験(実践)してみました。

その結果、H1はTFとその教会から離脱し、TMはH2によれば、自分が本当のメシアでアボジはその下準備に過ぎず、アボジの玉座に座り、TPの写真を降ろして、自分だけの写真をかけ、神だと豪語する。

それゆえ、H2は自分こそが正当なアボジの後継者であると宣言する。

仁進様は略奪婚、情進様や末の娘さんは事実婚、恩進様はアメリカのジョキ-と駆け落ち、なぢなど、肝心な真の家庭の中に、復帰された創造本然家庭の姿を見ることは困難です。

それだけではありません、日本の教会に在るものは借金地獄です。拝金主義に陥った教会では二世の行き場がありません。

すなわち、客観論から見て、これが実験の結果ですから、結論が出たようなものです。それゆえ、彼らの導き出した結論には説得力があります。

ところが、このような事実を突きつけられても、私の信仰には何の影響もありませんでした。

なぜなら、私がカトリックの修道僧に憧れ、釧路の極寒の中、朝5時のミサに間に合うように、深い雪を掻き分けながら、30分もかけて丘をよじ登り、修道院にたどり着き、熱心に通いましたが、神は遠い存在でした。

せいぜい、王と僕の関係でした。そんな時に、神によって導かれ、原理を聞いて献身してみると、生ける父なる神を実感したのでした。

やがて、祝福を受け、3年後にアメリカの教会で祈っていると、全身が神の霊気に満たされ、自分の肉体までが聖化されて、今まで克服できなかった愛と性の葛藤が克服され、性が神の聖なる儀式であることを実感したのでした。

そのよな聖なる性の儀式から3人の子女が授かったのですから、私は子供達にあなたたちは真に、真に神の子ですというのです。

3人とも祝福を受けて子女も授かり、神と共に生きています。神がいつも100%臨在してくれる実感に満たされるとき、これ以上の物はないもいらない満ちたれた心境です。

これが、私の宗教体験であり、私の実存です。更に、み旨を歩む中で神に幾たびか導かれたかはかり知りません。

本物のメシアと信じられているイエスを信じて信仰生活を熱心にしてみましたが、神は遠くに感じました。

ところが、偽メシア(?)と言われている文鮮明師によって、神を実感し、罪からの救いを実感したのですから、この偽メシアこそが私の実存において本物のメシアなのです。

そのメシアが蕩減として六マリアのコ-スを行かれたお陰で、今の自分の救いの実感があるとするのなら、足を向けて眠られるものではありません。

そして、これが客観的メシヤ論と実存的メシア論の違いなのです。実存とは自分との係わりなのです。

さらに、それは個人によって違うのです。S氏もKさんも新約の教会で救いを感じているそうです。

それは彼らの実存ですから、非難する理由は何も在りません。だから、個人の実存に対して分派などととレッテルを張る必要はないのです。

客観的にはカルトであるアレフ(オ-ム)には今でも年間500人の人々が入信し、イスラム国と自称しているテロリスト回教徒集団には年間1万人の若者が入信してくるという。

日本でも1人の北大卒業生がこの団体に飛び込んで行ったのは印象的でした。

しかし、注意しておかなければならないことは自分の実存を絶対化して、他人の実存を特に暴力や権力で犯してはなりません。それをやると、いくら実存といえでも社会的制裁を受けるのは当然です。

統一教会は、暴力はまだ使ってはいませんが、教会権力を使って神山さんを除名したり、だれかれなく、分派のレッテルを張ったりして、本来の世界基督教統一神霊協会の精神に反した行動をしています。統一協会は異なった宗教が超宗教の立場で協力し合って協会を形成するはずでした。それが本来の名前です。

宗教学においては、UCのメシアやキリスト教のメシアだけが正真正銘のメシアで、その他の宗教のメシアはせいぜいそれに準じるメシアなどと言うようなランク付けなどは致しません。

イエスを救い主と信じている人々が世界には大勢いて、キリスト教団を形成しているだけです。

同じように、仏教徒も回教徒もそれぞれ、自分たちの教祖を救い主と信じて、世界中に教団を形成しているだけです。

李ヨハネ先生が名古屋に来た時に、777の東森氏は見えませんですね、と問うた時、教区長が彼はH1のところに行ってしまいましたと答えたという。

すると、ヨハネ先生はお母様も顕進様もどちらが先に神の国を造るかで競争をしたら良いのですよ、と言ったという。

注:(東森氏は神山氏に近い友人から、神山氏が名古屋で話しをされるので、世話人になってくれと頼まれた時、アメリカでは世話になったのでそのくらいなことはしても良いでしょうと答えて、軽い気持ちで引き受けたら、郭ブル-プのレッテルを貼られたという。)

このヨハネ先生の言葉を全ての宗教、良心家に当てはめると、原罪があろうがなかろうが、誰かが、そして全ての宗教団体が競争して神の国を建設するために競争すればよいのです。

これが、私もメシヤのなろうとしているし、あなた方もメシアにならなければならないと言うことになるのです。

注:(いくら原罪がないと言っても堕落性(神と同じ立場に立てないという性質)があれば、神は相対することが出来ませんので、摂理を推し進めることが出来ません。それよりも、原罪だけあって堕落性がほとんどない聖人の方が神は相対できるのです。)

更に真の家庭の末の娘さんたちの事実婚によって、その区別はほとんど意味がありません。更に、み旨に無関心の無原罪の二世とみ旨に情熱を燃やして熱心にやる有原罪の一世を比べると一目瞭然です。)

最後に、私が教会の矛盾と戦っている姿を見て、子女たちは拍車喝采して応援しています。

保身ゆえに自分の魂までも失ったら何の意味もないといったら、みんな大喜びでした。私の座右の銘は「故人の足跡をなめるのではなく、故人が求めたものを求めよ」です。



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なぜ西川先生は日本の伝道に成功したのか(宗教における受容と埋没)



なぜ、西川先生は日本の伝道に成功したのかということが話題になったことがあります。

答えは日本文化の受容に成功したからだ、ということになります。すなわち、日本文化の一つである義理と人情と忠誠心を原理の価値観で否定せずに、逆にこれらの美徳を受容、すなわち、受け入れ、それらを天につなげたので、西川先生は日本人に受け入れられたのです。

具体的な例を挙げますと、和動会には「勘太郎月夜」を歌い、日本人の人情の機微に触れ、説教では山中鹿之助は「我に艱難を与えたまえ」と言って、義の為に死んでいったではないか。いずくんぞ、成約聖徒は天の為に命を捧げてみ旨を成すべきだ、と言って食口を激励するのです。このようにして、日本文化の美点を天に繋げたのです。

ところが、日本人食口がアメリカでアメリカ人食口を指導し、伝道したときには、アベルやその組織に対するloyality(忠誠心)を強調するあまり、アメリカ人の美徳であるhonesty(正直)を天につなげる代わりに否定してしまったのです。

具体的にはfundraising(花売りなどでの基金集め)の方針はウソも方便という「ヤコブの知恵」を全面的に押し付け、日本UCの伝統を天の伝統と称して、これをごり押ししたものですから、アメリカの文化の中にそれが根付かなかったのです。

その他、様々な理由で、13000人居た献身者が8年間で、1000人足らずになってしまったのです。

そして、各州の責任者がアメリカ人一人に、教会員は全員、英語のあまり話せない日本人の教会が出来てしまったのです。だから、受容に失敗するとこのような惨めな結果になるのです。

日本においても、受容し過ぎて埋没してしまった例があります。それが霊感商法です。

手相・姓名判断・家系図・先祖の因縁論・いたこ、お告げ、お払い、などは民衆に根付いている民間宗教のようなものです。そこで、韓国からの大理石の壷を売る為に石材を担当している者達がここに目を着けたのでした。

これがすごく当たりまして、壷は爆発的に売れたのです。こうして因縁ト-クが広まり、教会までもやり始めました。しまいには、土地や家を売り払ってでも壷を買うように、薦めるようになりました。

その内にお壷を拝む「お壷信仰」が生まれてしまいました。さらに、壷や多宝塔を買った人たちを伝道するために教義的にも原理と結びつける工夫がなされました。しかし、これは新たな問題を引き起こすことになりました。

多宝塔から伝道された人たちが松涛本部に来てみたら、そこにはお壷は祭っていないし、多宝塔が置いていないので、躓いたというのです。

松涛本部は世界基督教統一神霊協会の本部ですから当然置いてはいないのです。さすがの小山田先生も壷に関しては、「あれは石灰岩がマグマによって結晶した大理石に過ぎないのだよ、とお父様が言っていた」と言って釘を刺していました。

もっと深刻な問題は韓国では同じような大理石の壷がせいぜい1万円以内で買えるものが、ここでは宗教的付加価値をつけて100-500万円で売るものですから裁判で問題になるのです。

商売行為として物を売る場合、原価の10倍を超えたら、公序良俗法に触れるというのです。それで、宗教的付加価値をつけたら、一体あなた方は何処の宗教団体ですかというのです。

まさか、統一教会だというわけにはいかないのです。その理由はいくらなんでも「お壷教」になるわけにはいけませんし、また、収益事業を一切していない立場ですから、この事件は松涛本部のあずかり知らぬところで起こった問題として処理しなければならないのです。

困ったことに、原理を直接聞いて入信してきた学生や青年に対してまでにも壷を買わないと信者になれないと言い出して、その購入を強要することです。

その理由は、堕落人間はみ言葉と直接相対できないので、供え物として万物を捧げることによって自分が象徴的に復帰されたという条件を立てなければならないからだと主張するのです。このよに韓国では考えられないような「お壷教」の教義を作り出して、教会の中まで浸透してくるのです。

これは原理の日本文化への受容ではなくて埋没になってしまいます。結果は、左翼弁護士に捕まり、マスコミに社会問題として取り上げられ、UCがカルトのレッテルを張られてしまう結果になりました。

清平教もUCとは別な財団の下で、先祖解放と称してゴマ木の真似事のよな販売行為をしているようですが、これはまさしく「受容と埋没」のテ-マとして考えてみる必要があるでしょう。

日本の伝統的な価値観を天につなげないで、サタン扱いし、韓国の文化が天の文化としてごり押ししますと、受容に失敗し、伝道は伸びず、二世はもとより、一世の心までもUCから離れてしまうでしょう。私は、このことを大変恐れています。



韓国人幹部による韓国至上主義中心の今の日本のUCは、まさに受容に失敗した典型と言えるでしょう。日本のUCが本当の意味で日本文化を受容して日本に根付いていくためには、今の反日を唱えている韓国人公職者に韓国へ帰っていただくべきではないかと思われる方はクリックお願いします。
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高額異常献金とうそ(金オンピル先生のみことば)



ある兄弟から次のような発言がありました:


身障者トークなどのうそをついてみ旨が行われていた問題に若い時分私も?さんざん悩みました(悩みやすい性格なので)いろんな方に相談しましたが答えは「大善を為すには小悪は、、、」というのが答えでした。



これに対する私のコメント:

・ウオンピル先生に相談するか、以下のみ言葉が伝わっていれば、悩まずにすんだのかも知りませんですね。

あるいは、アボジがもっと早くに「良心は神よりも偉大である」というみ言葉を語っていれば、UCは今ほどカルトにならずに済んだかも知りません。

いずれにしてもウソをついて獲得した献金で建てた資産はサタンの讒訴を受けて、持って行かれるでしょう。今の現状を見ますとまさにそのようになっていますので、あのようなやり方は結果論としてまずかったことになるでしょう。

しかし、問題は誰の責任かです。

1.それを受け入れたアボジの責任。

2.アボジはみ言を金先生を通して語っているので日本UCの責任。

3.なりふりを構わず、過剰な献金ノルマをUCに課したのはアボジであり、従ったのはUCだから、両者に責任あり、・・・などが考えられるでしょう。


以下はオンピル先生のみことばです。


 「メシヤのためであるなら、あるいは大義があれば、何をやっても許される」という誤った考えを持っている食口(教会員)はいないでしょうか?

 「国のためであれば、個人を苦しめることもありうる」とか、あるいは、「み旨のためであれば、サタンの物は奪って来ても許される」と、考えている人はいないでしょうか?

 「3倍以上、返してあげなければいけない」という真のお父様(文鮮明師)のみ言を、よく考えてみてください。

 うそはうそであり、どろぼうはどろぼうです。ただそれが、戦争などの状況下にあっては、一時的に許される、同情されうる、ということは、ありうるかもしれません。でも、「間違ったことは間違ったことである」と、はっきり知らなければなりません。

 聖書の中にも、うそをついて奪って来た例があります。「サタンがうそをついて奪って行ったので、『蕩減復帰』の原則により、神側もうそをついて奪って来ても、罪にならない」と考えて、行動を正当化する人が、もし、いたとしましょう。

 しかし、それは、うそはうそなのです。ヤコブの時も、うそをつかなかったとするならば、21年の苦役路程はなかったかもしれないのです。

 戦時下で生命が懸かっている時に、人のいない家からお米を持って来ることは、状況的に考えて許されるとしても、それがそのまま善であるとは言えません。それ自体が善なる行為であると言うことはできないのです。それを私たちは、真のお父様のこのみ言と行動を通して、はっきりと理解しておく必要があります。

 「あなたがやったことは赦され、同情されるかもしれない。しかし、善ではない」ということです。ですから、後でこれを3倍以上、返すことによって償うこととなるのです。

 このような出来事を通して、私たちは本当に真のお父様の伝統を学んでいかなければならないということを感ずるのです。

以上オンピル先生のみ言終わり。



うそや反社会的な方法を使って集めた献金は、サタンの讒訴を受けるため最終的にみ旨のためにはならない。現組織はこのような高額異常献金をすぐにやめるべきだと思われた方はクリックお願いします。
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「お母様は原罪なし お父様は原罪あり」について思うこと



「お母様は原罪なし お父様は原罪あり」がやたら問題になっていますが、現実的には「 お父様は無原罪でお母様が原罪あり」との差は何処にあるのでしょうか?

教義的には明確な違いがありますが、現実的違いは何でしょうか?TM無原罪を信じたら、TF無原罪を信じる人より人格が劣る人になるのでしょうか?

結論として、あまり変わらないと思います。大切なことは何を信じるかではなく、何を行うかです。

問題は教えです。神学とは、

1.神と人間との正しい関係、
2.人間と人間の正しい関係、
3.人間と宇宙自然界との正しい関係

を説く学問です。

従って、どちらもこれらの正しい関係を説き、実践するのなら、それらしき人格が形成されると思います。従って、現実的にはどちらの方が無原罪かなどという問題は、単なる観念論にすら思えます。

それよりも、どちらの方がシックを幸せにし、人類を幸せにするのかです。競争すれば良いのです。

ちなみに、鰯の頭のような八百万の神を信じている有原罪の人は無原罪(?)の原研指導者のようにメンバ-に身体障害の真似をさせて物品販売などをさせないのです。これは明らかに詐欺です。

世の人々から見ると、統一教の神を信じると、目的の為には手段を選ばずの人格になり、詐欺行為もへいちゃらでやるような人間になるか?と判断されるのです。

私がキリスト教徒になってがっかりしたことは、釈尊や孔子のようないかなる聖人であろうと、イエスをキリストとして信じ、罪の許しとしての洗礼を受けない者は死後、みんな地獄へ行くという教えです。

UCの信徒もこれにかなり似たところがあり、「お母様は原罪なし お父様は原罪あり」などを信じたら、霊界に行ったら地獄へ行くと信じているところです。

自分達の教義を絶対化して、教条的になりますと、どちらも神の名において宗教戦争を引き起こすのです。

カトリックとプロテスタント、カトリックとイスラム教、シ-ア派とスンニ-派の戦争はお互いに血で血を洗う殺し合いに発展して行くのです。愛と許しを説きながら、憎しみ合いへと変質して行くのです。

それでは、TMは何故自分は無原罪でアボジは有原罪だというのでしょうか。それは六マリアに見られるようなアボジの女性関係でしょう。それらの行為が原理的観点から消化出来なかったのでしょう。

我々は第三者ですから、原理的意義を説明されると、理解することが出来ます。しかし、TMは当事者ですから、理性では理解できても感情的には消化出来なかったのでしょう。今まで、こらえ続けて来たものが、爆発(?)したのでしょう。消化しないで押さえ続けると何時かは爆発するものです。

アボジの問題点は女性関係だけではありません。アボジの神性はともかくとして、人性においては目に余るものがあります。

特に、TMや子女様におかれましては、まじかで体験していますので、恩進様のように躓く方も少なくはありません。それゆえ、TMの無原罪論は肯定は出来ませんが理解できるものがあります。

私、個人としてはTMが何を言おうが気になりませんが、やることには気に掛かります。

1.根こそぎ日本UCから全てを持って行ったのですから、痩せほとったシックからこれ以上無理な献金を課さないこと。

2.日本のUC・家庭連合に独立自主権を返還すること。そして、韓国人指導者は韓国に帰ること。

3.西太后のような独裁的なことをしないこと。

4.ラスベガスのカジノで日本円にして40億もすってしまったというような噂を立てられないようにすること。

5.金孝南の啓示でないメッセ-ジを啓示として捏造し、後継者をH1からH2にし、陰謀で両方とも解任するようなことをしないこと。

これらの現実を踏まえた上で、我等が行くべき道はTime to say good-bye
https://www.youtube.com/watch?v=IWo9dLa_EEE

です。過ぎし日よ さようなら 新たなみらいへ 神と共に旅だとう です。



韓国至上主義、反日主義を掲げている韓国人指導者たちは韓国へ帰っていただき、日本UCに独立自主権を返還すべきだと思われた方はクリックお願いします。
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