受容と埋没(UCの世界化の為にどうしても必要なこと)




私は、本部の対策を担当し、非合法から合法への改善に仲間と共に努力をしましたが、駄目でした。

それで、野にくだり、氏族メシヤの摂理でカイン圏にマザ-テレサのように仕えまくって、同情と尊敬と祝福の言葉を勝ち取る、すなわち、長子権復帰をする為にここさいたま市で戦っています。

当時、私を対策に任命した副会長は、「師観は逃げた」と言っていたという話を人づてに聞きました。副会長も改善しようとして私を頼りにしていましたから、その気持ちは痛いほど分ります。

現在ではクリスマスコンサ-トを通して市民権を獲得しつつあります。市民にとって無くてはならない存在になろうとしています。勝利をして良い見本を示せばいいのです。

前置きが長くなりましたが、「ヤコブの知恵」の伝統は1973年ごろから日本からアメリカに渡っていきました。

そして「heavenly deception」、直訳すると、「天的騙し」がアメリカの信徒に教え込まれて行ったのです。花売りから始まったのですが、大義名分と実際の使い道は違うのです。それゆえ、信徒の中には深刻な葛藤が生じてくるのです。

アメリカの法律の基本はクリスチャン国家であるために、旧約聖書や新約聖書の書かれている律法や道徳・倫理に基づいてつくられているというのです。

例えば、十戒で「汝、偽証するなかれ」という律法は人法でもあるが同時に天法でもあるのです。なぜなら、神が直接に人間に与えた律法であると信じているからです。したがって、これに基づいて出来ている法律は天法でもあるわけです。

それゆえ、この天的文化を無視して、「heavenly deception(天的騙し)」を命じますと、良心的なユダヤ人やクリスチャンのシックは葛藤するのです。

そのためでしょうか、1976年にアメリカを後にして、1984年に再びアメリカに行った時には、総勢13000人ほど献身したアメリカ人信徒は1000人足らずに減っていました。そして、生き残った疲れ切ったようなシックに、その理由を聞いてみたら、disillusion(幻滅)したというのです。

宗教学者はこの現象を見たら、「受容」に失敗したといいます。受容とは具体的な例を挙げますと、ヘブライズムであるキリスト教がギリシャ・ロ-マの文化、即ち、ヘレニズムを受け入れることによって受け入れられて行くことを言います。

具体的には、アウグスチヌスが当時ロ-マで崇拝されていたネオプラトニズムのギリシャ哲学を枠組みにして、キリスト教の神学を構築したので、ロ-マを中心とするヘレニズム文化圏、ヨ-ロッパの国々へ、キリスト教がその本質を失わずに受け入れられて行ったのです。

本質まで失ってしまいますと「受容」ではなく「埋没」と言います。ここは区別しなくていけません。例えば、日本の信徒たちが韓国の指導者たちからアボジに近い心情の世界、文化を受け継ぐことは受容ですが、公金で自分の車や家などを得ようとするような文化まで受け入れると埋没になります。

また、アメリカでは、ユダヤ(旧約)・キリスト教(新約)の伝統を受け入れることは受容ですがフリーセックスや離婚まで受け入れると埋没になります。

ちなみに、仁進様のやってしまったケ-スはアメリカの文化に埋没してしまったと見なされるでしょう。

このように、日本UCの天的騙しを押し付けて受容に失敗すると、宣教に失敗しますが、かといって何でも受け入れると埋没します。受容とは本質を失わすに宣教対象国家文化の中に根付く事なのです。




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韓国至上主義の階級社会とは全く違う万民一家族の世界(我々が本当に目指すべきもの)





「笑う以外に方法が無い」といういう意味は、あまりにも 次元が低い話なので、あきれ果てて、ものも言えなくなり、苦笑いしている状態です。 (何に対して笑うのかわからない人は、1つ前の投稿「お笑い」をお読みください。)

それゆえに、私個人としては、そのような教会の主管を避けるために、1993年には教会長を辞任して、還故郷し、氏族メシヤ教会の勝利に向かって歩んでいます。

その内容は、韓国至上主義の階級社会とは全く違う万民一家族の世界です。

市民運動としては、ハレルヤコ-ラス愛唱会を立ち上げ、クリスマスコンサートを目指して月に二回ほど練習しています。歌の内容は「バンザイ、バンザイ、キリストが王の王、主の主としてやって来た。お陰で、神の御支配が天地に永遠に及ぶ!ハレルヤ(バンザイ)、ハレルヤ(バンザイ)」です。これをみんなで歌うと、聖霊が皆さんに相対して降りてきます。

小2の子供から83才の老人まで参加していますので、観客は我々のことを"ハレルヤファミリー"だ!と言って喜んでくれます。これは聖霊に満たされた一つの宗教団体みたいです。

コンサ-トが終わった後で、「聴衆の皆さんも参加しませんですか」というと、私も、私もと言ってハレルヤフアミリーに入ってきます。

神学的には旧約時代には父なる神が働き、新約時代には子なるイエスが働き、成約時代には再臨を通して聖霊が働くのだ、といいながら伝道しています。

その中にはクリスチャン、創価学会、左翼、右翼もいますがみんな一緒になって歌っています。

したがって、これもまた一つの天国なのです。スポ-ツもそうですが芸術は宗教、性別、年齢、民族イデオロギ-も超えることが出来ます。

芸術とは国語辞典によれば、「美を表現する手段」だという。それでは最も美しいものは何でしょうか? それは神です。それゆえ、多くの芸術家は神を表現する為に生涯を掛けてきました。特に、クラシックと呼ばれている分野はそれです。

それゆえ、私はここに目をつけて神を表現しようとしているのです。UCには希望がないという人たちがいます。なぜかと聞いたら、韓国が第一という序列が引かれていて、日本人や他の国々の兄弟がいくら頑張っても上には上がれないからだ、という。

しかし、オリンピックや芸術は国に関係なく、一位は一位、二位は二位というようにとても平等であり、フエア-だというのです。それゆえ、そのような神の国を願うというのです。私は、そのような神の国を築こうとして邁進しています。

日韓の一体化の問題におきましては。数年前に、新大久保で一人の日本人を助けようとしてある日本人と韓国学生が線路に跳び降りて、電車に轢かれて死んでしまいました。

この日韓の尊い精神を風化させてはいけないということで、定期的にイベントを開いてチャリティ活動をしている人たちがいます。

私共のハレルヤファミリーに声がかかり「千の風」を歌うことになりました。そして、大事なことはここに韓国が第一位という序列が無いことです。

私が体験した神の愛の世界には序列がありませんでした。そんな世界を各祝福家庭が氏族メシヤ教会を築き、連合して、連合体の協会をつくりましょう。

そうすると、今の天使長的な教会は要らなくなり、祝福家庭連合体が主流になって行くことと思います。アボニムもオモニムもそれを願っていると思います。それが平和連合家庭協会では無いでしょうか。




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お笑い(韓国人の不可思議な行動)


(お笑い1)

数年前、宣教団解団式に伴い、韓国の国家メシヤである分捧王たちもにも解団式となった。

そこで、40ケ国に選ばれなかったある国の分捧王がアメリカから解団式の前に日本に飛んで来て、自分の任地国の宣教師たちを集めて、宣教団解団式は悪霊の集会だから解団式に出席しないように説得して廻って歩いたと言う。

お母様が決められた解団式を悪者扱いして出席しないように勧めるとはさすが韓国人である。幸いその国の宣教師たちは無事に出席していたようなので、日本の国家メシヤもほっとしたようである。

それではどうして分捧王たちは韓国に帰るように指示されたのであろうか。

公式的説明では、お母様は韓国、日本、アメリカの三ヶ国に伝道を集中する為、特に氏族伝道のために、呼び戻すようにしたという。

しかしながら、スタッフによる非公式の説明では分捧王たちは任地国や近くの先進国に渡り、そこに居座って日本の宣教師たちに宣教という口実ではあるが実際は自分たちのぜいたくな生活のために送金を要求するようになってしまったからだという。


(お笑い2)

数年前に、パラグアイの大統領一行が日本の国家メシヤが理想郷を目指して開拓しているレダに視察にやって来ました。

決して普段は来ない韓国のリ-ダたちも来たという。その中に韓国の女性が二人ほど来ていたが、みんな人手不足で準備しているのに何の手伝いもしなかったという。

しかし、大統領と写真を撮る段階になると真ん中に席を取って写ろうとしていたという。

そして、普段は来ない韓国のリ-ダ達はさっそく、その写真を持ってお母様のところに行き、自分たちの実績として報告したと言う。

おかげで、お母様は説教の場で韓国の食口たちにその吉報をいち早く知らせることが出来たと言う。

英語にはGod works through a mysterious way.(神は時には不思議な方法で働く)という諺がある。しかし、結果がよければ何でも良いでは信仰生活の手本にはならないでしょうという国家メシヤもいる。


(お笑い3)

八冊のみ言葉選集の中には光言社出版でない本もありましたのでどうしてか聞いてみたら、前の前の総会長がリベイトを自分の物にするためにワザワザ韓国の出版社に出版させたという。

次の総会長は全国を巡回して巡回料金を稼いでいたという。みんなあきれで笑っている。それゆえ、今度の総会長には期待するものが大きいという。


これはあきれて笑う以外に方法がないのですよ。

このことは、ヌンチという文化を聞いてから理解できる面も出てきました。例えば、アボジが日本にいる韓国のリ-ダに100%やれ!と命令して、日本の食口が文字通り100%やった場合、韓国のリ-ダたちはこれはやりすぎだ、と解釈するのです。

なぜなら50-60%やれば上出来だ、と考えるからです。すると、60%はアボジにあげて、後の40%は自分たちの実績だ、と見なすというのです。

そして、これをみんな(彼ら)で 分けるという。そこには何の良心の呵責もないと言うのです。海外宣教も同じような感覚でやっていたのでしょうが、オモニムの観点からはそれでは通用しなくなってしまったと言うことです。

すなわち、100%投入しないと天の伝統は立たないと見なしたのでしょう。ここに、従来の韓国の文化、伝統を超えた天の伝統に立って、オモニムが英断したところに希望があります。

それゆえ、今となってはお笑い話になるのです。



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ヌンチの文化(日本人の知らない韓国文化の一面)



基元節の時に韓国へ行ってまいりましたが、宿泊の相部屋にある教会の教会長がいまして、日本のUCが破綻寸前まで来ていることを話しながら大変心配していました。

どうやらその元凶は「ヌンチ」にあるそうです。

具体的な例を挙げますと、韓国に留学した日本人学生がゼミで小論文を発表するに際して、先生からその資料を全部コピ-してゼミ参加の学生に配るように言われて、その通りにしたら、先生も学生も驚いたと言う。

「ヌンチ」とは先生が100%やって来いと言うのであるが、頑張った結果、50%出来れば良しとする文化であると言う。ところが、日本の学生がすべての資料を大変苦労してコピ-を取り、しかも全員の学生に行き渡るように配ったので、みんな驚いたと言う。

しかし、それは感心しているが同時に「こいつバカでないか」とも思っているという。この学生はそのような韓国文化を分るのに随分時間が掛かったという。

このことは、アボジのノルマについてもいえることであって、総会長を通して、更には韓国の地区長などを通してノルマの額が課せられる時に、これらの韓国のリーダーたちは各教会が100%を達成するとは初めから思っていないという。

なのに達成すると、期待していた以上にやった分は自分たちの指導のせいでやったのだからその分は自分たちがもらって当然だ、と考えると言う。

そのお金で、家を建てたり、高級車を購入したとしてもなんの良心の呵責も感じないので、日本の信徒から見ると公金横領に見えるのである。

問題なのはこのようなバカ正直な日本人を見ると、益々出させるコツを覚えて、もっと絞れば出るのではないかとすら言い出すという。それゆえ、このような状態を続けると時間の問題で教会の経済は破綻すると言うのです。

かって、アボジは国家メシヤに「パラグアイ川には2000種以上の魚がいるのだよ・・・」と言われ、だから魚を捕るように指示を出していましたが、専門家が調べたら、200種ぐらいだったと言う。このように輪をかけて話す手法は「ヌンチ」文化の一種と見てよいでしょう。

従って、従軍慰安婦16万人の蕩減ノルマも文字通り受け止めると、事実に反するという議論になり喧々諤々になりますが、「ヌンチ」の文化から解釈しますと、ソウル大学のイ ヨンフン教授(大韓民国の物語p163)の言われるただの慰安婦1400人は妥当な見解と言えるでしょう。

ちなみに、摂理を推進するために、我々も何かある目標を達成してもらいたい時は程度の差はありますが、輪を掛けて発破を掛けることがあります。

この世でもスポ-ツ界では優勝して来いとか、メタルを取って来いとか・・・、発破を掛けています。




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自叙伝についてのコメント(自叙伝の内容から見えてくる歴史的事実)




私共が愛読しているネットに文師の自叙伝についてのコメントがありました。自叙伝と言えば家庭連合では書写の書だという。書写そのものは立派な修道の行為なのですが、問題は書かれている内容が、史実に合っているかどうかです。


日本語の自叙伝の最後のページには次のように書かれています。

350ページ・・・なお、原書を翻訳するに当たり、史実に誤りがあった部分は訂正し編集しました。・・・

また原著は韓国人読者を主な対象として編集されたものであるため、韓国中心に記された箇所が散見されますが、文先生は日本の将来を誰よりも案じ、一貫して世界人類の救済のために歩んでこられたことをご理解ください。・・・

以下はT氏のコメント:

韓国原書に史実に誤りがあったとは驚いた。この書籍を出版するに当たってUC韓国本部は相当の力を入れたはずなのに、事実に誤りがあったことに気がつかないまま出版されたということは、理解に苦しむ。

史実に誤りとは、いったいどのようなことか。誰がどのようなところを指摘したのか。

日本語版はどこを、どのように訂正されたのか比較してみたい。


次にI氏のコメントを紹介します:

自叙伝はツッコミどころ満載なのですが、愛国者を自認するTF自身の証言によって日韓併合当時の実態を見ることができます。では見ていきましょう。



(p.22) 家も土地も日本人に奪われて、生きる手立てを求めて満州に向かった避難民が、わが家の前を通り過ぎていきました。

→ いわゆる「日帝の収奪」が事実誤認であることについては、すでに一般にも多く語られているので再言の必要はないと思います。TFはこのように書いていますが、自分の村や近隣の村で「収奪」の具体的事例があったとは一言も出てきません。風評だけだったのではないかと推測されます。

また再臨論には「数多くの韓国人たちは日本の圧政に耐えることができず、肥沃な故国の山河を日本人に明け渡し、自由を求めて荒漠たる満州の広野に移民し、云々」とありますが、自叙伝によると「我が家の前を通り過ぎて」行った人たちは、政治的な理由(祖国解放)でも「自由を求めて」でもなく、単純に経済的な理由、つまり職を求めて移動していたことがわかります。そして、満州に至るまで移動の自由は確保されていた、ということもわかります。



(p.55) 五山学校は独立運動家である李昇薫先生が建てた民族学校です。日本語を教えないだけでなく初めから日本語を使えないようにしました。しかし、私の考えは少し違っていて、敵を知ってこそ敵に勝つことができると考えました。それで、再び編入試験を受けて、今度は定州公立普通学校四年生に入りました。公立学校の授業はすべて日本語です。

→ 「民族の言葉を使わせないようにした」とよく言われますが、実態はこの通りでした。日本語を禁止する民族学校が堂々と運営されており、日本語を学ぶには、わざわざ遠く離れた普通学校にまで行かなければならなかった、という証言です。



(p.56) 私は志願して、彼らを前にして演説をしました。感謝の言葉を述べたのではありません。この先生はどうであり、あの先生はどうであり、学校制度にはこのような問題があって、この時代の指導者はこういう覚悟で臨むべきだ等々、批判的な演説を日本語で続けざまにやりました。

「日本人は一日も早く荷物をまとめて日本に帰りなさい。この地は、わが国の者たちが子々孫々にわたって生きていかなければならない先祖から受け継いだ遺産です!」

→ そんなことを卒業式で志願して演説すれば当然問題にはなりましょうが、それ以上にはならず、留学の許可も警察署長と争ったら取れたというのですから、当時としては実に穏やかなものだったでしょう。

チベットやウイグルで「中国人は中国に帰りなさい」と演説したらどういうことになるか容易に想像できましょう。その場で取り押さえられ、二度と帰ってくることはありません。

中共まで行かずとも、日本家庭連合内で「韓国人は韓国に帰りなさい」と演説したらどうなるか、これまた容易に想像できます。現在の家庭連合は当時の日本以上に異論を容認しない所だということです。

いわゆる「世界史上最も過酷な支配」の実態というのはこのようなものであり、現代の日本家庭連合はそれよりも過酷な支配をしている訳です。




(p.79) 入学と同時に参加した韓人留学生会の新入生歓迎会で、私は祖国の歌を力強く歌って、熱い民族愛を誇示しました。警察官が居合わせた席でしたが、かまわず堂々と歌い上げました。

→ 堂々と民族愛を歌い上げても日本人も日本の警察官も黙認していたということです。現代の韓国で堂々と日本語の民族愛を歌い上げたらどうなるでしょうか?日本人は当時から非常に寛容であったことがわかります。これまた、いわゆる「世界史上最も過酷な支配」の実態の証言です。



(p.80) 東京には、留学生で構成された地下独立運動組織がありました。祖国が日本植民統治下で呻吟していたのです。独立運動は当然のことでした。

→ 「他国人による統治で呻吟していたら独立運動は当たり前である」とTFは言明されています。現在の日本家庭連合にもあてはめてみるべきですね。



(p.80) 大東亜戦争が織烈を極めるにつれて、弾圧は日に日に激しさを増していきました。日本政府が韓国の学生たちを学徒兵という名目で戦場に追い立て始めると、地下独立運動も次第に活発になっていきました。

→ 朝鮮人の志願兵(強制的な徴兵ではない)については、朝鮮人自身が志願に殺到し不合格で悲観し自殺者まで出た、というのが事実であることは、世の中ではすでに明らかにされています。TFはその事実を目で見ていたはずですが、「視れども見えず」の心理状態だったことがわかります。



(p.87) 日本が始めた大東亜戦争の戦況は日増しに切迫していきました。切羽詰まった日本は、不足する軍人の穴を埋めるために、健康な二十歳以上の学生を休学させて、学徒兵として出征させました。そのため、私も六カ月早く卒業することになりました。

→ 学徒兵として徴兵されたのは日本人のみでした。朝鮮人であったTFは六カ月早く卒業したあとソウルに帰っていきました。これも「朝鮮人の強制的な徴兵」というものは虚言であるという証言です。



(p.80) 日本の天皇をどうするかについて色々と討論したこともあります。私は組織上、留学生を束ねる責任者となり、金九先生の大韓民国臨時政府(金九は当時主席)と緊密に連携しながら、同臨時政府を支援する仕事を受け持ちました。

→ これこれ。こんなことを公言して自慢するから、日本から拒絶されて当然。自分の民族感情は大げさに公言して自慢するのに、他国の民族感情は逆なでして省みるところがありません。



(p.80) そのため、警察に捕まって、取調べを受けたり殴られたり、留置場に拘禁されたりしたことも、数え切れないほどありました。追いかけてきた警察と四ッ谷の橋で、欄干の柱を抜いて戦ったこともあります。この当時、私はぐつぐっと煮えたぎる火の玉のようでした。

→ 欄干の柱を抜いて警官と戦えば、そりゃ警察に捕まります。地下独立運動を知られている上にこんなことをして、それでも後には釈放されているんですな。

戦争の真っ最中でありながら、当時の日本の警察はずいぶん甘いものだったと言うべき。日本以外の国ならあっという間に抹殺されたでしょう。現代の北朝鮮・中共は言うに及ばず、ロシアでも、反体制的な人物は次々と抹殺されていることと比較すべし。



(p.75) ソウルにいた時も熱心に教会に通いました。最初は黒石洞五旬節教会に通い、漢江の向こう側(北側)にあった西氷庫五句節教会にも通いました。その後、内資洞(現在のソウル特別市鍾路区内)のイエス教会と黒石洞にあった明水台イエス教会に通いました。教会で日曜学校の先生を務めたことを思い出します。私の話は抜群に面日くて、子供たちがとても喜びました。

→ 再臨論では「八・一五解放直前の日本帝国主義の韓国キリスト教弾圧政策は、実に極悪非道なものであった。」とのことですが、自叙伝を見ると、ソウルにはいたるところにキリスト教の教会があり、子供も何の不安もなく教会に通い屈託なく笑って話を聞いていた、という証言です。



(p.88) 日本留学を終えて祖国に帰ってきたものの、それまでと何も変わるところがありませんでした。日本の圧政は日々激しくなり、国土は血の涙に濡れていました。私はソウルの黒石洞に再ぴ腰を落ち着けて、明水台イエス教会に通いながら、日々新たに悟るすべての内容を、几帳面に日記帳に書き留めることにしました。

→ これは留学から帰ってきた話ですから戦争の真っ最中ですが、その当時も自由にキリスト教教会に通うことができた、という証言です。



(p.92) 四月に結婚式を挙げる予定が、義父が急に亡くなったので、当初の日取りを延期して一九四四年五月四日に婚礼を行いました。五月は普通ならのどかな春の日ですが、その日は土砂降りの雨でした。イエス教の李浩彬牧師が主礼(結婚の儀式を執り行う人のこと)を務めてくれました。

→ やはり戦争の真っ最中でも、キリスト教教会で、牧師が主礼となって普通に結婚式を挙げていたという証言です。「極悪非道なキリスト教弾圧政策」とはどこの話なのでしょうか?



(p.96) その時はもう共産党から逃れようと、北から避難民が続々と南下してきていました。特に、共産克が宗教を迫害したので、多くのキリスト教徒が宗教の自由を求めて南側に下ってきました。宗教はアヘンであるとして、民衆に宗教を持たせないようにしたのが共産党です。

→ 逆に言えば、日韓併合時代には北にも多くのキリスト教徒が宗教の自由を享受していたという証言です。



(p.97) 一九四六年六月六日、平壌に到着しました。もともと平壌は「東洋のエルサレム」と呼ばれたように、キリスト教が深く根を下ろしている所です。日本の占領期には、神社参拝は言うに及ばず、皇居のある東方に向かって敬礼させる東方遥拝など、ありとあらゆる弾圧が縱橫に加えられました。

→ 歴史的事実としては、① 日韓併合時代以前の大韓帝国時代にはキリスト教は朝鮮に根がほとんどありませんでした。② 日韓併合時代には『「東洋のエルサレム」と呼ばれたように、キリスト教が深く根を下ろし』た。③ 日韓併合時代が終わると信仰の自由が失われて信者は逃げてきた、ということです。

客観的に見て、信教の自由を認めていたのは誰であり、「ありとあらゆる弾圧」を「縱橫に加え」ていたのは誰でしょうか?



(p.90) 彼女(注:第一のお母様)はとても由緒ある家庭で生まれ育った真心を尽くす女性でした。小学校しか出ていませんでしたが、ほんのわずかでも人の世話にはならないという性格で、神社参拝を拒否して十五歳で獄中生活をしたほど、信念のある信仰深い女性でした。

→ 具体的な状況はわかりませんが、神社参拝を拒否して投獄される、という事例はあったようですね。一方、TFが神社参拝を拒否して投獄されたという話は自叙伝には一回も出てきません。

TFは神社参拝をしたのでしょうかね?それとも、しなかったけれども黙認されていたのでしょうか?TFの周囲にもこの女性以外には「神社参拝を拒否して投獄」の具体的事例はありません。どれくらい一般的で強圧的だったのか疑わせるに足るものです。



(p.107) 川崎の鉄工所で働いた時、タンクに入っていって硫酸を清掃しましたが、毒性のために死んだ人を数人目にしました。しかし、興南工場はそれとは比較にならないくらいひどい所でした。硫酸は有毒で、触れると髪の毛が抜け、皮膚から粘液が流れます。硫安工場で六カ月も働けば、喀血して死ぬ人もいます。(注: 以下、惨憺たる状況説明が続く)

→ つまり「史上最悪の植民地支配」の日本よりも、同じ朝鮮民族の行わせた強制労働の方が「比較にならないくらいひどい」という証言です。なるほど。



(p.32) 一九四五年八月十五日の光復以後共産党が牧師や独立運動家をむやみやたらと殺害する事件が起きました。大叔父は幸いにも難を逃れ、家族に迷惑をかけないように共産党を避けて、三八度線を越えて南の旋善に向かいました。

→ これは潤國大叔父の話です。「牧師や独立運動家をむやみやたらと殺害する」ことは、日韓併合時代にはなかったが、同じ朝鮮民族による共産党支配時代には起こったという証言です。

自叙伝には書いていませんが、南でも暗殺だらけだったことが知られています(何で書いていないのかな?日本には勇敢なTFも韓国には及び腰みたいですね)。

いずれにしても、このような証言を見ても、どちらが本当に凶悪だったのか見て取れます。

なかなか重要な証言が載っていますね。

以上I氏のコメント終わり



反日国家韓国で主に韓国人のために出版された自叙伝の中からでさえ、このような歴史的事実が浮かび出てくることはとても興味深いことではないかと思われた方はクリックお願いします。
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奇奇怪怪な話(教会に巣くうゴロツキたち)


原理研究会のあるブロック長がH1の講演会に行っただけで、解任されましたが、韓国人の牧会者は男女問題を起こそうが、公金・献金をいかに乱用しようが、解任されずに本部預かりだという。

その理由は以下の通りですが、私が聞いている情報では、解任された韓国人牧会者は裁判に訴えて、教会側が負けたという。それで、本部預かりだと聞いています。要するに、韓国人の牧会者は教会に給料を払わせ続けているという。

そこで、奇奇怪怪なのは、解任された原研のブロック長の無抵抗ぶりである。ゴロつきと言われている韓国人の牧会者が教会に給料を払わせ続けているというのなら、同様にこれを盾にして彼にも教会に給料を払わせ続けさせるのが妥当でしょう。

教権側に簡単に法的には解任など出来なくすることが大切なのです。


原理を語るゴロつき

 ワルの韓国人幹部は少なくないようだが、横綱クラスはなんといっても、金ヨンイル大分教区長だろう。 この御仁の名前を覚えておいでの読者は相当、記憶力がいい!

 そう、金ヨンイルは佐賀教会の元教会長。佐賀聖殿堂建設をめぐって、ブログ「目安箱」で批判されてきた人物である。



この御仁、信仰者などでは決してなく、統一原理を語るゴロつきである。その男が大分から外され、本部預かりとなった。いったい、何があったのか。


情報通が話す。

「篤志家ラインから上がった献金を教会の会計に渡さず、教区長個人が勝手に使っていたとして、会計含む数名から本部に報告(告発)がいったようです」

「また、佐賀の篤志家から献金してもらった3500万円を食口たちに利息(10%)をつけて貸し出そうとした疑惑も持ち上がっています。本部がこのことを質問しても、本当のことを言わないという」

「またあろうことか、本部の動きに対抗して金ヨンイルは大分の食口たち120人に教区長は悪くないという本部への嘆願書にサインさせたそうです」

「女性教会員の胸を触ったという話も流れています。もうやりたい放題。佐賀時代と同じことをやっています」

「彼は地区長も経験しており、秘密をばらせば本部が困るような事実を多く知っている人物です。開き直られたら本部が抱えている裁判がひっくり返ってしまう可能性もあり、完全に首を切れず本部待機になっていると思われます。本部も本人も腐りきってます」




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天国とは神を父母として侍る万民一家族の世界




ある兄弟がある牧師から次のように言われたそうです。

「家庭連合は日本のキリスト教を救う存在だ」

この言葉を聞いて、彼は、「自分は今の家庭連合には希望を感じないが、A牧師は日本を家庭連合に任せようとしている。どちらが正しいのだろうか。」と思ったそうです。

これに対する私の考えは次のようなものです。


それは嬉しい話ですが、同時に怖い話しです。UCのあらゆる問題点を知っていて、そのように言ったのならよろしいのですが、表面のみを見てそのように言うのであれば、実態を知ったときそのA牧師はどのように反応するのでしょうか。

但し、私は今の時代はUCの春と思っています。春とは韓国至上主義の絶対君主制による献金奴隷制度の崩壊です。

献金の額によって天国に行くのではなく、愛の完成、人格の完成によって地獄へ行くのが天国です。私どもは自分が天国に行きたいから献身したのではありません。地獄を解放するために献身したのです。

そもそも自分が天国に行きたいから献身するのは一種の現世利益と同じです。ご利益を地上から霊界に摩り替えたに過ぎません。その共通点は欲望から出ていることです。

仏教の真髄は欲望からの自由になることです。キリスト教においても、愛が完成し、人格が完成に近づけば近づくほど、99匹を天国に残してでも、迷える子羊を捜し求めて、地獄にまで降りて行くことを自然の発露として厭わなくなることなのです。

然るに、UCはどうでしょうか?UCの祝福や聖和式を受けないと天国に行けないとか、地獄に行くとか脅しているではありませんか。

また、誰々の聖酒を飲まないと天国に行けないとか、地獄に行くとか・・・、似たようなものです。

そもそも、天国とは脅されて行くところではありません。再臨は地上に天国を築くためにあるというのなら、霊界の天国を云々する前に、この地上に天国を築くことに邁進することです。




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「各教会の悩み」に対するN氏のコメント

先回の投稿「各教会の悩み」に対するN氏のコメントです。一読に価するでしょう。


N氏のコメント:

 経典である「天聖経」の中にTMを批判している箇所があるとは驚きでありますが、印刷する前の点検と校正&修正?が重要でしょう。下記の様なことが事実であれば、幾重にも問題があるでしょう。

 高額献金されて購入したご本人にはショックであり、悲劇でありましょう。それにしても欠陥商品化した聖典「天聖経」の処理に困り、そのまま保管状況が続き、そのためにかなりの「高額保管費用」を払い続けているという告発はお笑いの様な悲劇であります。

 このような事項で、私にも間接経験があるので思いだし、一報したく思います。

 1980年代に、米国で「移動VIDEOセンター」との触れ込みで、ベンツの二倍以上もすると言われていた「豪華なキャンピングカー」超・高級マイクロバスを購入して改造し、各車に10台(12台)ほどのVIDEOを設置した「モービル・ビデオ・カー」を各州に5台=50州で:250台~~を[一気に整えた]ことがありました。

 韓国のリーダー的なメンバーの推薦でTFさまは「一気に決断」し、各州に「モービル・カー」が、日本からの献金で購入されて、「VIDEOモービルカー」として設置されたのでした。

 各車・10台(~12台)のVIDEOの数も、250車×10台=2500台~で巨大です。米国に行ったばかりの私でしたが、決定される場面はTFさまが1500~2000人のメンバーの前でなされたのでよくよく覚えていました。

 結果は,

1)教区&教会は、全くVIDEOキャンピングカーでの伝道体制が造れていなかったこと。

2)巨大?&ベンツの2倍以もする高額車両なので「保険金などの維持経費も高額」であり各州・教区はこの点からも活用できなかったようでした。

 結局VIDEOを取り払って移動用のマイクロバスのようにある時期ファンドレイジングなどに活用されたのでしたが、やがて未使用状態に至り、「駐車場保管」となったようです。

きけば、車保険代も高く・・ほとんどが、結局駐車場を借りて:「保管するのみ」になったとのことでありました。

 大勢のメンバーの前で、TF直接の決断で購入されたことであり、教区は処分も出来ず車は駐車場で何年もするうちに「朽ち果て」、さびた屋根から雨水が社内に入って、くたばり/朽ちはてた「モービル・カー」となったのでした。

 全部が全部ではないでしょうが、私は、朽ち果てた「栄光の・モービルカー」に入ってみて、あの華々しかった250台~~購入の場面を思い出し涙したことがありました。

 また山の様なほとんど活用されていなかったVIDEOの山を我らの倉庫で引き受けていた体験も致しました。


 私はまた:ボストン:グロスターで「ボート・ニューホープ」〇〇〇台ほどの老朽化してしまったボートの死体の様な山を一面に目にしたこともあり、ショックでありました。

 「オーシャンチャレンジ」では個人的には大きな恩恵を受けたので感謝が一杯でしたが、大々的なボートの製造と使用は、夏季の一時期だけであり、結果的には一時代だけで終わってしまった感があり、廃棄に至るボートの群れを目にしたときは、「この写真が取られ、悪用されたなら大変だ」と思ったことがありました。このことは全くたまたま見た心痛き光景であり体験でありました。

 TF上様の決断は超越的で、蘇生、長生、完成の様な原理の観点を超えて、暴走?の様相があるようでいつも超越的でダイナミックであります。

韓国の先生や長老たちは、TF様をよくよく知って、「さじ加減」でTF様の言葉を話半分??とらえるようになっていたようですが、日本人食口メンバーはそのまま正直に受け止め結果「無理と無駄」とが結果になるようでした。

 再臨主である超超宗教家のアボジの「統治行為&直接主管」は、かなり超越的で我ら下々には大きな試練であり、時には「無理難題&無駄と悲劇」をも生みかねないと実感した者であります。

 「メシアの直接統治=メシアの直接統治権行使」には絶対的命令??の様な、弊害も多いので、「再臨主・メシア様には宗教的な勝利基準が立ったのであれば、それ以外の、経済、政治・・などの実務に対しては現場主体の主義で、「メシアの・直接統治行為」には最大のご遠慮と配慮をお願い&祈る者であります。

 天宙の皇族圏の主体・中心であられる・メシアの象徴ともいえる:日本国天皇は、「君臨すれども統治せず」のお立場で、憲法第一章天皇条項には「天皇の国事行為」が明記さていますので、参考になると私は考えています。「皇室範典」も完備されていま
す。

 昭和天皇も統治権行為を「直接執行」されたのは2/26事件の時と、終戦の時であり国家の究極の「非常事態」の二回だけであったと回想録にもあります。

 キリスト教はある意味でメシア・イエス様が天界におられて「君臨すれども統治せず」が成り立ってきたから、世界宗教に発展したように思います。アージュ




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各教会の悩み(真の信仰には良心と理性が必要なのです)




教会の悩みと言えば、色色あるでしょうが、その内の一つは古い天聖経、多宝塔、ミニ聖宮などのいわゆる教会グッズの置き場所に困っているいう。

なにやら、古い天聖経はアボジがTMを批判しているみ言葉(お言葉?)が載っているので、禁書ゆえ販売禁止になっているそうです。名目は誤字があるからと信徒には伝えるそうです。

天聖経は一冊430万だったかと思いますが、家や田畑を売ってまで、数冊買った信徒もいるようです。

しかし、TMを批判している箇所があるからTMから禁書扱いにされると、信徒たちは貧血を注いでまで購入したのに今更何だったなのかと呆然としているという。

これは立派な心情蹂躙罪です。主婦の信徒たちは夫に内緒でこれらのグッズを買っても、置くところがないので、結局、教会に預かってもらうという。

しかし、教会も置くところが無いので高い貸し倉庫を借りてまでも保管しているという。敬虔で信仰深い人ほど、このような被害に会うのです。

この報告を聞いた人たちの中には、アメリカにおけるボ-トとキャンピングカ-の失態を思い出した人がいます。

破格な金額を投入して、ボ-トを建造したのはよいが、200隻のボ-トが雨だらしに曝され、錆付いている姿は惨めなものです。

また、伝道の摂理の為にと言うことで、250台ほど、ベンツの数倍も高額なキャンピンギカ-を購入したのは良いが、何処の教会も維持費の為に万物復帰しなければならなくなり、伝道どころで無くなり、結局は宝の持ち腐れになり、雨に曝され、錆びて廃車になって行くのです。これらはほんの一例ですが、あらゆる分野で、特にビジネスの分野では日常茶飯事だったのです。

その膨大な損失のお金は日本の献金ノルマとして跳ね返って行くのです。それゆえ、心ある人々はこんなことを続けていたら、遅かれ早かれ、UCは破綻すると思ったのです。案の定、UCは教祖の死後、一代で分裂です。

これらの問題は信仰と現実との緊張関係、バランスを提示しています。また、真の信仰とはは何であるかという問題を提示しています。

オ-ム真理教では、真面目で熱心な信者ほど教祖の言うことがたとえ非理性的であってもに盲従し、サリンまでばら撒いたのです。

いい加減な信徒や冷徹な信徒ははサッサと逃げてそんなことはしません。信仰とは時には皮肉なものです。宗教戦争は神の名において、行われます。信仰の厚い熱心な信徒ほど、恐ろしいことをするものです。

良心がまともな人は天聖経に430万や聖本の3000万の値段を付けたりはしません。ウオンピル先生はこの事実を知って、”人はお金によって救われません”と叫んだのです。

だから、良心は神よりも偉大であるというのです。それゆえ、真の信仰には良心と理性が必要なのです。教会では、良心的な人を人間的事情に負けた人だと言い、理性的な人をカイン的だという傾向がありますが、実際にはアベル的と言われている人々の方が、何が真理であるのかを探究せず、アイヒマン(小役人)のように組織の上司に盲従するのです。

引っかからないように気をつけましょう。クワバラ、クワバラ・・・


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編 集

エロースの愛とアカペーの愛の統一について




性衝動の転換と愛



ナポレオンヒルは、彼の著書「成功哲学」の中で、「セックスエネルギーの正しい使い方を知らなければならない。男性が偉大になるためには、必ず女性の愛が必要なのだ。」と言った。

ヒルが言っていることを要約すると、

1.性の願望は、人間の願望の中でも最も強力なものであり、そこから出てくる性のエネルギーをビジネスの方向に転換させれば、最も旺盛な創造力、勇気や意志の力や忍耐力などを発揮するようになり、偉大な成功を収めることができるようになる。

2.性は必ずしも肉体的なものだけではなく、多分に精神的な側面を持っており、そこには建設的な役割がある。すなわち、人類の永続、健康の維持、凡人を天才に転換させることなどである。

3.歴史のページは、女性によって偉大な指導者となった人々の記録で満ちている。ナポレオン、ボナパルトの最初の妻、ジョセフィンに励まされていたことは、全く無敵であったが、彼の「わがまま」ゆえに、彼女と離婚してしまったときから、急速に衰退し、敗北となってしまった。

また、妻の影響力で大成功を遂げ、金と権力をつかんだ男が、その妻と離婚して新しい女と一緒になったとたんに破滅していった例はたくさんある。

4.性の感情を野放しにすれば、身の破滅をもたらすが、これを愛の感情と結合させることができれば、健全な調和のとれた理性で行動できるようになる。

それは、愛が無限の知性と交信を可能にするからである。それゆえ、節度あるセックスと永遠の愛が結合した結婚でなければ、幸福にもなれないし、永続きもしない。



以上がヒルの「性と愛」についての要約ですが、ここでは、ヒルは単に経験から「性と愛」について言及しています。そこで、私は次にこれらのテーマをもっと学問的な観点から整理して説明したいと思います。


アカペーとエロースについて

ヒルが言う性または性愛についての願望というのは、一般的に「エロース」と呼ばれている愛です。そこでまず「エロース」について語ってみましょう。

エロース(Eros)とは、ギリシア神話の愛の神のことですが、一般的意味としては上昇的な愛のことです。

ギリシアの哲学者、プラトンはエロースについての物語を、次のように展開しています。貧困の神(ぺニア)が豊饒の神(ポロス)と親しむことによって1人の子女を得ます。それがエロースの神なのです。

したがって、エロースは父である豊饒の神と、母である貧困の神との両方の性質を備え、常に自らに何かを欠けており、満ち足りないものがあるがゆえに、豊饒を求め、満ち足りようとするのです。

すなわち、エロースの中の自ら満ち足らない焦燥と、無限な豊饒を求める渇望の二重性格が、神話の形で巧みに描かれているのです。ところが、このようなエロースは美を求めるのですが、それにはいくつかの段階があるのです。

はじめは、肉体的な美しさを求めることから始まり、次第に魂の美しさを求める段階に移っていくのです。

そして結局は美のイデア、すなわち究極の美に至るまで飽くことをやまないのです。このようなエロスの愛の性格を段階的に記述すると、次のようにまとめることができます。


エロースの愛

1.人間的愛
2.肉体的愛
3.自己中心の愛、同時に最も崇高な自己主張の形態
4.必要感によって獲得し、所有せんとする意志
5.自己のための、上昇せんとする人間の努力
6.対象の価値を認め、それゆえに対象を愛する


以上の説明からわかるように、エロースの愛は、対象の価値を追求する愛なのです。世の中には、このようなエロースの愛をエロスと呼び、エロチシズムと取り違えたような意味合いに受け止めてしまっている人も少なくはないのですが、それは大変な曲解です。


それでは、アガペーの愛とはどのような愛でしょうか。エーロスが対象の価値を追求するのに対して、アガペーは他者の為に生きる愛であり、自己否定を伴い、自己犠牲をもいとわない純愛なのです。このようなアガペーの愛をエロースに対比させてみると、次のように展開できます。


アガペーの愛

1.神的愛
2.精神的愛(隣人愛)
3.非利己的な愛、ゆえに惜しみなく自己を消費する
4.無条件に与え、与えたことを忘れるがゆえに所有を主張しない
5.上から自己を与えんとして降りてくるもの
6.まず愛し、したがって対象の価値を求めず、かえって対象の中に価値を創造する


以上がアガペーについての説明ですが、人間の中にはエロースの愛だけではなく、このようなアガペーの愛もまた存在しているのです。


日常生活への応用

それでは、ここで学んだエロースとアガペーという愛の概念は、私たちの日常生活にどのように適用できるのでしょうか。具体例として、あるフランスの哲学者が書いた小説の一節を紹介しましょう。

ある貴族の娘が恋人に向かって、「あなたが愛しているのは、私という存在そのものではなく、私が持っている美貌や地位や財産ではありませんか」という場面があります。

すなわち、彼女はここにおいて、恋人に対して、彼の愛が「対象が所有している価値」を愛するというエロースの愛の次元を越えて、彼女自身の存在を無条件に愛するというアガペーの愛に至っているかどうかを、問うているのです。

恋愛も、美貌や財産の切れ目が縁の切れ目では、「お岩さん」のように捨てられて,恨めしい物語で終わってしまいますから、それはアガペーの次元まで高められなければなりません。

エロースの愛の性格は、相手(対象)から愛されることを求めるので、互いに要求する愛で傷つけ合い、恋愛が必ずしも夫婦の愛に高まらず破綻に至る場合が多いのです。

これに対して、アガペーは互いに相手を大切にし、同時に相手に対して責任を持つ愛なのです。

従ってアガペーは、愛されることよりも愛することを願い、慰められることや求めることよりも、慰めることや与えることを願い、信じられようとする人よりも、まず自分が信じる人となり、認められようとすることよりも、まず自分が他者を認めようとするのです。

そこで、もしあなたがこのようなアガペーの愛を確立することができたなら、いかがでしょうか。

もしあなたが夫であって、妻や子供や友人、そして同僚や上役に対して、愛されることよりも愛することを、慰められることよりも慰めることを、信じられることを求める前に信じることを、認められたいと願うよりも、認めることができるならば、あなたの心は常に平安に満ち、あらゆる人間関係は円満に展開されていくでしょう。

また、あなたが妻であって、夫や子供や友人や隣人に対して、これらのアガペーの愛を実践できたなら、同様にあなたの心は平安に満たされ、あらゆる人間関係は円満に展開されていくでしょう。


アガペーとエロースの統一

それでは、いったいアガペーとエロースはどこで出会い、統一されるのでしょうか。エロースには美を追求して上昇していく性質があるので、究極的には魂の美しさを追い求めるようになります。

したがって、結局エロースは、アガペーに出会わざるを得なくなります。それでは、これらの愛はそれぞれの異なった独自性を保ちながら、どのように統一されうるのでしょうか。

それはまず、アガペーの絶対不変の愛を確立した土台の上で、エロースの愛を展開させれば統一は可能です。

すなわち、まず人種、国籍、肌の色、年齢性別などの違いを超えた人間としての類的、普遍的な価値を心の底から認め、これを十分に尊重し、その上でそれぞれ個々人が持っている価値を追求し合うところに、アガペーとエロースの統一があるのです。

そしてこれらの愛を統一的に管理できる人の事を成人(真の意味で人間になること)と呼ぶべきでしょう。

愛は美しく、豊かで、素晴らしいものですが、管理できずこれにおぼれると身の破滅を招き、家庭の崩壊をもたらします。そして、このような問題をテーマにしたメロドラマが、テレビを通して頻繁に放映されています。

西欧において、キリスト教の倫理がまだ健全に作動していた時には、愛は健全なものでしたが、キリスト教が衰退しだしてから「西洋文明の没落」や「民主主義の危機」などが言われ、愛も健全さを失い、暴力とセックスとエイズ等が横行する中で混迷しています。

そして日本は、混迷した西洋文明の影響をもろに受け続けています。それゆえ、未来に向けて「新しい文明」を語り、その建設に向かって努力することは、一層重要なこととなっていきます。しかし、「新しい文明」は、身近でしかも最も重要な「愛」というテーマを抜きにしては語れないのです。



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英国人ジャーナリストヘンリーストークスが語る「世界史の中の日本」




英国人によるこのような発言は、とても説得力があります。一読に価するでしょう。



英国人ジャーナリストヘンリーストークスが語る「世界史の中の日本」

藤田裕行 訳(ハート出版)


1941年日本はアジアで大英帝国を瞬く間に滅亡させてしまった。非白人が白人の植民地支配を覆したのだ。

対日戦争は、わが英国が勝利した戦争ではなかった。日本軍は大英帝国を崩壊させた。英国人は誰一人として、そんなことが現実に起ころうとは、夢にも思っていなかった。

それが現実であると知った時の衝撃と屈辱は創造を絶するものだった。唯一の文明世界であるはずの白人世界で、最大の栄華を極めていた大英帝国が有色人種に滅ぼされるなど、理解することのできない出来事だった。

「猿の惑星」という映画があったが、まさにそれが現実となった衝撃だった。人間(=西洋人)の真似をした猿が、人間の上に立つ。それが現実になったら、どのくらいの衝撃か、想像できよう。それほどの衝撃を英国人に与えたのだ。

いや、英国人だけではない。西洋文明そのものが衝撃を受けた。私は、講演で何度も、この五百年の歴史は、「白人が有色民族を植民地支配した歴史だった」と語ってきた。

その五百年の歴史を覆し、大英帝国を滅ぼしたのが日本であるならば、その意義はもっと大きなスパン、世界文明史のような観点の中で、再定義されてしかるべきだ。

世界史では、様々な王朝や国家が、勃興しては滅亡していった。征服につぐ征服、侵略につぐ侵略が、世界史でもある。

その中で特異な存在として浮かび上がる、日本の姿が私には見て取れる。この国は、その大国の興亡の中で、太古からずっと一つの文明が一つの流れとして、征服されることなく今日まで続いているのだ。

もし日本が大東亜戦争を戦わなかったら、日本も白人の植民地になっていたかもしれない。

もし日本が大東亜戦争を戦わなかったら、アジアはいまだに白人の支配する世界が広がっていたかもしれない。

そう考えてみると、大東亜戦争は「侵略戦争」か否かなどというつまらない議論を超えて、もっと大きな世界文明史的な意義が見いだされよう。

つまり、白人による世界支配を終焉させ、人種平等の世界の実現へと舵を切らせる偉業を果たしたのが大東亜戦争だったということだ。


これから未来に生きる日本の子供たち、まだ生まれていない未来の日本人のために、私はメッセージを伝えたい。

日本は、世界を侵略した犯罪国家ではない。世界を侵略していたのは、この五百年をとれば白人列強諸国だった。

日本はむしろ、その残虐非道な白人の世界侵略を覆した「正義の国」なのである。

それは、白人キリスト教徒の史観からすれば、その支配を覆した悪魔の所業であった。

歴史というのは、その立ち位置で認識が違ってくるものなのだ。日本人が欧米キリスト教徒の史観をだた受け入れる必要はない。

日本は、日本の立場をこそ、世界に向けて発信すべきなのだ。

特にマッカーサーによる占領後七十余年の日本は、連合国戦勝史観で自らを洗脳し、呪縛してきた。

私が今訴えたいのは、「その呪縛から解放されよ」との一点である。世界史の中での日本の来歴と大東亜戦争の意義を、再考しようではないか。

また、世界史を日本の歴史と比較して、再検証してみようではないか。その時にはじめて、今まで日本人も、白人列強の側にいる者も、気づかなかった大東亜戦争の姿を目にすることができるようになる。

日本人が、大東亜戦争を誇りを持って語れる日の到来を祈念して!

以上ストークス氏の話終わり

美しい映像付きで見たい方がこちらをどうぞ
https://www.youtube.com/watch?v=_wDOff6My-s&feature=youtu...



これはまさに正論であり、日本を戦犯国家と決めつける隣国の主張は、歴史と共に消え去っていく愚かな主張ではないかと思われた方はクリックお願いします。
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聖書の真理とは(み言葉の内容を政治的に決めようとしているUCの姿)




・聖書とは何かと問われたら、それは科学書ではなく宗教書ですと答えるのが一番無難です。

宗教書は人間の創造の本性を啓発し、育成し、神に似た人格を形成するのに必要なものなのです。そのためには、優れた道徳書であり、倫理書でなければなりません。
 
・それでは本性とは何でしょうか?それは真・善・美・聖・愛・正・義に満ち溢れた性質です。これを顕現するのに必要なものが、いわゆる、み言葉です。

み言葉とは完成を目指した人格形成に無くてはならないものです。その為にはそれは神霊と真理に満ち溢れていなければなりません。キリスト教徒はその意味において聖書をみ言葉の書と理解し、信じているのです。

・み言葉とは神の言葉と言う意味ですが、神語というものが存在しませんので、どうしても人間を媒介にして語られるので、人間の言葉になってしまうのです。

み言葉は聖書では預言者とかイエスの口を通して語られる言葉になりますが、何処から何処までがみ言葉かお言葉なのかが、その判定がとても難しいのです。

キリストといえども神性と人性を持っていますので、その難しさは同じです。預言者も同じ問題を抱えています。聖書の中には、王を糾弾する預言者も出てきますが、王が召抱えている預言者は王を擁護する言葉を語ります。

預言者とは神の言葉を預かる人たちなのです。そこで、人々はどちらの言葉がみ言葉(神の言葉)で、どちらの言葉がお言葉(人の言葉)なのか?判断に迷うのです。それゆえ、聖書にはその両方が混在しているのです。

・この問題は聖書だけでなく、家庭連合でも同じ問題を抱えています。お父様は生まれながらの無原罪の独生子で、お母様が堕落圏から復帰されて、お父様を通して無原罪の独生女になったのか?それともその逆なのか?という問題です。

TFもTMも神性と人性を持っていますので、み言葉を語る時もあれば、お言葉を語る時もあるのです。この決着はTFの時代は、TFの言葉が真理であり、TMの時代はTMの言葉に従うのが良いのだという政治的決着をしようとしているようです。

教会政治はこのようなものですが、ここで、注意しなければならないのは、神の言葉は不変ですので人間的決着を超越しています。


また、もう一つ注意しなければならない事はお言葉だからと言って、必ずしも真理ではないとはいえないのです。科学書(自然科学、社会科学、人文科学)は立派な真理です。他宗教でも神霊と真理に満ち溢れて語る場合もあるし、一般人でも感動的な真理を語る場合は多々あります。

・聖書は宗教書なので内的真理について語る書であるという基本認識が必要です。それゆえ、ノアの洪水審判のようなお話は史実を扱う外的真理の考古学の分野になってきますので、科学者に任せておくのが無難でしょう。

しかし、それが史実かどうかと言うことよりも、その中心メッセ-ジは人間が傲慢になり、神の真理から逸脱すると、とんでもない不幸が襲ってくるという神の倫理的、道徳的戒めの出来事として解釈するのが妥当でしょう。

・ちなみに、ヨシュアがエリコ城を陥落した記述はイスラエルを励ます為に作られたお話しのようです。なぜなら、考古学によると、ヨシュアが来る前に、すでにエリコ城は崩壊していたというのです。

・聖書とは:

1.神と人間との正しい関係、
2.人間と人間の正しい関係、
3.人間と万物、すなわち、宇宙自然界との正しい関係

を説いている書物なのです。そして、そこに人類を導く使命を持ったお方がメシアだというのです。しかし、メシア一人では出来る仕事ではありませんので、万人がメシアになってこの正しい関係を復帰しなければならないでしょう。





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愛の実体とは何か(愛の実体からかけ離れてしまった今のUCの姿)




原理によれば、愛については父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛などが解説されているようです。しかし、残念ながら、UCにおいてはキリスト教の説く愛が、韓国の李氏王朝時代に根付いた儒教の概念によって、変質してしまったようです。

以前にも話しましたが、統一神学校の権威ある宗教辞典に中に統一教会の特色の一つとして、教祖と幹部達が裕福な生活をしているが平信徒たちの生活水準は低いという。

また、別な資料によると、韓国では、「父母」とは子供の為に自分を犠牲にして尽くし、愛情を限りなく注ぐ存在を意味するのではなく、家族の中の王様であり、子供達が忠孝を尽くすべき存在である。

これは李王朝時代に形成された朱子学の親子観と言ってよいであろう。親は子供を生んだ時点で権威をもち、生んで育ててもらった子供たちは親に絶対服従し、自分を犠牲にして忠孝を尽くすことによって、家庭の秩序が保たれ、社会秩序が保たれるという。

ちなみに、シムチョンという娘が盲人である父を助ける為に、自分の身を漁師に売り、船から荒海に飛び込む物語がある。これは、一見美談に見えるが一方的である。逆に父が盲人の娘の為に荒海に飛び込む物語も必要であろう。

セウル号において、父母の立場ある者達(船長とそのクル-)が子供の立場に立つ学生達を犠牲にして逃げ出す訳だが、彼らの精神構造は彼らの儒教観を如実に示している。

統一教会においても、「真の父母」と信徒に言われている方々とその一族が宮殿に住み、その維持費や諸々の事業の為に子女の立場にある信徒たち、特に日本の信徒達に過剰な献金を数十年に渡って課する文化構造は韓国の儒教原理主義に酷似している。

家や土地を売らされせ、自己破産させられ、しまいには自殺にまで追いやられ、献金ノルマは加重されても減少することは無いのである。

それではキリスト教の愛とは何でしょうか?



その1:

マタイ25/24-40を見ると、

天地創造の時からお前たちの為に用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が餓えていた時に食べさせ、喉が渇いた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い・・・。はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたのである(You did it to me.)。

この聖句がマザ-テレサの行動の原動力になっているといいます。テレサがカルカッタ-で、一人の老人が異臭を放ちながら道端で倒れているのを見て駆け寄ったら、その老人の顔がイエスの顔に変わったといいます。

キリスト教徒にとっては、イエスは三位一体の子なる神が受肉した人物なので、イエスの顔は神の顔そのものなのです。それゆえ、テレサの観点から見れば、家や土地を売らされ、自己破産し、自殺にまで追い込まれた信徒の姿は神の姿になるのです。

従って、愛の実体のその1はこのようなシック(人)の中に神の姿を見ることです。そして、このように、神が人間の中に、ご自身の姿を現すことを、神学では内在神と呼びます。

残念ながら、今の家庭連合はこの観点が欠落しているのです。それはキリスト教の本来の愛が李氏朝鮮的な下夷秩序体制下で強要される献金ノルマ達成に変わってしまったからです。

神をこのような目にあわせ続けるUC・家庭連合はやがて運勢を失い、三分裂し、TMまでが教祖と真逆のことを言い出し、混乱が益々拡大し、収拾が着かない状態になって行くのです。

このような状態の中で、2020年までに国家を復帰すると豪語しても、そこには具体的なvisionも無く、運動論も活動もなく、空念仏で終わってしまうのです。すなわち、国家復帰に関してはもはや天の摂理を担える団体ではないことを意味するのです。



その2:

UCに距離をおきながらもお付き合いしてくれている牧師は数人います。その一人の方が郭先生の束草事件の証を聞いて疑問を抱きました。この牧師の疑問は以下の内容についてです:


ところでメッセージの朗読が終わるやいなや、顯進様が立ち上がり、「お父様が私を信じることができず、私のすることがいやで、罰を下さろうとするなら、私一人だけ切れば済むことです。何故お父様の下で働く過ちもない人々まで首にするのですか。私はこのような位置にはもはや、いません」という意味の言葉を申し上げ、立ち上がって裏門から出ていきました。

するとお父様は私に顯進様を連れて来るように指示されました。「私の言葉を聞くでしょうか」と言いましたが、お父様は「つべこべ言わずに連れて来い」と言われました。

・・・、そこに朱東文氏が現れました。多分お父様は朱東文氏に対しても、「顯進様を連れて来い」と言われたようです。それで私は朱東文氏に話してくれと言って戻る途中、訓母に尋ねたいことがあって尋ねました。

「訓母様、これは一体何をしようということですか。その霊界メッセージは訓母メッセージということですが、その内容は何をしようということですか」と私が尋ねたところ、訓母は、どうすることもできずに混乱した表情で言葉に詰まりながら、「会長、私はそれには何の関与もしていません」と言うのです。

名前は訓母メッセージなのに、訓母は何らの関与もしなかったということは、それは、つまり偽りの霊界メッセージということです。

郭先生の束草事件の証終わり


この牧師の疑問とはアボジの言葉に傷ついて、顯進氏が立ち上がって裏門から出て行ったのだから、自分が責任を感じて自分で連れ戻しに行けばよいものを、部下(天使長)に、まるで、上司が部下を顎で使うみたいに行かせるのでしょうか?と言うことです。

そして、それはイエスとは全く違うというのです。それもそのはずです。牧師の説教と言えば、以下の聖句を引用して、イエスの謙虚さについて説くのです。


「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しょうとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。

人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました。」
(ピリピ人への手紙2/6-9)


親の言葉が原因で子供が立ち上がって出て行ったのだから、親子の問題は、親自ら出て行ってよりを戻さないと解決しないことでしょう。

自分の言葉で起きた問題を天使長に命じたところで、息子の傷つた心を取り戻すことは出来ないでしょう。自分で蒔いた種は自分で刈らねばならないのです。

アボジ自らが”神と等しい者であることに固執しょうとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり”呼び戻しに行けば、さすがの顯進氏も断れなかったでしょう。

それゆえ、その牧師はこの点がアボジとイエスの違いだ、と言うのです。イエスの己を無にした姿勢はギリシャ語でケノ-シスと呼ばれプロテスタント神学の重要な役割を担って来たのです。

私も己の魂が打ち砕かれ、本当に謙虚になった時に、神が相対してくれました。その時、悟ったことは、神はもの凄く謙虚な方で、万物よりも下にいて、全てを支えているという神体験でした。

類は友を呼ぶといわれるように、人間が謙虚になると、神に似てくるので、相対してくれるのです。従って、愛の実体のその2は己を無にして一番下に置く人格を形成することです。

一般に、原理では、神は絶対主体の立場にいるから、絶対マイナスにになると、神は相対すると説かれています。

しかし、神は絶対マイナスの立場にいるから、絶対主体になれるのです。この世でも、偉い人ほど、頭が低いと言われています。「垂り穂」はその中身が実れば実るほど、稲の穂が垂れるのです。これは神に似た普遍の原理でしょう。

統一家の親子関係は恐らく、これは李王朝時代に形成された朱子学の親子観と言ってよいでしょう。親は子供を生んだ時点で権威をもち、生んで育ててもらった子供たちは親に絶対服従し、自分を犠牲にして忠孝を尽くすことによって、家庭の秩序が保たれ、社会秩序が保たれるという。

だから、アボジは、自分で起こした親子問題でも、部下に命令して連れて来いといったのでしょう。

TMも似たような感じで女王として君臨しています。とても、ケノ-シス神学(己を無にして一番下に置く神学)を体得しているようには見えません。

どんなに高い位置にいても常に己を一番低い位置に空じている宗教とその教祖は時代を超えて生き残りますが、それが出来ないとその宗教は時代と共に消えて行きます。

すでに、その兆候がUCにおいては、教祖の妻と娘からその教義否定と言う形で出来ています。



お父様の聖和4周年記念式典の時に久しぶりに姿を見せられた誉進様。その期間に天一国学術苑創立セミナーがあり、そこで誉進様が『原理講論は、家父長的キリスト教と儒教文化の影響で男性中心主義の誤りに陥っている』と言う論文を発表したそうです。
http://damalhae3.blogspot.kr/2016/09/blog-post_68.html



その3:

愛の実体とは、100匹の羊がいて、1匹が迷い出たら99匹を残してでもその1匹の為に、探しに行く人格のです。

すでに、み言葉にもありますが、人類の中の一人でも不幸な人がいたら、親なる神は幸せではないのですから、その人と神の痛みを共有できる人格が愛の実体です。

従って、神山氏が韓女史の文師とは真逆の無原罪独生女発言で悩み、問題提起をしたら、真摯に受け止め、共に考え、解決策を模索するのが愛の人格なのです。それを公開討論もしないで、一方的に除名するのは愛の人格からあまりにも遠いのです。桜井夫人に対する家庭連合の対処の仕方も中世の悪名高い異端審問を想起させます。



その4:

愛の実体とは、身体障害者でもないのに、信徒に身体障害者の真似をさせて、物品を売らせないことです。これは、心情蹂躙罪です。

お陰で、良心的な信徒は躓いて、教会を去ってしまいました。霊感商法も詐欺まがいの行為ですから、心情蹂躙であり、愛の人格から程遠い行為です。

また、献金のために信徒に返すといって、借金をさせ、期日が来ても返さないで自己破産に追い込む行為は、愛の実体からあまりにもかけ離れた行為です。

愛の実体とは

1.うそをつかないこと。
2.人を騙さないこと。
3.約束を守ること。
4.信頼を裏切らないこと。
5.脅して弱い者いじめをしないこと。
6.威張と傲慢で信徒を主管しないこと

です。



その5:

1.朝鮮戦争で大被害を受けた韓国は、中国に「謝罪と賠償」を一切求めず、敗戦国となった弱い立場の日本に永遠の謝罪と賠償を求め続ける行為は心情蹂躙であり、愛の実体からあまりにもかけ離れています。

従って、そのような天道から外れた国を主の国として崇めさせたり、その文化(小中華思想と恨み)で、日本の信徒を洗脳しないこと。


2.戦時中は日本軍として連合軍と戦っておきながら、日本が敗戦すると、手の平を返したように、誰も認めていない臨時政府の「光復軍」が、連合国と共に日本と戦って独立を勝ち取ったなどという捏造のパラダイムで日本信徒を指導しないこと。


3.歌舞伎、染物、茶道、折り紙、侍、日本刀、剣道、相撲、寿司やしゃぶしゃぶなどの和食などが世界的に有名になったとたん、韓国が発祥地(ウリオリジナル)などと言い出さないこと。それは嫉妬から生まれた捏造のパラダイムで愛の実体とはあまりにも遠いものです。


4.統一家の失敗(離婚、不倫、駆け落ち、略奪婚、事実婚と3分裂)のパラダイムでは日本や世界を指導できないことを悟って、摂理の中心を左翼政権になって行く韓国から、日本に移し、キリスト教の愛の精神(超越即内在神・ケノ-シス神学)の実体となり、日本古来の和の精神をもって、神の国の理念の再構築することが今後の展望です。



李氏王朝時代に根付いた儒教の概念によって、変質してしまったUCが、本当の意味で愛の実体と呼べるような組織に変わってほしいなと思われた方はクリックお願いします。
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「イエスは妻や子女が絶対に必要であったか?」という命題





「イエスは妻や子女が絶対に必要であったか?」という命題を創造原理の観点から生物学的には人間として妻子、すなわち、家庭は絶対必要です。さもないと、人間と言う種は一代で消え去ります。

しかし、この命題は人類救済という宗教的な観点なのです。

比較宗教の観点から仏教を例に挙げると大変勉強になります。釈尊は家庭を持っていましたが出家して、独り身になり、悟りを開きました。

しかし、釈尊の後継者は弟子たちであって、彼の子供ではありませんでした。仏教を受け入れた国々では、立派な家庭を形成している在家信徒は沢山います。

ブ-タンの国王は立派な仏教徒の家庭を形成していますが、国民も後に続けと言わんばかりに立派な敬虔な家庭を形成しているようです。

これは、教祖である釈尊がたとえ出家して独身になっても、在家信仰の信徒たちは立派な敬虔な家庭を形成することにおいては支障が無い事を意味しています。

同じことは、キリスト教徒にも言えることです。イエスは家庭を持ちませんでしたが、信徒が立派な敬虔なクリスチャン家庭を形成することにおいては支障がありませんでした。

アメリカも1950年代までは、何処の祝福家庭より立派なと言っても良いような家庭を形成していました。

一例を挙げると、私に洗礼を授けてくれた神父の家庭がそうでした。敬虔なクリスチャン家庭であるが故に、生涯独身で暮らす神父を輩出することを誇りに思うのです。

しかし、60年代からはキリスト教の価値観が崩れだし、ヒッピ-が出現し、残念なことですがフリーセックスが横行するようになりました。

だからと言って、アメリカの全ての家庭がそのようになったのではなく、福音派などの敬虔なクリスチャン家庭はいたるところに、特に南部には今なお、健在です。

従って、このことはUC・家庭連合においても言えることでしょう。たとえ、TMが無原罪の独生女論を唱え、統一家の子女達が離婚、不倫、略奪婚や事実婚を展開したとしても、原理の価値観が崩れない限り、祝福家庭は同じ事をするわけではなく、大多数の信徒は敬虔とまでは行かなくても、そこそこ良い家庭を形成していることでしょう。

それでは、アボジが結婚(聖婚)せずにイエスや出家して独身になった釈尊のような生涯を送り、信徒に原罪が許されるという洗礼を授け、結婚という秘蹟(祝福)を授けたら、どうなるのでしょうか?

結果はあまり変わらないと思います。むしろ、その方が子女達が離婚、不倫、略奪婚や事実婚を展開しない分だけ躓きが無いでしょうから、精神衛生においてスッキリすることでしょう。

ここで、最も大事なことは仏教であれ、キリスト教であれ、イスラム教であれ、ヒンズ-教であれ、統一教であれ、どんな宗教であれ、

1.窮極実在(神)と人間との正しい関係、
2.人間と人間との正しい関係、
3.人間と宇宙自然界(万物)との正しい関係

に人間・人類を導けることなのです。それゆえ、TMのように、自分の子女達が離婚、不倫、略奪婚や事実婚を展開して、真の家庭として、人類の前に何の証しにもなっていないにもかかわらず、自分は、「唯一6000年ぶりに初めて1943年に誕生した独生女が私だ。否定できないだろう。」とか、「神の実体の妻だ」とか、豪語するのは勝手ですが、実態が伴わないと、世界の笑われ者になってしまうでしょう。


顕進氏は、「あなた方韓国人は日本に来て何を指導しょうとするのですか?韓国では全て失敗して来た人々ではないですか。それどころか、韓国そのものが失敗した国ではありませんか。その失敗したパラダイムを持って、韓国人と言うだけで、どうして世界を指導できるというのですか?もっと、謙虚にならなければなりません。あなた方の内容の無い権威主義がいけないのです。」と言ったという。

ところで、内容とは何でしょうか?

それは、原罪が在ろうと無かろうと、

1.窮極実在(神)と人間との正しい関係、
2.人間と人間との正しい関係、
3.人間と宇宙自然界(万物)との正しい関係

に人間・人類を導けることなのです。


パウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。」(ロマ:2/28-29)

と言いましたが、血統においても同じことが言えるでしょう。いくら無原罪で肉的には神の血統だ!と言っても内容、すなわ、”霊統”が伴わないとただの内容の無い権威主義に陥るのです。”霊統”とは神の思想を受け継ぎ、上述した1.2.3.の内容を顕現することです。


注:

・私がここで言う”霊統”とは「霊的救い」や「肉的救い」や「霊肉共の救い」の概念に全く関係がない意味で使っています。また、原罪が在ろうと無かろうと、いかなる宗教・思想であろうが、1.窮極実在(神)と人間との正しい関係、2.人間と人間との正しい関係、3.人間と宇宙自然界(万物)との正しい関係に人間・人類を導けることなのです。

分りやすい例をあげると:再臨主のお陰で、原罪がなくなり、「霊肉共の救い」に預かることが出来たので、UCは他のいかなる宗教よりも優れているのだ、と思い込んでいるUC信徒の実態です。

韓国至上主義の反日献金奴隷制度が制定され、借金献金を勧められ、払えなくなったら、自己破産手続きを進められ、挙句の果てに、生活保護者になることを組織的に推奨されるという。これは明らかに、人間と人間の正しい兄弟関係ではありません。まるで、主人と奴隷のような関係です。


・友人のT氏は「無原罪も同じように、血統転換とか血わけとか祈祷を沢山やって、頑張ったとしても、その結果不倫 麻薬、詐欺まがいの結果となったら何にもなりません。」という。これでは、UCの無原罪論は内容の無い妄信で終わってしまいます。

最後に、自叙伝の書写大会に出席したY氏は「・・愛天愛人愛国の愛国を説明される際、「日本」という言葉が出なかったことには一種の寂しさを覚えざるを得ませでした。

一番残念だったことは、国籍不明の大会だったということです。最初の子供たちのパフォーマンスは韓国の歌と踊り、最後の70人による合唱も韓国と英国の歌というように、日本というアイデンティティーが無いものになりました。

日本で行う行事なのですから、もっと祖国愛を出しても良かったのではないでしょうか。参加された来賓の方々もそう感じておられることでしょう。そういえば、受付の女性も皆チマチョゴリを着ておられましたが、和服の女性がいても良かったのではないかと思います。」というコメントに対して、

N氏は :

完全な狂った韓国至上主義でしょう。韓国は日本と一体化*日本の良き伝統、世界に貢献&世界から評価されてきた「美しき=アベル国家=神の定めた神が選んだ良き・善き「エバ国家」に一体化=「血統転換思想」によって「新生復活・韓国」という原理の教えが曲解され、反日思想で曲解し、原理的視点が全く狂ったUC運動に堕落、脱線したのでしょう。」という。

なにやら、慰安婦像を日本大使館や領事館の前に建てた反日市民団体が今度は同じ場所に、3メ-トルもある徴用像を建てるという。

これに対して、TMもH1もH2も、そして日本の家庭連合すらも反対するわけではないでしょう。黙認は勿論のこと、賛成すらしている信徒もいることでしょう。

だとしますと、この無原罪を主張する人々と団体は日本国民から見れば、危険団体になり、天から見れば、無価値に等しいものとなるでしょう。なぜなら、天は反日を願っているのではなく、日韓一体の親日を願い、創造本然の真の正しい平等な兄弟関係を願っているからです。




原罪が在ろうと無かろうと、

1.窮極実在(神)と人間との正しい関係、
2.人間と人間との正しい関係、
3.人間と宇宙自然界(万物)との正しい関係

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地震と審判について(自然災害を献金ノルマのための脅しに使っているUCの残念な姿)




神学を論じる者としてこの問題にそれなりの見解を述べておく必要があろうかと思います。神学も学問である限り、信仰の論理のみに留まることなく、客観論理も必要とする学問であります。

それゆえ、客観論理の観点から地震を論じるなら、有史以前から自然の仕組みとして、 起こる自然現象として理解すべきでしょう。すなわち、人間が堕落したから、天罰として神が与えたものではないということです。

したがって、これは創造原理に基づいて起こる地球の営みの一つであると見るべきでしょう。しかも、神は創造原理に絶対性を付与したというのですから神の都合によって勝手に止めたり、終末だからといって神がいちいち干渉して頻度を高めると言うものでもないでしょう。

なにやら、白亜紀(?)に、隕石が落ちてきて、恐竜が絶滅したといいますが、堕落した結果、審判を受けた訳ではないでしょう。

そこには肉食の獰猛な恐竜だけではなく、草食系の穏健な恐竜も、小型の動物もいたし、罪を犯さない草木も茂っていたでしょうが、一網打尽です。

それではどうして神の愛する人間が自然災害の犠牲になってしまうのでしょうか。

原理によれば、人間は堕落によって無知になってしまったというのですから、その無知を内的(霊的)にも外的(科学的)にも地震を察知できるほど未だ復帰されてされていないのでしょう。

それでは創造本然の人間なら如何でしょうか。内外の無知がない状態で、神と一体であり、霊界とも通じていることでしょうから、そのような危険を霊的に察知したり、科学的にも探知する技術を開発していることでしょう。

問題は元青葉台教会長のペイ氏のような韓国人リ-ダや一部、日本人リ-ダたちが、献金ノルマを達成する為に自然災害を信徒に対する脅しに使うことです。献金ノルマを達成できなかったから地震が起きたというのです。事実、それはある韓国の先生が神戸(関西)地震が起きた時に言いふらしていた言葉です。

地震やその他の自然災害は、日本が摂理国家に選ばれる以前から、起きている問題です。1830年の天保の飢饉は有名で、大塩平八郎が弱者を救済しようとして、乱を起こすほどでした。

地震や津波による災害は日本だけでなく、各国に起きています。私の記憶にあるだけでも、バングラ、ハイチ、トルコ、火山地帯のイタリア、中国、台湾、インドネシアの大津波など数え切れないほどです。

これらの災害の共通点は社会的弱者が多大な被害を受けることです。お金があって一等地の安全な場所にに強靭な家やビルを持っている人は被害が少なく、貧しい人たちが多大な被害を受けるのです。

従って、地震と審判の理論を持ち出すと、財閥や権力を持っている人たちが神の審判を逃れ、彼らに低賃金で雇われ、権力に支配され、劣悪な環境に住んでいる弱者が審判を受けるという弱い者虐めの論理になってしまうのです。

概して、UCはこのような論理を用いて信徒を支配しますから、脅し、弱いもの虐め、威張り、傲慢が支配する組織になってしまうのです。

これは旧約時代以下の信仰観です。即ち、愛とは関係のない神観が出来上がってしまうのです。

これに対して、マザ-テレサはハンセン病(?)で、道端で倒れ、異臭を放っている老人の下に掛けよったら、その老人の顔が
イエスの顔に変わったという。即ち、その老人の中にイエスの姿を見、神の姿を見るのです。これが新約の信仰観の極みなのです。

すなわち、地震や津波で犠牲になっている人たちの中に神の姿を見るのです。UCなら、献金したくてもできない人や家や土地を取られて、住む所が無い人、自己破産させられて、路頭に迷う人、更に自殺に追い込まれた人々の中に、神の姿を見ることです。

今のUC・家庭連合に欠けているのはこの観点と心情なのです。結果として、神から見放される教会になって行くでしょう。

以下はある人からの「地震と審判」に対するコメントです。参考になるでしょう。


これは素朴な因果応報論であり、小学生までならば脅すのに効果がありましょうが、長じて必ずしも当てはまらない現実を見て、人は悩むようになります。

漢の司馬遷は史記にその現実を綴り、仏教は輪廻転生で一生を超えた長い視野で受け入れることを説き、ユダヤ教ではヨブ記を通し、浅い人知で神慮を判断することを戒め、キリスト教では罪なき人が人類の罪を代わって負われた姿を見せ、原理ではカインの罪をアベルが蕩減すると言っています。


もし素朴な因果応報を主張するならば、高麗が元に蹂躙され、文禄・慶長の役で李朝が困窮に至り、大韓帝国が日本に併合され、光復も束の間、朝鮮戦争で国土が灰燼に帰し、38度線での分断が今に至っているこれらのすべてのことも、ひとえに朝鮮民族の民族的罪が来たらしめた神の審判であり、先祖の罪をいつまでも悔改め、せっせと献金しなければなりません。

それを日本人にだけ当てはめ、韓国人には当てはめない、というのであれば、民族差別感情に基づくヘイトスピーチです。神の真の愛を解くUCにおいては、存在すべき場所はありません。

ある人のコメント終わり



UCが、献金ノルマを達成する為に自然災害を信徒に対する脅しに使った結果、脅し、弱いもの虐め、威張り、傲慢が支配する組織になってしまったのではないかと思われた方はクリックお願いします。
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讒訴されない献金とは?(UCの献金の現状と金元弼先生の献金に関する証)




ある時、古参の1800双のシックが久しぶりに私を訪ねて来ました。私は家内の実家がある浦和に1995年に還故郷して、時々、浦和教会に通ったものでした。

その教会の一階には極真空手の道場があり、練習の様子を見学したものでした。当時の悲喜こもごもの思い出話をしているうちに、夫に内緒で多額の献金をして、それが発覚し、悩みぬいた末に首吊り自殺をしてしまった婦人の話が出て来ました。

この人は婦人部長をしていたくらいですから、その教会では良く知られた人でした。私が教会の献金のあり方を批判しましたら、食って掛かって来る程、一途な人でした。

非常に印象的だったので、品川さんはどうしましたか?と教会の婦人達に聞きましたら、急病で死んでしまいました、と口を濁していましたがそれ以上追求しませんでした。

ところが、今日、古参の1800双のシックから、真相を聞かされ、驚きました。自分が時々説教を頼まれて通っていた身近な教会で、献金の為に、自殺者が出るとなると、衝撃が走ります。教会は信徒達を説得して世間に知られないように、必死で隠して来たのです。

問題は自殺まで行かなくても夫にウソをついて献金することがあまりにも多いことです。これを教会が組織的に指導してやらせたとなると、もっと深刻な問題になります。

事実、サタンの讒訴条件がある献金で資産を獲得したり、事業を始めても、上手く行かないのです。時が来たら、サタンにみんな持っていかれてしまうのです。

メシアが過剰な献金ノルマを信徒に課して、そのせいで、家族を騙して献金したり、祝福家庭を破壊したり、自殺者まで出してしまうと、結局、サタンに讒訴されて、メシア家庭までも崩壊するのです。「無理が通れば道理がへこむ」ということわざがいろはカルタの中にありますが、その通りの現実が展開されているのです。

今、教会が三つ巴に分裂しているのは、神が本物の教会を造り直すために、そのように導いているようにも見えます。きっと、そうなのでしょう。讒訴されない献金については金元弼先生の証は参考になるでしょう。

 この証しは、2002年10月27日に新宿教会において、文鮮明師の第一弟子である金元弼(キム ウォンピル)先生が語られた内容を一部抜粋したものです。

◇   ◇   ◇

 「メシヤのためであるなら、あるいは大義があれば、何をやっても許される」という誤った考えを持っている食口(教会員)はいないでしょうか?

 「国のためであれば、個人を苦しめることもありうる」とか、あるいは、「み旨のためであれば、サタンの物は奪って来ても許される」と、考えている人はいないでしょうか?

 「3倍以上、返してあげなければいけない」という真のお父様(文鮮明師)のみ言を、よく考えてみてください。

 うそはうそであり、どろぼうはどろぼうです。ただそれが、戦争などの状況下にあっては、一時的に許される、同情されうる、ということは、ありうるかもしれません。でも、「間違ったことは間違ったことである」と、はっきり知らなければなりません。

 聖書の中にも、うそをついて奪って来た例があります。「サタンがうそをついて奪って行ったので、『蕩減復帰』の原則により、神側もうそをついて奪って来ても、罪にならない」と考えて、行動を正当化する人が、もし、いたとしましょう。

 しかし、それは、うそはうそなのです。ヤコブの時も、うそをつかなかったとするならば、21年の苦役路程はなかったかもしれないのです。

 戦時下で生命が懸かっている時に、人のいない家からお米を持って来ることは、状況的に考えて許されるとしても、それがそのまま善であるとは言えません。それ自体が善なる行為であると言うことはできないのです。それを私たちは、真のお父様のこのみ言と行動を通して、はっきりと理解しておく必要があります。

 「あなたがやったことは赦され、同情されるかもしれない。しかし、善ではない」ということです。ですから、後でこれを3倍以上、返すことによって償うこととなるのです。

 このような出来事を通して、私たちは本当に真のお父様の伝統を学んでいかなければならないということを感ずるのです。

金元弼(キム ウォンピル)先生の証終わり



UCは、たとえノルマがいくら大きくても、うそをついてまで献金をさせるべきではない、それをしたらサタンからの讒訴をうけ最終的に悪の結果をもたらすのではないかと思われた方はクリックお願いします。
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