人間の偶像化(人間を敬拝しているのか、それとも神様を敬拝しているのか)




先日、文教主が神に祈っている写真のような絵を見つけました。これこそ、メシアの真の姿に思えましたので、祭壇に父母様の写真の代わりに置きましたら、とてもよい感じになりました。

何人であれ、人間が神に祈る姿は謙虚で、美しくさえ見えます。そして、それが自然に見えます。ところが、いつの間にか文夫妻の写真が一人歩きを始め、その写真の前で敬礼するようになってしまいました。

いかに教条的な食口といえども、写真そのものに敬礼をしている意識はないでしょうが、写真に写っている人物を神の代身と見なし、神に敬礼するよりも教主自身に敬礼するようになり、神と教主の区別がつかなくなって行くのです。十戒の第一条は神以外のものを崇めてはならないというのです。

したがって、信徒といえでも、教主が崇めている神を崇め、教主が敬礼する神に敬礼するのが道理なのです。

しかしながら、次第に文夫妻を崇めるようになり、特に、メシアである文教主を崇めるような伝統が出来てしまうと、文教主の逝去後は、妻である韓鶴子女史が教主にとって替わり、自分自身を文教主以上に崇めることを要求しだしたのです。

すなわち、被造物である人間を崇めさせるというボタンの掛け違いの代価を払う結果が韓鶴子分派を生み出してしまったのです。このように偶像化された教会は分裂して行くのは当然の結果なのです。

ところで、文教主のいわゆるみ言葉は曲者です。教会の長のつく者が説教をし、すばらしい感動的なみ言葉を語った時には注意をしなければならないというのです。

その人が語った後に、その人の印象が残ったら、どんなすばらしい説教でも、それは失敗だというのです。その人の印象が消えて神の印象が残らなければならないというのです。

メシアたる者はあくまでも人々を神につなげる仲保者であって、自分が神にとって替わってしまってはいけないというのです。

それゆえ、八大教本もよいけれども、それは文教主のみ言葉集なのか、全く人間臭さを感じさせない神の言葉なのかが重要な問題になってきます。

そこで、皆さんの感想を聞かせていただきたいものです。この問題はTFだけではなく、TMやH1もH2にも同じことが言えるのです。



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