羊泥棒とは(外部伝道により、どちらが先に天一国を築くのかの競争をする)




統一教会が日本に入って来た時に、クリスチャン伝道に焦点が当てられました。

シックは各教会に行って、こっそり伝道するのです。教会側から見るとせっかく苦労して伝道した信徒が奪われるのですから、これを羊泥坊と見なすのです。キリスト教会側からすると当然のことでしょう。

これが各教会に知れ渡ると、どこの教会も警戒するようになり、UCも方向転換し、一般人を伝道するようになって来ました。

UCの教勢が拡大してきますと、マスコミから「親泣かせ原理運動」と呼ばれるようになり、親たちは何とか自分の子供たちを取り返そうとして、教会の牧師に相談に行くようになりました。

その内に偽カンパや霊感商法などが社会問題になると親と牧師が協力し合って、シックを拉致監禁するようになって来ました。監禁されたシックは協力した牧師のところに行くようになり、結果的には逆羊泥坊になっていったのです。

そこで、この羊泥坊という観点からUCをみて見ると、H1は自分に従うものを引き連れてUCIを持っていったのですから、UCから見ると羊泥坊に見えるでしょう。今でも、UC側の信徒がH1の所に行ってしまうと益々そのように見えるのです。

防衛策として信徒達にいちいちお触書を出す始末です。しかし、H1派がUC・FFの信徒などを相手にせず、一般の人々に影響を与え、伝道したらどうでしょうか。これは羊泥坊に当たらないでしょう。

すると、李ヨハネ先生のように、「お母様も顕進様もどちらが先に天一国を築くか、競争したら良いのです」と言うことになって来るのです。

・次に、H2とサンクチュアリはどうでしょう。H2こそがUC・FFの正当な後継者であるという立場を内部に認めさせなければなりませんので、これは内部伝道にならざるを得ないでしょう。こうなると信徒の奪い合いになりますから一種の羊泥坊です。

同じようなことがカトリックとプロテスタントの間で起こりました。宗教戦争まで起こし、ヨ-ロッパの3分の1の人口も失ったという。

しかし、今ではお互いの存在を認め合い、それぞれ一般人を伝道しています。サンクチュアリも時間の問題で一般人の伝道に向かうようになるでしょう。

ここまで来ると、「どちらが先に天一国を築くか、競争したら良いのです」と言うことになって来るでしょう。

このようにベクトルが内部伝道から外部伝道に向かうことによって平和的な関係が築くことが可能なのです。

・ただし、TMの逝去以後は、後継者の問題が再浮上してきますので、民進党が事実上解党し、希望の党へ移行して行くような現象が起きる可能性は否定できないでしょう。

私の個人的な見解では、韓国人の気質から鑑みて、教権側が一旦獲得した既得権をそう簡単に手放すでしょうか?天一国憲法を盾にとって法統を主張することになるでしょうから、三つ巴の状態は続いて行くでしょう。 




キリスト教の各教派のように、H1派、H2派、家庭連合がそれぞれ外部伝道に方向を変えて、お互いに平和の関係を築いていくべきではないかと思われた方はクリックお願いします。
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善なる競争をしよう(どちらが先に天一国を築くのか)




先日、久しぶりで遠方より来てくれたUCの卒業生に会い、積もる様々な出来事、思いを語り合いました。

この人は歌声運動に従事し、地域に根付き、多くの自治体の人々が参加するほど成功裏に音楽活動を展開している音大卒の本格的な音楽家です。しかし、最近自分のやっていることに限界を感じて空しくなるという。

UCを卒業したのは良いのですが、神までも卒業してしまったのでしょう。普通、UCを卒業すると言う意味は神を愛するが故に、UCを卒業するのです。

桜井夫人や江利川さん、カン・ヒョンヒル長老がUCを卒業して
それぞれH1やH2と共に歩むようになったのは組織より神を愛したからからでしょう。混同してはいけないのです。

ちなみに、ルタ-は神を愛するが故にカトリックの組織を捨てて、プロテスタントを産み出したのです。

・それでは、アボジが言うUC卒業生とはどんなことを言っているのでしょうか?

以下はみことば選集からの抜粋です:


「神様と人間が真の愛で一つになり、人間が真の愛で為に生きれば、宗教も祈祷も必要ない。・・・

こうした状態は堕落前の状態と同じで、宗教も宗主も救世主も要らない。・・・

良心を絶対視して生きれば天国へ行く。宗教も祈祷も必要なく、完全解放である。蕩減は良心の全てを共有して解放する為である。・・・

家庭理想生活を送れば、堕落前のエデンの園の創造理想が実現することによって宗教はなくなる、宗教撤廃である。」
(み言葉選集265巻P117より)

「祈祷よりも奉仕することを神様は願われる。・・・良心と私に命令しなければならないので、祈祷が必要ない」
(み言葉選集474巻P180-1)

「神の家庭になれば教会が必要ない。これからは皆さんに会わなくてもよい。卒業証書も与えたし、伝統が分かる訓読会もしたし、み言葉集もある。祝福中心家庭は祝福に対する責任を自ら負わなければならない。だから神様も先生も必要ない。全て教えてやった。」
(み言葉選集370巻P305)

注1:「神様も先生も必要ない」という意味は訓読会もみ言葉集もあり、卒業証書までもらったのだから、これ以上先生や神様から教えてもらう必要はないと言う意味でしょう。

注2:み言葉集はTMによって改竄されてしまった部分もあるので、アボジの原本が必要でしょう。



これに対する師観のコメント:

以上のみ言葉から家庭連合と言うのは、UCとは違って、総会長、会長、教区長、教会長とうトップダウンの縦組織とは違って、各祝福家庭が主体であり、長の中心であって、その連合体で事務を司る機関かと思っていましたら、実態はUCと全く同じで、長の付くものたちが信徒を主管する組織のようです。

・問題は長の付く者達の大半が韓国人なので、元青葉台教会長のペ-氏のように朝日新聞や民進党寄りで、反日、反安倍、反自民党となると、北朝鮮寄りの文大統領を支持し、日本の信徒達をその方向へ誘導するようであれば、問題でしょう。

H2のスタンスは文大統領をサタン呼ばわりしていますが、H1やTMのスタンスが分かりません。分かっている人がいれば教えて下さい。誰かが言っていたように、韓国人リ-ダは韓国さえよければ日本はどうでもよいと考えている人が多いでしょう。

・今は10月の選挙に向けて各政党や創価学会、幸福の科学のような宗教団体までも自分達の政党を持って、選挙活動に邁進しています。

かつてのUC/勝共連合もアボジの指示で自民党を応援し、岸、佐藤、安倍のラインを支持し、国家復帰を目指して選挙運動をしたものですが、今のFFはどうでしょう。国家復帰の意識は全く無いように見えます。事実、そうなのでしょう。

しかし、私は国家復帰の意識は失ってはいませんので、自分の任地国家を復帰しようと今なお戦っています。そして、ついにセントビンセントという任地国家において今年行われる首相選挙に向けてシックの立候補者を立てるところまで漕ぎ着けました。

以下は任地国からのメ-ルです。


Prof watanabe

Please pray for our success, especially as Kay is now a candidate in next election. Hopefully Prime Minister of St Vincent. Pray for victory, Aju

Dawn

和訳すると、Kay(弁護士)が首相選挙に向けて立候補者をするので、祈ってくれというのです。


このような小国は十分な選挙資金があれば、勝てるのです。残念ながら、私の最大の欠点は金欠です。自分が生活するだけで精一杯なので、現地のシックが自力でやる以外に道は無いでしょう。


しかし、TMが国家復帰の意識を持って、財務担当に一声掛けたら当選するよ、と言ってのける人達もいます。

・余談になりますが、国家メシアは日本や韓国やその他のFFの主管下には存在していません。

国家メシアの摂理に任命された人達は基本的には36家庭から777双の家庭なのです。これはアボジ直轄の主管下にありました。

その内に各大陸会長の主管になったようですが、具体的に主管する訳ではありません。相談役のような立場です。

日本に帰ってから、自分が住んでいる市の教会の礼拝に行ったら、一番前にぞうぞ、ぞうぞと座らされたのは良いが、説教者が緊張して言いたいことが言えなくなったと言う。

どうも歓迎されている存在ではないようです。それ以来、お呼び出しが無い限り教会には行かなくなりました。

そんな訳で、教会の主管下には無いのですが、名簿には事務的手続き上、外的には私の名前は存在しているようです。

これを学校にたとえたら、学校の主管にない卒業したOBにようなものです。これも一種の組織上のUC卒業生なのでしょう。彼らに言わせれば、国家メシアは小国でも一国の大統領の立場で、教区長、教会長は知事や市長の立場なので、扱いにくいそうです。

・イエスは「私を見た者は神を見た者なり」と言いましたが、イエスの生き方、人生そのものが神を表して来たので、当然の表現でしょう。

人は”神の宮”だというのですから、我々食口も程度の差こそあれ、神の宮であり、イエスと同じことを言えることでしょう。
特別な人だけが「神の宮」ではなく、シックは祝福家庭であろうが、未祝福者であろうが、神が人の心に住んでくれる限り神の宮でしょう。

原理によれば、人には誰にも良心があるという。そして、対象である良心に授受作用してくる主体が神だという。ここまで来ると良心的な人の心の中に宗教の違いを超えて神が住んでいるといっても過言ではないでしょう。

したがって、このような良心はTMの中にも、H1,H2の中にもあり、さらにはFF派の人にも、H1,2派の人にも存在するのですから、対話は可能なのです。対立して喧嘩する必要はないのです。

李ヨハネ先生が言うように、どちらが先に天一国を築くか、競争したら良いのです。まして、どこどの講演会にいちいち行くな!という必要は無いのです。

私はホームチャ-チのメンバ-を連れて、創価学会や幸福の科学の集会にも行くし、コンサ-トも開き、大変歓迎されています。
そこは天国です。いずくんぞ、シック同士の近親憎悪を乗り越えないと神の国は遠いのです。




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若い二世たちへの今の混沌状態の説明について(いつも神と共に歩む)




あるMLに次のような質問がありました:


皆様は、若い二世に対して、今の教会内の混沌状況をどのように説明していますか?または、説明すれば良いと思いますか?様々な立場(や分派)からの説明があるがあると思いますが、個人的な見解で構わないのでご教示下さい。対象者は、二世の中高大学生(ティーンエイジャー)です。



これに対する師観のコメント:

・これは参考になるかどうかは知りませんが、私の家庭では3人の子女がいて、それぞれ国際祝福を受け家庭を持っていますが、誰も教会には行っていません。教会に行っても献金の話ばかりで、魂が復興しないのです。

なので、全く行かなくなりました。それどころかUCには全く関心がないのです。したがって、何の影響も受けないのです。3人とも生活するのに精一杯のようです。

それで、信仰を失ってしまったかと思っていましたら、神様を大変愛していました。いつも神と共に歩んでいるという。

そういえば、「み旨の道」に信仰とは神と一体化するまでは必要ですが、一体化したら必要では無くなるというみ言葉があったのを思い出しました。

彼らが言うには仕事そのものが、修行であり、神と共に歩む業だという。この言葉はどこかで聞いたことがあります。

私が座禅の修行をしていた時に、自分自身が大宇宙の生命そのものであるという宗教体験をしたことがあります。その境地で立ち上がると立禅になり、歩くと歩禅になり、仕事すると仕事禅になり、勉強をすると勉強禅になり、食べると食禅、寝ると寝禅になります。

生活の一挙手一投足が禅であり、祈りであり、信仰生活なのです。そこで、彼らは私が数年かけてやっとたどり着いた境地をもう体得しているのだろうか?と不思議に思っているのです。

アボジはよくUCの目的は宗教を必要としないところまで復帰することだと言っていましたが、それは本当です。彼らは教会が要らないのです。

したがって、UCの卒業生です。しかし、それが祝福の子女だからそのようになったのかは定かではありません。

・多分、一世がみ旨の為に生きてきた、「為に生きる生活」を見ているので、神と共に生きることが自然なのでしょう。

彼らが「光の子幼稚園」から小学校に行った時に、カルチャショックを受けて帰って来ました。神も真の父母も、祈りもないというのです。

幸いに、帰ってきたら同じアパ-トに祝福家庭が9家庭、教育部の寮として住んでいましたので、小学校から高校までに信仰生活の基本が身についたようです。

したがって、彼らには祝福の子女以外の人々と結婚すると言う考えは無いのです。

全員祝福を受けてから、かって富士山に彼らと一緒に登りましたが、同じバスに乗っていた人々が、我々を不思議そうに見ていました。

彼らは争って私のリックやその他の手荷物を持って歩くものですから、一体あなた方は何者ですか?というのです。うちの子供は私に向かってババ、死ね!と罵倒を浴びせるのに、あなた方は全然違うと言うのです。

私の長男の嫁は韓国人、長女の婿はアメリカ人、次女の婿はアフリカ人です。見かけは皆他人の顔をしているのに、実際の家族より家族的で仲がよいのはどうしてですかというのです。

・どんな共同体でもその集団が持っているエ-トスを感じさます。エ-トスとは社会集団・民族などを特徴づける気風・習慣・習俗などを意味しますが、この場合、祝福の家族とそのオーラに含まれる道徳的・倫理的・理性的・情操的な気品を意味します。

そして、この気品というのは、人間と人間の生きた係り方、触れ合いにおいて展開される他者の為に生きると言う「我」と「汝」の出会いを言うのです。

それは祝福家庭同士の「我」と「汝」の出会いであり、係りです。さらには、彼らの係り、すなわち、美しい人間関係という作品を通しての他の乗客との「我」と「汝」の出会いでもあるのです。

このバスは貸し切りバスで我々も含めた乗客全員がパッケ-ジで行きも帰りも同じバス、登山も、宿も同じなのです。

イエスは私を見た者は神を見た者なり、と言いましたが、祝福家庭の交わり、人間関係を見た者は神を見た者と言いたいところです。

このよう家庭は私共の家庭だけではなく、他にも沢山あることと思います。

しかし、そのような家庭はUCの祝福家庭に限らず、他の宗教団体やキブツやそれに類する共同体の中にも沢山ありますので、我々はもっともっと謙虚にならなければなりません。

バスの乗客の数人はその後、原理を聞いて、私のホームチャーチの基台になっています。

私共の神氏族メシア共同体はエクレシアではありません。コイノニアなのです。

エクレシアは教会という意味に訳されていますが、縦組織なのです。UC・FFでは総会長、会長、教区長、教会長などというようなトップダウンの命令組織です。

コイノニアは信徒の交わりという意味で、2人又は3人の信徒が心を合わせて祈ると神が働くという聖句が根拠になっています。ここには言論の自由が満ちあるれています。何でも仲良く話し合いで決めるのです。

私は会長ではなくただの世話役です。僕の僕です。私共が立ち上げたハレルヤコ-ラス合唱団も、とてもat homeです。

みんな家族みたいだと言ってくれます。ハレルヤファミリ-なのです。昨年の演奏会には500名の会場に満席に近い観客が来て下さいましたが、そこには数人のシックも来てくれました。絶賛しくれましたので、そこそこ感動するものがあったのでしょう。参考になれば幸いです。



UCが韓国至上主義の階級社会を作のではなく、本当の意味での神を中心とした信徒の交わり(コイノニア)のような団体になってほしいなと思われた方はクリックお願いします。
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人間が個性を完成し、三大祝福を全うして理想世界を築いてこそ、初めて神の理想が実現される




あるMLで次のような質問がありました:


総序が言う「幸福」とは「絶対的幸福」ということでしょう。仏教関連の入門書を読むと、「相対的幸福」「絶対的幸福」という概念が出てきます。

極論すれば、「絶対的幸福」に対する無知ゆえに、「幸福=相対的幸福」に執着するあまり、個人も幸福になれないし、全体も理想世界になれないということでしょう。

神の心情、実相、真の愛、を正しく知ることは、「絶対的幸福」の真価を知覚することになるでしょう。

統一運動とは、覚醒運動であり、人々の人生観、価値観を絶対基準へと変革しうるものでなければなりません。

統一運動=伝道 とも言えますが、「真の伝道」の背後に「偽の伝道」が見え隠れしているようでは、要諦を失することになってしまいます。

世に対して「平準化」「平和」を説く前に、内部において範をなすべきでしょう。



これに対する師観のコメント:

・本質的なテ-マを投稿してくれて有難う。

以前にも投稿しましたが、モ-セが神に、あなたは誰ですか?と問うたら、神は「私は在りて在る者」と答えました。

しかし、この聖句を研究してきたヘブライ大学の聖書学者は、ヘブライ語の原語から「私は在りて在ろうとする者」と言う意味だと言う。あろうとする者とはbecoming Godということです。これは神は未だ神になっていないと言うことです。

すなわち、進行形なのです。神学的進化論はここから出て来ます。双曲線のように無限にゼロに近づきますが、ゼロには成らないのです。

だから、永遠の進化なのです。しかし、ここから、瞬間の中に永遠の価値を自覚するという認識が生まれてくるのです。

・原理の観点では、親なる神は子なる人間が完成して初めて完成するというこになるのでしょう。

人間が個性を完成し、三大祝福を全うして理想世界を築いてこそ、初めて神の理想が実現され、同時に人間の理想世界も実現することになるのでしょう。

ところで、個性完成とはどのような状態なのでしょうか?私は自分が完成したと思った瞬間に完成で無くなると思います。なぜなら、そこで進歩が止まってしまうからです。神が永遠に進歩する存在なら、人間も同じなのでしょう。

あらゆるスポ-ツでも技能でも頂点を極めたと思ったら、進歩は止まってしまうのです。したがって、個性完成とは今だ完成には至っていないと思い、謙虚になって前進することだと思います。なぜなら、神様自身がそうような謙虚なお方だからです。

・誰々は神の化身だとか、実体だ!と、どこの教祖も主張し、信徒から絶対視されますが、聖書は神以外のものを崇めてはならないという。

これはUC・FFも例外ではないでしょう。「真の家庭」とは目指すべき人類の理想であって、文家が「真の家庭」になった訳では無かったのです。

実態は陰謀という偽りで、草束事件を引き起こし、金孝南が受けてもいないものを彼女が受けた啓示だとして、自分たちが捏造した人事発令書を読み上げる。これでは真の家庭ではなく偽りの家庭になってしまうでしょう。

このような事件は韓ドラで見られるような韓国社会の文化と歴史に過ぎません。これは、韓国では「理想世界を語るのは易しいが実現するのは至難の業である」ことを物語っています。

しかし、日本ではどうでしょうか?私は日本では「理想世界」を完全ではないにしてもかなり近い所まで実現できると思います。

万民一家族の形態が理想世界と言うのなら、イスラエルのキブツを初め、日本のいたるところにcommunityの次元でなら存在しています。私が献身した頃はUCもそのような形態をとっていたのです。

・国家的次元なら、揺り篭から墓場までと言われたイギリスやヨ-ロッパの社会福祉国家には万民一家族の形態は存在していると
思います。

日本もそれに近いでしょう。与党も野党も国民に奉仕するため必死です。おかげで国債を発行しすぎて沈みかけている程です。外的には天国です。内的には神を知った喜びを伝え、その喜びを分かち合うことです。それが真の伝道でしょう。

偽りの伝道とは献金ノルマの為に人を伝道することです。ここでは人間自身が目的ではなく、手段になっているのです。

クワバラ、クワバラ・




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アボジは人類全体のメシヤ(UCが人類に受け入れられる為には)




メシヤとは誰のメシヤでしょうか。食口だけのメシヤですか、それとも全人類のメシヤでしょうか。

講論の総序には「知ると言うことは、即ち、認識すると言うことを意味するのであるが、人間は、あくまでも論理的であると同時に、実証的なもの、即ち科学的なものでなければ、真に認識すると言うことはできないから、結局、宗教も科学的なものでない限り、よく知ってそれから信じると言うことが不可能になり、宗教の目的を達成することはできないという結論に到達する」と書いてあります。

本当に原理がこのような真理であれば全人類は納得するでしょう。そして、それを解き明かしたメシヤは人類のメシヤとして受け入れられるでしょう。

然るに、もしアボジの語るみ言が史実に反したとなると、人類から批判を受けることになるでしょう。要するに、神であろうと、サタンであろうと、あるいはメシヤであろうと、その語る言葉が論理的であると同時に、実証的なもの、即ち科学的なものでなければ人類は受け入れないことになります。

これはアボジであろうとも例外ではないのです。ところが、食口はアボジが語る言葉は何もかも真理だと信じ込んでいます。すると、人類から見るとマインドコントロ-ルされた狂信的な団体に見えるのです。

いったん、信じ込んだら最後、どこかで、論理的であると同時に、実証的なもの、即ち科学的な認識作業が止まってしまうのです。

そして、後はただ「イエス、イエス、イエス」のイエスマンになり、絶対服従人間にんなってしまうのです。そして、そのような人間がゆわいる信仰的な人間と思われてしまうのです。

メシヤが食口だけのメシヤならそれどもいいかもしれませんが、人類のメシヤともなるとそうもいきません。人類というからには他宗教の人もいれば、被害者弁連もいれば、反対牧師も入ります。彼らは目を光らせて、少しでもアボジの言葉に矛盾があれば批判して来ます。

だから、対策を担当するものはアボジの言葉に敏感になります。全人類に当てはまる普遍的な言葉を選ぶようになるのです。

恐ろしいのは言葉と実態が伴わない時です。これは人類の批判の対象に曝されます。しかるに、食口は人類が実態を求めているのにまるで闘牛士のようにヒラリと体をかわしてみ言を聞いてちょうだい、と言って修練会に誘います。

しかし、人類はそれにそう易々と引っかからないのです。逆に、実態の伴わないみ言はまるでアヘンではないかといってすごんできます。

だから、マルクスに宗教はアヘンだと言われてしまうのです。それゆえ、我々は実態から目をそらしてみ言の世界に陶酔しているわけにはいかないのです。

実態には一切言及せず、み言にはこのように書いてあるだけを唱えているとUCはアヘンであるといわれてしまうかもしれません。




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中世暗黒時代とアベルの絶対化(本当の意味でアベルがカインを愛し、真の愛に満ちた組織になってほしい)



ヨーロッパの中世時代はキリスト教王国時代の全盛期であった。したがって、これを英語ではChristendomという。

しかし、残念ながら、これは神の国ではなかった。人々はこの時代を中世暗黒時代と呼んでいる。

それでは、何故、キリスト教が支配したにもかかわらず、人間の内的、外的本性を抑圧する暗黒時代になってしまったのであろうか。

答えは簡単である。相対的な被造物である不完全な人間を絶対化してしまったからである。そのやり方は、イエスは人間の体を
まとった神であり、法王はその代身なので、無謬であり、絶対である。

したがって、その下にある司教は法王の代身であり、絶対である。そして、その代身である司祭(神父)も同様に絶対であると言うのである。このようにして、カトリックという組織と制度を絶対化して行くのである。

残念ながら、そのような組織も制度も人間が作ったものである。しかし、神の名によってそれを作ると、それ自体が絶対化されていくのである。

幸いに、モーセの十戒は神以外のいかなるものも絶対化することを偶像礼拝として固く禁じている。

原理講論も「神は絶対者でありながら、相対的な二性性相の中和的存在であられるので、・・・」(P77)と、記述している。
これは神の中にも絶対性と相対性を内包していることを示唆している。したがって、神の被造物は相対性の世界として展開されたことになる。

そして、神の相対性までも絶対化すると偶像礼拝となる。それゆえ、UCに於いても中心者の数だけ、神の相対性は展開されることになる。

問題は、各々の中心者が自分がメシヤの代身であり、メシヤは神の代身であるので、自分は神の代身であると宣言し、信徒に命令をするようになってしまうと、日本の軍国主義と似たものになって来る。

すなわち、「上官の命令は天皇の命令なり」というのと酷似したものになる。その結果、中世暗黒時代と同じような世界になって来る。それゆえ、心しなければならない問題である。

今や、子女様たちが様々な問題を引き起こし、一見、希望を失わせるような状況には見えるが、見方によっては神が敢えて相対的存在である人間を誰であろうとも絶対化してはいけないことを啓示しているのかも知れない。そうすると、それはそれで意義深いことになる。



UC、特に日本UCにおけるアベル絶対化の中世暗黒時代のような組織が、本当の意味でアベルがカインを愛し、真の愛に満ちた組織に変わってほしいなと思われた方は、クリックお願いします。
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信仰深い人の落とし穴(アボジの偉大な不信仰さ)




あるMLで以下のようなやり取りがありましたので、それを紹介しながら本論に入りたいと思います。

私のコメント:

・妻がもの凄いバリ教で、夫は現実的で、 借金生活にはうんざりしている信徒が沢山います。ここに不和が生じます。

それに対するある人のコメント:

上記は我が家庭に当てはまります。現実的な夫は、この事態に、どのように対応しているのでしょうか?

私が何を言っても絶対信仰のある妻には通じません。妻は現状を見ながらも「何か深い理由があるに違いない」と盲目的信仰を継続しています。どうすれば良いのか途方に暮れている状態です。


それに対する私のコメント:

一般に信仰の深い人のことを敬虔な信仰者と言うことになり、これは美徳です。

しかし、ここに落とし穴があります。仮に、アボジが今の韓国が神の国だ!といったら、信仰深い人はアボジを絶対化していますから、その通り信じるでしょう。

その人は韓国がアボジをメシアとして受け入れず、投獄した失敗した国であっても、理性的にそのことを考えられないのです。

今度は私は韓国人リ-ダだ、だから、アボジの代身だ、といえばその人が元青葉台の教会長のペ-氏であっても、本当にその人を崇めるのです。

次に、試しに、アボジが北朝鮮が神の国だといえば、アボジが言ったのだから、そうに違いないと信じるのです。

更に、アボジは竹島も、対馬も、九州もいや、日本そのものが韓国のものだ、と言ったら、どうでしょうか。やはり、信じるでしょう。

信仰とは恐ろしいものです。理性を超えてしまうので、盲目的になるのです。

家庭連合はTMはアボジと霊的に一体だから、TMの言われることはアボジの言われたことだ、と言うことで、独生女であろうが、国歌を変えようが、自分に都合の悪いみ言葉を改竄しょうが、家庭盟誓を変えようが、それに従うのが信仰だと思い込むのです。

ちなみに、妄信的でアベルに忠実な人と言えば、ヒットラ-に忠誠を尽くしたアイヒマンを挙げることが出来るでしょう。

彼は極めて残虐な方法で、600万人のユダヤ人を虐殺しましたが、国際法廷では、自分はヒットラ-の命令に従っただけで、終始、無罪であることを主張したのです。

そんな訳で、彼はアベルに対して真に信仰深い人でした。

ところで、アボジの偉大さは何でしょうか?私は”偉大な不信仰さ”にあると思います。

なぜなら、信仰深い敬虔なクリスチャンは「イエスの十字架は失敗だった」とは決して言わないからです。さらに、自分が解いた原理がイエスを中心に全霊界が否定しようがしまいには神までが否定しようが決してyesと言わず、神に逆らってまで、自説を曲げなかったというのです。これは”偉大な不信仰”です。

God Conferenceでは、宗教学者はこのアボジの”偉大な不信仰さ”を絶賛しました。

それは彼が敬虔なクリスチャンでありながら、キリスト教のタブ-を破って、”イエスは失敗した”と言ってのけたからです。

しかし、ここで有頂天になっている訳には行きません。なぜなら、今度は敬虔なUC信徒から、原理に対して疑問を持たれ、アボジと同じようにタブ-を破って、原理の問題点を指摘したら、アボジはその人を祝福できるであろうか、と言うのです。

アボジは自分ではアボジのようになれ!とは言いますが、本当にそのような逆説を唱える人物が現れたらどのように扱うのでしょうか。

残念ながら、西川先生は逆説までは行きませんでしたが原理の修正すべき点を提示しましたが、受け入れられなかったようです。

しかしながら、良心は神よりも、先生(アボジ)よりも、親よりも偉大であると言ってのけたことは暗に自分を超えて行けということではないでしょうか。



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天国に行ける人とは(献金額によるのではなく、個性完成、人格完成した人が行く)




昔、友人が遠方からやって来て、私の知らない話をしてくれた。

その内容は以前の総会長の話であった。なにやら、各教会をくまなく巡回して小さい教会からは最低20万、少し大きい教会なら30万、教区レベルでは200万を講演料として、要求していた。

謝礼の少ない教会長は首が挿げ替えられた。そして、自分が訪問した教会員達と記念写真と称して一緒に写真を撮り、この写真があれば天国に行けるとまで言ってのけたといたという。

これを聞いて、私はアボジのジャルジン時代の集金方法を思い出した。1億円献金したら、アボジと一緒に写真を撮ることが出来、その人は天国に行けるという。

私が所属している教会の礼拝後、ある壮年が一億円献金して、アボジとの写真を見せていた。教会員の中には羨ましそうな顔の人も沢山いましたが、クリスチャンで修道士を目指していた私には相対できない不思議な世界でした。

金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るよりも難しいというイエスの言葉が焼きついていますので、一億円で天国に行けるという言動には相対しないのです。

また、天国に行きたいから献身した覚えはなく、神が真に済まないと言う神の熱い心情を受けて、お願いされて献身しましたので、天国から地獄に飛び降りるような覚悟で献身したのです。従って、ご利益信仰には違和感を覚えるのです。

違和感を覚えるのはそれだけではありません。創造原理によれば、成長期間である蘇生期の霊形体、長成期の生命体、完成期の生霊体を完成し、即ち個性完成して神の直接主管圏に入れてこそ、天国に行けると説いているので、個性完成・人格完成していない人が一億円献金したら行けるはずはない、と思うからです。

それゆえ、アボジの集金方法には相対しませんでしたが、アボジに痛く同情をしました。そんな不思議な方便を使ってまでもお金が必要な摂理的な事情があるのだろうと思ったからです。

だが、同時に心配もしました。真似する者も出てくるであろうという悪い予感がしたからです。すると、案の定、真似する者が出て来ました。

アボジの場合は自分の為ではなく、摂理のためという大義名分がありますが、この総会長は自分の為にお金を集めているのです。聞くところによると、韓国に帰ってから30億のビルを建てたという。

TMはこの総会長のことを決してよくは思っていなかったようです。それは余りにも評判が悪く、日本人だけでなく、韓国人からも嫌われていた人物でした。

それゆえ、このようなことが二度と起こらないような人物をワザワザ探し当てて、日本の総会長に任命したという。それが現総会長であるという。

彼はヨ-ロッパの文化の中で培われた比較的洗練された人物のようです。両班メンタリティーから、抜け出た人なのでしょう。すでに、述べましたが、両班文化とは役人が自分が主管する民を巧みに操作して搾取する文化です。

ところで、多くの信徒達はアボジはどうしてこのような人物を総会長にしたのだろうと疑問に思っているという。

私が思うには、この嫌われ者の中に、何か一点、使えるものがあったのでしょう。それは、集金能力だと思います。それは日本の信徒がどんな状況におかれていようが、無慈悲に集金する能力です。

アボジは自分のことを、「先生は戦国時代のメシアなんだね、平和な時代にはイエス様のような優しいメシアが良いんだね」と言ったのを聞いたことがあります。

問題は、UCの独裁組織の中ではこんな不条理に見えることががまかり通りますが、人類のメシアとなるとどうでしょうか。

特に、民主主義社会では野党やマスコミからどうしてこんな人を総会長にしたのか、と言われて文総裁の任命責任が問われることになるでしょう。

私は戦国時代のメシアを蘇生期のメシアと考えてみました。開拓時代はブルトザ-で良い木も悪い木もなぎ倒して行くのです。長成期のメシアはブルトザ-で犠牲になった人々を介護し、世間から見ても受け入れられるやり方で摂理を展開できるメシアです。

その方向に一応、当てはまるメシアたちはTMであり、H1であり、H2です。勿論、祝福家庭から出て来てもかまわないでしょう。

そして、現総会長が日本の家庭連合の民主化と浄化に成功できたなら、彼を人事したTMの評価も高まることでしょう。

完成期のメシアはTFやTMの直系とは限りません。創造本然に近い状態に復帰された者達の中から、誰であろうと出て来てかまいません。

みんな平等に、神の子達なのです。従って、彼らの使命は有原罪から無原罪にするメシアではありません。




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UCに自己反省はあるのだろうか?(神様から遠く離れてしまったUCの姿)




何処の健全な組織でも、組織的総括・自己反省はあります。共産党ですら、自己批判があるのです。お陰で、共産党は大きく方向転換して、野党全体を取り込むまでに至っているのです。

しかし、我々の組織には、半世紀以上前に、私は献身しましたが、自己反省を一度も経験した記憶がないのです。

その根本的理由は教義とそれに対する独善的な信仰にあります。UCだけが無原罪かそれになれる団体であり、その他は、みんな非原理世界であり、堕落人間であり、程度の差こそあれ、サタンの主管圏なのです。

だから、み旨のためだったら、ヤコブの知恵を使って、世の人々を騙しても善だというのです。

アフリカの貧困者を救済するためにとか、ある国の自然災害の救済の為にとか、身障者援助の為にとか。とにかく、人々の不幸にかこつけて、資金集めと称して、花売り、ハンカチ売り、偽カンパ、しまいにはそんな小物じゃ、お金が集まらないという理由で、霊感商法へと発展して行くのです。

世間、特にマスコミから批判されると、我々は天の為にやっているのだから善であり、それを批判する輩は悪であると考えるのです。それ故、独善的になり、自己批判はしないのです。

そうすると、このような独善的な組織は世の人々から益々恐れられ、一般社会から、浮いた孤立した存在になって行くのです。そして、カルト、即ち、反社会的宗教団体としての認識が社会に定着して行くのです。

その結果、会社や公的機関に勤めている信徒は、自分がUCの信徒であることを証すことが、できなくなり、二世もそのトバッチリを受け、隠れキリスタンにならざるを得なくなるのです。

勿論、教会にも行かなくなり、祝福を受けたい二世は激減して行くのです。それでも、UC組織は反省も総括もなく、既存の過剰献金体制をだらだらと維持するだけです。

カリスマ性のある教祖の存命中は、それでもなんとか組織を維持できたが、逝去した後は、膿が一気に出て分裂し始めるのです。そして、三つ巴に分裂しているのが今日のUC・家庭連合です。

ところで、こんな状態にしてしまっていることに対する反省が、果たして、TMを中心をした教権側にあるのでしょうか。

ヤンバン制度、文化を踏襲している家庭連合は、それは出来ないところでしょう。普通、長の立場にある者は誰でも、自分の不徳のせいで、このような状況になってしまいましたというものですが、それが出来ないのがUCの特色なのです。

それは、自分が完全無欠の立場に立っているという自負心で覆われているために、責任は全部、相手のせいにせざるを得なくなるのです。こんな状態にしたのは、あなた方、信徒のせいだ、と言うことになり、教会全体で悔い改めよ!恩赦を受けよ!と言うことになるのです。

神ですら、人間の堕落の責任を取って来られましたが、それが出来ないのです。それで、神とは益々異なるものとなり、神から遠く離れていくのです。



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UCの目的は神と一体化した宗教の要らない世界を作ること




私が原理を聞いて献身した頃は本当に原理によってすべての宗教や思想が統一されると思っていました。

しかし、比較宗教学を勉強し、色々な宗教団体を尋ね、伝道をしてみると、一つの大きな壁に突き当たって来ました。

それは原理によって他宗教を改宗させることは直接神か霊界からの啓示でも降りない限り不可能だと言うことです。

他宗教の信徒達は彼らの教義が論理的、実証的すなわち科学的だから信じている訳ではないのです。信仰とは理性を超えている領域が多々あるのです。宗教体験はその一例です。

これはUCの信徒も同じです。原理講論も間違いやこじつけみたいなところ、特に再臨論はひどいものですが、それらの問題を超えて信じているのです。

問題だらけの教義ですが、それを信じて実践してきた結果、数多くの神体験・宗教体験をして来ましたので、理論の整合性を超えた領域を実感している世界があるのです。

分かりやすい例を挙げてみましょう。1600人だったでしょうか?、TFは女性宣教師を女性連合の名の下に各国に送ったのです。

回教圏でも成功裏に受け入れられていたところも在りましたが、その後、国家メシアの摂理が始まって、韓国の先生たちが送られて来ました。

中には教条的な先生方もいまして、「今までは女性連合でしたが、これからは家庭連合の摂理だ」と言い出して女性連合でつながった人とたちに原理講義をし出したのです。

結果は、直ちに国外追放です。おかげで、せっかく築いた女性連合の基盤も失ってしまったのです。他宗教は改宗の行為には敏感なのです。

それでは、どのようにして他宗教の人達や国家を取り込んでいけるのでしょうか?

ここで、H1のGPF運動には注目に値するものがあります。以下の資料は「統一教会の分裂」からの引用です。



2008.12.1.GPF活動に対する創始者の評価:

幼稚園教育から大学教育まで、これから自分たちの観念のまま、自分たちの勝手に教育することができません。GPFのモデル型を中心とじて本部が制限するのです.

何の運動でも関与して結んでいかなければならないのです。何故そうしなければならないかというと、一つにしなければならないからです。アベル国連を作ろうとすればです。

教会も百の教会があれば、その百の教会が全て違うではありませんか。駄目なのです。絶対概念がありません。永遠、不変という概念がないのです。私たちのGPFは絶対概念です。

永遠を中心として変わりません。そう、公式的な基盤の上で「One Family Under God」というのです。そこに小さくても世界が全て包括されています。

国家もその公式を拡大したのであり、世界も天地もそうなのです。家庭の祝福を受けて自分が生活するのは一元化されるようにしますが、その国に所属したものは一切がその原則、子を産まなければなら状発展させなければならないという原則を中心とじて守っていかなければなりません(345)。

みことばの引用終わり



アボジがこのような評価をGPFに対してしていたとは知りませんでした。しかし、これがどこまで成功するかは分かりませんが、私には家庭連合のようにあえて反対する理由はないのです。

これを見に行ったり、参加したりする人を禁止したり、役職を解任する理由は見わたりません。そんなことをする暇があったら、FFもGPFに替わる超宗教的、超国家的運動を展開すれば良いのです。

ここでは他宗教を原理に改宗するやり方でなく、それぞれの宗教の立場を尊重しながら、もっと大きな枠組み One World Under Dodの標語を掲げて各宗教の団結を促しているのです。

このやり方は、珍しいものではなく すでに、あちこちで、Unity in Diversity(多様性の中の一致点)の標語のもとで様々な宗教の指導者や学者が国際会議や研究会を開催していたのです。現代の潮流といってよいでしょう。
 
問題は統一家並びに統一教会自体が分裂しているのに、何が One World Under Dodですか、言われることです。

これはUCを卒業した人達においては何の問題もありません。統一家や統一教会の名においてOne World Under Dodを掲げている訳ではないからです。「万民一家族」は人類の理想であってUCやH1の専売特許ではないのです。

UCの目的は神と一体化したら宗教の要らない世界にすることが最終目的ですから、神と共に生きている人達にとっては、One World Under Dodを仰々しく言わなくても当たり前のことなのです。

それゆえ、神と共にどこの宗教団体でも訪れることが出来、神、または究極実在を知った喜びを語り合えることが出来るのです。One World Under Dodはわざわざ大会を開かなくても日常生活の中にあるのです。



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道徳的、霊的に生まれ変わるべき残念なUCの姿(神を知った喜びに満ち溢れる人々へ)




ローマ法王は韓国はセウル号事故を「道徳的、霊的に生まれ変わるための機会」としてとらえるようにうながしたが「統一教会の分裂」の著者は統一家も同様に「道徳的、霊的に生まれ変わる」ことをうながしている。



 全ての資料と情況は、陰謀を企てた勢力の非道徳性を暴露する。長男・文孝進の他界に心を痛めていた創始者の心情さえも、文顯進除去の巧妙な道具として利用したというのが正に、束草霊界メッセージ握造事件であった。真の家庭の価値は世俗化されて地に落ち、真の父母の権威はどこにも見られなくな った。

中略

結果的に、統一教会が真の家庭運動によって地上天国を成すという話は世間が全て知る嘘になってしまった。それだけでなく、真の家庭の分裂と、統一教会で展開された一連の事態は、これから真の家庭と統一教会に迫り来る試練を予告するものであった。

統一教会の分裂引用終わり



これに対する師観のコメント:

サタンは陰謀を企てるのはサタンのアイデンティティのようなものであるが、神のアイデンティティではない。

したがって、統一家の陰謀もサタンのアイデンティティになり得ても神のアイデンティティにはなりえない。

いずくんぞ、無原罪をアイデンティティにしている統一家がこのような陰謀をなすと有原罪の人々との区別が無くなってしまいます。TMがこの陰謀の首謀者だとしたら、いくら自分が生まれながらの無原罪独生女を唱えても、無原罪の価値はなくなってしまう。これはまさしく内容のない権威主義である。

内容のない無原罪は内容のある有原罪より劣ります。メシアとは使命であって、存在そのものではない。

事実、無原罪だと信じられているイエスが生まれる前の旧約時代には油を注がれた者、メシアが39人も存在した。

UC・家庭連合には原罪が無くなったと信じられている二世は沢山いますが、ただ飲み食い娶り、在っても無くてもよいような人生を歩んでいる者が多い。したがって、原罪が無いからといって威張ったり、誇ったりしてはならない。

我々が有原罪として区別をしている一般人の中に我々以上に「為に生きている」人は余りにも多い。

み言葉によれば、「メシアとは、思いを尽くし、心を尽くし、魂を尽くして、地上に神のみ旨をなそうとする人のことを言う。私もメシアに成ろうとしているし、あなた方もメシアにならなくてはならない」という。このみ言葉に中には無原罪も有原罪もない。

したがって、アボジが生まれながらの無原罪でTMが堕落圏から復帰されたエバであろうが、その逆であろうがどうでも良いことです。




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現在のサタン側国家はどこか?(信仰の論理としての神側・サタン側のアダム・エバ・天使についてのエピソ-ド)




数日前に、サタン側国家とか神側国家という分類の仕方はどこの学会でも通用しないことに言及しました。

原理は宗教と科学を統一課題として解決すると言いながらもこのような分類の仕方はUCの信仰の論理になり得ても、科学にはなり得ません。

アダム・エバ・天使などという存在はヘブライ神話と言われている旧約聖書の神話的存在であって、客観世界の学問の世界ではおとぎ話でしかないのです。

それゆえ、この度は信仰の論理としての神側・サタン側のアダム・エバ・天使についてのエピソ-ドをお話しましょう。

金明大氏は非常に反日的で日本は第二次大戦時代はサタン側のエバ国家で、韓国に多大な被害を与えたと言う。

あまりににも日本のことを悪く言うものですから、見かねた統一思想の李相軒氏が日本の弁明を仕出した。「サタン側のエバに選ばれるのも大変なことなのです」という。

弁明しようとする気持ちはありがたいが、両者ともトンチンカンなことを言っているのです。

第二次大戦時代は日本がサタン側のエバ国家だというのなら、朝鮮人が望み各国が承認した日韓併合の韓国も同じ立場だと言うことです。

しかも、1938年に朝鮮半島に志願制度が実施されると2000人の定員に約15倍の人々が応募したと言う。さらに、「志願兵に不合格を悲観して自殺」という新聞記事が出るほどであったという。

したがって、第二次大戦時代には韓国もサタン国家だったのです。

それでは原理でいう第三次大戦時代はどうでしょうか。韓国(アダム)、日本(エバ)、アメリカ(天使)が神側で北朝鮮(アダム)、中国(エバ)、ソ連(天使長)がサタン側だという。

韓国、日本、アメリカは摂理的には仲間だと言うのに、朴クネは反日を掲げ、中国に接近し、神側の日本に対して1000年の怨みを抱くという。 

文在寅大統領はさらに悪く、国際間で決めた慰安婦問題を蒸し返し、1965年の日韓請求権協定で解決済みの「徴用工」の問題まで蒸し返してきた。

しかも、この問題を北朝鮮にも呼びかけて日本叩きをし、北朝鮮接近のための手土産にしょうという魂胆だと言う。それゆえ、北のスパイだと言われのです。

韓国は第二次大戦時代はサタン側のエバ国家の一員であり、現在(第三次大戦時代?)は神側のエバ国家である日本叩きに夢中になり、サタン側のエバである中国に媚を売り、今度は日本を敵に売ってまで、北に擦り寄ろうとするのなら、この国もまたサタン国家になる。

したがって、金明大氏が韓国がサタン国家になりつつあるのを棚に上げて、日本をサタン国家呼ばわりして批判するならばこれほど馬鹿げた話はない。

そもそもアダム・エバ・天使などという神話(?)の世界を客観世界に当てはめると無理が生じ、ままごと遊びのような概念に嵌ってしまうのです。

ままごととは何かというと、儒教的形式主義です。韓国の方が明らかに内容においては日本よりサタン的で、道徳的にも霊的にも生まれ変わらなければならない国なのに、アダム国家というラベルを貼ると、日本の信徒達はまるで催眠術にでも掛けられたように、韓国人というだけで何か偉い者に見えて、自分たちが敬い、従うべき存在のように見てしまうのです。

すなわち、形骸化された間違ったアベル・カイン観に洗脳されてしまうのです。それが自虐史観なって行くのです。




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原理講論の問題点(正しい歴史観による正しい摂理歴史の理解)




あるMLでのI氏の意見がなかなか興味深いので紹介します:



原理講論の世界大戦から再臨論は、もはや神の復帰原理ではなく、「神側がサタン側を打って摂理が勝利する」というような対立相克の弁証法的闘争理論、粗雑な反日プロパガンダのオンパレードでサタン的な非原理講論となってしまっています。まるで違う著者が書いた別の本を貼り付けたかのようです。

従ってこの部分は必ず正しい原理原則に従って書き直さなければなりません。それがマイナス遺産を清算する第一歩です。

例えば、韓国併合について言えば、この「サタン分立の40数」を立てることによって韓国は再臨主を迎える資格を得たと言いますから、逆に言えば、それ以前は再臨主を迎える資格がない民族だったということです。

資格がなかったというのは具体的に何のことかというと、皆様もご存知の通りの李朝時代の体たらくのことを指しています。

李朝の宗主国は清でしたが、再臨時代に至って排除されたのは、清の支配下では再臨のための神の基台を作ることができなかったからです。中華思想は完全に清算しなければなりませんでした。

李朝は典型的全体主義国家であった清の属国であり、当然自らも全体主義国家であり、統治者は民から無慈悲に搾取するばかりであり、基督教を過酷に迫害し、始祖が熊女と結婚したという神話を信奉し、現世利益で無知な人民をたぶらかす低級な雑教の類を信じていたサタン側国家・民族だったからです。(まあ、「サタン側」という言葉は復帰原理から外れる言葉なので使わない方がいいでしょうけど)

本来の神の第一摂理は、大韓帝国が自力で小中華の事大主義から抜け出し、上下一体となって、再臨主を迎える独立した民族となることでした。

それには何回かのチャンスがあったでしょう。日本にとっても地政学的に見ても朝鮮半島の安定が死活問題でしたから、これにいろいろと手を貸そうとしました。しかしことごとく失敗しました。

内的刷新が失敗したので、外的粛清となりました。ただし、併合されたのが日本だったのは幸いでした。これがロシアなどだったら、もはや再臨の基台などは根こそぎ吹っ飛んでいっていただろうと思います。

摂理的に言えば、日本が併合時代にやったことは、再臨主を迎える基台を作ったことです。

近代的な統治組織を整備し、社会的インフラを整備し、教育を施し、産業を興し、北から侵略してくる共産勢力から再臨主のための基台を防衛したことです。

韓国人はこう言うと「そんなこと韓国民族は望んでいなかった。」と言います。

しかし復帰摂理的に見て見るならば、韓国民族が望んでいたかいないかなどは二次的なことです。

そんなことよりは「神が望まれていた」ということが第一に重要なことであり、日本は神の摂理など知らなかったけれども、結果としてその願いにかなった基盤を残した、という事実です。

偏狭な民族主義ではなく、神主義に立つならば、そのように考えなければなりません。

その日本が第二次世界大戦においてカイン側国家(「サタン側」ではない)となったのにも、いろいろな理由が考えられます。摂理は単純ではありません。

過去の過ちを清算し、未来を開こうとする私達は、正しい摂理歴史理解を持たなければならないし、毒麦は刈り取って焼き捨てなければなりません。

以上I氏の意見終わり




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韓国のすることは善、日本のすることは悪という神様から遠い危険な概念




原理の最大の問題点は世界大戦において、英・米・仏を神側とし、独・日・伊をサタン側と分類し、位置づけたことです。

そもそも、アベルであろうが、カインであろうが堕落したアダムの原罪を持った子孫なのです。どちらも創造本然の神の宮たる実体から遠い存在なのです。

神とは絶対的概念であり、英・米・仏も独・日・伊も創造本然の状態から遠い被造物であり、被造世界なのです。

神は絶対的存在・概念なのです。しかるに、英・米・仏も独・日・伊も相対的存在・概念なのです。

にもかかわらず、それらを神側とかサタン側とか概念づけると、神が相対化されてしまうのです。

アベル・カインは相対的概念ですから未だ良いのですが、神側とかサタン側に概念づけてしまうと、英・米・仏が絶対的善で独・日・伊は絶対的悪になってしまうのです。

これでは相対的存在を絶対化してしまうのです。特に、韓国が神国家で日本はサタン国家だなどと言い出すと、この概念づけは大変問題になります。

このような概念づけをすると神から遠く、倫理的道徳的、霊的にも生まれ変わらなければならない韓国のすることはすべて善で日本のすることはすべて悪というところに持っていかれてしまうのです。これは危険な概念です。

現実の実態は韓国や北朝鮮がやっていることの方が日本のそれよりはるかに悪でしょう。

したがって、原理のこのような概念づけを見直さなければなりません。聖書には「神の名をみだりに呼ぶなかれ」と書かれていますが、それは絶対的存在を相対的世俗の世界に引き下ろしてはいけないということです。




神から遠く、倫理的道徳的、霊的にも生まれ変わらなければならない韓国のすることを全て善とするような危険が概念をUCは持つべきではないのではないかと思われた方はクリックお願いします。
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金振春の「独生女」講義及び質疑応答とそれに対するコメント(我と神との直接の関係を根本とすべき時代の到来)




2017年4月24日、韓国で12時間30分に及ぶ全国教区長戦略会議があった。

会議の目的は金振春の「独生子・独生女 真の父母論」講義及び質疑応答。

以下は動画の3分50秒~13分15秒のもので、金振春の講義が終わってから金振春と教区長たちが交わした質疑応答の内容である。



教区長A:お父様が「天地人真の父母様実体み言葉宣布大会」を世界的にされながら、父母様のメシヤとしてのアイデンティティを説明され、16才の時に召命されたのではなく「生まれた時からメシヤとして生まれた」とみ言葉を訂正されましたが、そのみ言葉はないのですか。

2010年度の120日全世界牧会者修錬会の時にも、呉澤龍教授が真の父母様の生涯路程を講義した時、お父様は16才の時にメシアとして召命されたが「生まれた時からメシヤとして出発されたと、お父様が語られた」と世界的に語られましたが…



教区長B:世間は知りませんが、イエス様と実体の新婦になるはずであった洗礼ヨハネの妹が会えなかったと理解していますが、そのことは全く関係がないのでしょうか、

その方(洗礼ヨハネの妹)が独生女だと表現することが出来るのでしょうか、お父様が直接的に「お母様は生まれた時から完全に血統転換された」と直接的に語られたみ言葉があるのでしょうか…

独生子・独生女に関する部分に対し、フォーカスを今、この時期に、未だに、お父様の聖和以後3年が過ぎて、心の整理が少しは出来ましたが、すべてが整理されていない状況でそのように語ると、牧会者たちもそうですが食口たちも同様、まだ心情的に受け入れ難い部分もあるのではないでしょうか…



教区長C:あまりにも敏感で、お父様に原罪があるとすれば、実際にはこれは凄まじい衝撃であり、そのような話がすでにありますが、それをどのように説明したらいいのか、統一家に混乱を招くような本当に敏感な問題ではないでしょうか…

お母様がそのようなことを語られたのは事実ではないですか。その部分も本当に敏感で…しかし、そのようなみ言葉を語られたならば、食口たちから質問を受けた時、説明できる何か根拠がなければならないのではないでしょうか、ただ黙って… 先ほど教授が語られたように、これからは、お母様のみ言葉が具体的に明らかになるだろうし、お母様のみ言葉だから…

ならばそれを、根拠をもって、お父様が語れたとか、とにかく根拠があって語られたみ言葉ならば、食口が質問した時に教区長たちが答えられるような内容がなければならないのではないでしょうか、そのように心配になります。



教区長D:今議論されている内容ですが、今、一番重要なことは、教区長が理解するとかしないとかが重要ではなく、統一教の真の父母様を信じるすべての食口たちが、今まで信じてきた信仰の基礎が重要です。

今、混乱している理由が、これが事実かどうか、デマで流れている話なのか、カカオトークで流れている話なのかは分かりませんが、お母様が430双以上の婦人たちを集めて「お父様は原罪をもって生まれた。原罪なく生まれた私に会って原罪が清算された」というみ言葉が今流れています。

私たちは今まで、私たちの信仰に対して、お父様は原罪なく、メシヤは必ず原罪なく生まれ、それに呉澤龍教授がお父様と3年間共にいながら聞いたと言うのです。本体論教育で学びました。

お父様は原罪なく生まれたと語られ、16才の時「ああ私がメシヤなんだ」ということを自覚、イエス様に会って自覚された。ですから私は、原罪なく生まれたというみ言葉を私たちは聞いてきたわけですが、いま金振春総長が「お父様のみ言葉を研究してみたが確実ではない」と言うならば、組織を導く教区長たちは、私たちはどのように食口たちに説明したらいいのか。

結論はこうです。お父様が原罪なく生まれたのかどうかというみ言葉はありませんが「天の血統をもって生まれなければならない」といったそのようなみ言葉が、原罪なく生まれたという、否定することが出来ないのかという質問。今一番重要なことはその事です。お父様が原罪をもって生まれたのか原罪なく生まれたのか、その一つの命題故に今すべてのことが派生しています。



<金振春の答え>

先ず、この内容は、とりあえずはお母様が「牧会者たちに教育しなさい」とされたので私が今講義をしました。自発的にしたのではありません。「教材をそのように作ってしなさい」と語られたのでやったことで…



教区長E:私が見たところ、院長ははっきりしていないようです。なぜなら、お母様に報告する時、今、お父様の兄弟に原罪があるのかないのか。「原罪がある」とお母様が語られたことは知っていますが。

お父様の兄弟に原罪があるというのは正しいです。同じ親から生まれても真のお父様には原罪がなく、他の兄弟には原罪があるのは正しいです。なぜならイエス様は独生子なので原罪がない方で、イエス様の兄弟には原罪があります。同じ母親から生まれてもです。なぜなら、それは… そのような複雑な神学的な内容はご存知でしょう。

お父様の兄弟に原罪があるからといって真のお父様にも原罪があるとは言えません。

その部分を院長がはっきりされないので、お母様までちょっとこのように…



教区長F:私たちが誤解しやすいのです。誤解する部分のもう一つが、そのような話になったらどうなるのかというと、お母様に、お父様ではない他の方でも可能であったのか、真の父母様が可能であったのかという質問にまでもなりうる部分です。

ですからこの部分は、ですからこれは私たちと相談してやったほうが望ましく… これはちょっと… 牧会者や一般食口たちに教育するのはもう少し検討した上でするべきではないかと思います。



教区長G:お母様が最後に、最終的に何とおっしゃったのか、それは常に私たちの基準になります。過去、何を語られたとしても。ですから、本当に進言してくださって「私は独生女として来た。お父様も原罪のない独生子として来られた。私たちが聖婚して真の父母になった。分かったか」こうすれば全て終わります。

このようにちょっと進言してくださって、完全に、公的な場で、大きな大会で「私は独生女として来た。お父様も独生子として来られ、私たちが聖婚して真の父母になった。分かったか」このように一言だけ語って下されば、過去のものすべてが丸く収まります。



教区長H:聖婚記念日にお母様がそのように語られました。



教区長G:ああ、ですから、その話をしてくださいというのです。



教区長H:お母様が聖婚記念日に独生子と独生女が会って子羊の宴をした。聖婚することによって完成した。そのように宣布されました。



教区長K:お母様はお父様が独生子だという話はされず、イエス様が独生子だという話をされました。正確に理解しなければなりません。ですから、お母様を違うようにすることは出来ません(考えを変えることは出来ません)。

ですからお母様に、どのような思いがあるのかを伝えるなら正確に伝えてくださらなければなりません。先ほど語られたように、私がその日に聞いたのは、お父様が独生子だとは語られませんでした。イエス様が独生子だと語られました。そしてお母様が独生女だと語られました。



教区長M:原理講論の316ページに、イエス様は神様の血統的直系の子女として原罪なく生まれた。そのため、人類が誕生することの出来る真の父母になると語られました。ならば、お父様も再臨のメシヤとして誕生した時から天の血統の直系として来られなければなりません。

ところが、しきりに16才の時から、何、メシヤの自覚、そのような話が混乱を招くのです。今、それも何も確実なことでもなく、決定されたものでもないので、それは学術的次元で研究されて、このような内容を何度もお母様に報告して、お母様はこのような内容を何度も教育しなさいとおっしゃるでしょう。

しかし、それが確実なものでもないので、それを教育しろとなるとさらに混乱を招きます。私はそう考えています。ですから、再臨のメシヤも、原理講論のみ言葉にあるように神様の血統の直系として来られたので、原罪なく生まれた。そのように原理講論にありますから。再臨のメシヤもそのように規定すべきだと思います。


教区長P:結論をつけたいと思います。結論。お話を聞いたところ、これ(独生女論)は、まだ少し足りないと感じられます。これをもって私たちが現場で講義をするととんでもない混乱を招く恐れがあります。そのことをお母様にお伝えして、もう少し研究してから教区長たちに講義すべきだと思います。そのように進言してくださるようお願いします。

教区長たちの質疑応答終わり



これに対するI氏のコメント:

教区長とか教会長とか「なんとか長」という人たちは、単に上から「言え」と言われたことを言っているだけに過ぎない、ということです。

つまり、神の神意や摂理の方向とか、霊界の動きや、信仰・神学的理解に基いて、自分の責任において自分の言葉で言っていることではない。

単なる上意下達。信仰的確信もないし、信徒の成長に対する責任も持たない。お山の上で変な声が聞こえると、右往左往して自分ではどう判断したらよいのかわからない。ひたすら、上意の忖度と、下々の反発を恐れるのみ。

私達がそういう人たちから何か霊的・信仰的な「指導」「御言」を受ける必然性はどこにも見いだせません。

残るのは「中心に神が働く」という形式的信仰だけで、こういうのは多くの人には無用のもの。やっぱり、我と神との直接の関係を根本とすべき時代になった、ということですね。



これに対する師観のコメント:

このコメントは余りにも的確であり、その通りですが、全く別な観点からTMの言動を論じてみましょう。

・TMの偉大な功績は自分こそが生まれながらに原罪が無TFには原罪があり、自分と出会うことによって原罪がなくなり、自分が無原罪の独生女として誕生したにも拘わらず、第1や第2のお母様と結婚したのが間違えであったと言い切ったことです。

この発言で教祖の神格化された絶対的カリスマ性を否定することによって、同時に、結果的には自分のカリスマ性をも否定することです。そして、このことは十戒の第一条の「神以外のものを拝してはならない」といところに行き着くのです。

・以前にも話しましたが、私が宗教哲学の恩師に原理を聞かせたら、いたく感動し文鮮明師はイエスと同様に偉大な人だ、と言うのです。

イエスの偉大さはイスラエルの民族的次元のメシアを否定して人類を罪から救済する世界的メシアになったことです。そして、その教義の中心が十字架による血の贖いです。

とこが、クリスチャンである文師は自分の教祖の十字架の贖罪を失敗であると断言しのです。そのことが偉大だと言うのです。世が世であるのならば、火あぶりの刑に処せられる発言なのです。

・しかし、問題なのは、今度は自分が説いた教義に自分と同じ様に疑問を持つ信徒が現れて、教義を否定したら、文師は果たしてその者を祝福できるのか?というのです。

・一般にはそのような教祖は自分を絶対化し、神格化することを信徒に要求するものだと言うのです。それゆえ、文教主が自分と同じように疑問を持つ者を祝福できたのなら本物だと言うのです。

現実は良し悪しは別として、絶対服従を要求しているのです。文師は自分がイエスが成し遂げなかった使命を成し遂げた再臨主としてイエスの上に自分を位置づけたのです。

ところが韓鶴子女史はその文師よりも自分の方をさらに上に位置づけたのです。さすが韓国人です。「蛇の道は蛇の道」と言いますが、似ている所があります。

・この方の何が偉大かというと、教祖の神格化された絶対的カリスマ性を否定することによって、同時に、教祖の七光りで輝いていた自分のカリスマ性をも否定する破目になったことなのです。

そして、同時に統一家の神格化も否定されたことになるのです。結果として、我と神との直接の関係を根本とすべき時代をもたらしたのです。



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