UCが本質を失わずに仏教神道の背景のある日本に受容されるには(キリスト教に学ぶ)



実質的に昨年8月から始めた師観のブログのアクセス数が7万を超えました。約11か月で延べ7万人もの人に読んでいただけるとは思っていませんでした。読んでくださった方ありがとうございます。

まず、キリスト教がどのようにしてローマ帝国に受け入れられていったかですが、神本主義のヘブライズムと人本主義のヘレニズムとは明らかに異なった文化であり、交わりそうもありません。

しかし、受容とはヘブライズムのキリスト教がギリシャ・ロ-マのヘレニズムの文化を受け入れることによって、受け入れられていくことです。

アウグスチヌスは当時のありとあらゆる哲学・宗教に精通していましたので、それが出来たのでした。当時はネオプラトニズムがロ-マに流行して、教養のある庶民や知識人たちはそれを崇拝(?)するほどでしたので、そこに彼は目をつけたのです。

当時流行していた密儀宗教もそうでしたが、プラトン哲学はあの世である形相(イデア)世界(性相)は実相の世界で、この世(形相)は影のような世界で、幻でも見ているような世界なのです。

したがって、この両者は交わらない分離された形而上学的二元論の世界なのです。プラトンによれば、形相(イデア)は霊的不変的な世界であり、質料は物質的可変的な世界な世界なのです。

前者は完全な世界であり、後者は不完全な世界で、完全と不完全は交わることなく、永遠の平行線をたどる世界なのです。

さらに、プラトンによれば、神は形相(性相)でもなく、質料(形状)でもなく、デミウルゴスと呼ばれる全く別な存在なのです。そして、デミウルゴス(神)と形相、すなわちイデアと質料の三者は永遠の昔である初めから個々に独立して存在しているのです。

これでは、まるで形而上学的三元論です。そこで、神はイデアをもって質料に刻印してこの世界を創造するのです。したがって、この世界は質料から出来ていますから、神からも、形相(イデア)からも断絶しているのです。

そこで、アウグスチヌスは神を万物の始原、根源者とし、さらに、形相(イデア)を神の内部にあるロゴスとし、質料は神によって
”無”から創造されたものとしたのです。このようにしてキリスト教の無からの創造論が出来上がって行くのです。

さらに、中世になると、今度はトマス・アクイナスがアリストテレスの哲学を用いて、神学を体系化して行くのです。キリスト教神学がギリシャ哲学の枠組みで構築されたとはこのことなのです。

このようにして、キリスト教がヘレニズム文化であるギリシャ哲学を受け入れることによって、ロ-マ帝国に受け入れられていったのです。このように本質を変えることなくその国の文化を受け入れることによって、受け入れられて行くことを受容と言います。

しかし、ここで問題になるのは神観です。イスラエル民族の聖書を通しての神観がギリシャ哲学の枠組みでキリスト教の神観として構築される段階において、別なものに変質しまったのです。その理由をもう少し詳しく説明しましょう。

まず第一に、ギリシャ哲学の形而上学的二元論の形相と質料の説明をしてみましょう。

形相とは非物質的、不変的、完全充足的な概念であり、これに対して、質料は物質的、可変的、不充足的な概念なのです。無限と有限とは全く相容れないようにこの両者は全く相容れない概念であり、存在です。

アウグスチヌスの神もトマス・アクイナスの神も完全な形相なのです。それゆえ、神は非物質的、不変的、完全充足的な存在となります。まさに、自分は動かずして、すべてを動かす”不動の一者”なのです。

神はそれ自体「完全充足的」な存在ですから、被造世界を創造する理由は全くないのです。すなわち、被造世界などをわざわざ造らなくても、神は自分に満足できるのです。それゆえ、神学者は神の勝手気ままな創造論といいます。

無から創造された被造世界は原理でいう性相(形相)的な側面がありますが、神からではなく、”無”からですから、質料的であり、すなわち物質世界であり、不完全な世界なのです。

これは純粋・完全なる形相(性相)である神とは絶対に交わることはないのです。それゆえ、神の作品である物質世界を見れば作者である神が分かるという論理は成り立たないのです。

被造世界をいくら見ても、完全な神は見えないのです。いくら人間が神に似せて造られたといっても、質的に、似て非なる世界なのです。有限な世界をいくら見ても、無限な世界を規定できないのです。一部を持って全体を規定できないのです。だから、ソクラテスは「汝の無知を知れ」といったのです。

それゆえ、永遠に不完全な被造物がいくら成長して完成しても神の完全さとは質的に異なり、次元の違う世界なのです。これが形而上学的二元論の世界なのです。かくして、神は人間から遠い存在となるのです。

このような西洋文化に受容してしまった一神教の神は日本の文化に合わないことでしょう。

それでは原理の神の創造とはどんな創造論になるのでしょうか。

無からの創造論(エックス・ニヒロ Creation out of Nothing)がおかしいのです。これは言葉の誤魔化しです。Creation out of Nothingではなくて、”Creation out of Nothing but God”なのです。

要するに、無とは何もないことではなくて、”神以外に何もない”ということです。仏教のような東洋哲学では無とは形のない無限の有なのです。

この無が属性として知情意の機能を備えているとすれば神になるし、単に法を備えているとすれば究極の理法になります。ただし、大乗仏教ではこの法を擬人化して人格的な表現をします。

それゆえ、神は神から、すなわち神の属性である原相から創造したというのです。哲学では本質は現象するという。すなわち、神の属性である本性相と本形状が被造世界として現象化したので、すべての被造物は性相と形状を持つのです。

問題はこのような表現を使うと、異端として退けられた流出論と間違えられることです。目に見えない本質である神が実体として現象化したとなると、汎神論になってしまうのです。神と被造物との間に非連続性を持たせるためには神からではなく無からの創造が必要だったのです。

ところで、親(原因)が自分の体の栄養素を材料にして、子(結果)を産んだとしても、親子は似てはいますが全然違う存在です。

それゆえ、神が子を産むように人間や万物を流出(創造)したとしても、出てきたものは全く違いますので、現実的には汎神論にはなりません。

神と人間の関係を親子の関係として捉えることは、両者は心情的にとても近い存在になります。それゆえ、親なる神は子なる人間が完成しない限り、神の完成はないのです。

すなわち、主体なる神は神の最も本質的な愛の対象である被造物の完成をなくしては完成しないというのです。

親は子が出来て初めて親になれるのです。だから、子が原因で結果として親になれたというのです。子も、また、親が原因で結果として子になれるのです。

これを仏教では、原因結果相互依存の法というのです。般若心経の中に色即是空、空即是色という経文があります。色とは結果、現象界を意味し、空とは原因、本質界を意味します。

これは親と子の係わり方、原因と結果の係わり方、主体と対象の係わり方、創造主(神)と被造物との係わり方を法として説いているのです。

存在同士の係わりを実存といいます。これを即非の論理ともいい、西田哲学では神の創造の行為を神の自己否定として理解したのです。それゆえに、我々人間も自己否定しない限り、神と出会うことが出来ないというのです。

文教主の言葉を借りると、神の完全投入、絶対服従(自己否定)、絶対信仰、絶対愛ということになります。

余談になりますが、アベルの立場にある者がカインの立場にある者に対して自己否定をしないで、絶対服従を要求したら、神とは真逆の行為になってしまいます。

さらに、本質の自己否定としてそこから流出してくる現象を捉えたなら、これは連続ではなく非連続の連続になりますので、汎神論にはならないのです。

聖徳太子が日本に仏教を受け入れ、仏教徒の久保木会長とその仲間が原理を受け入れたおかげで、日本統一教会の基盤が出来たのですから、原理は仏教文化に受容されると、発展することは間違いないでしょう。

天地正教は献金の目的で出来てしまいましたが、純粋に仏教文化への受容として展開していたのなら、天地正教は仏教への架け橋になったかも知りません。同じように神道研究の方々も原理の受容の道筋をつけれることを祈ります。




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統一教会の原理は、反日思想で自虐史観を教えている

>聖徳太子が日本に仏教を受け入れ、仏教徒の久保木会長とその仲間が原理を受け入れたおかげで、日本統一教会の基盤が出来たのですから、原理は仏教文化に受容されると、発展することは間違いないでしょう。

>天地正教は献金の目的で出来てしまいましたが、純粋に仏教文化への受容として展開していたのなら、天地正教は仏教への架け橋になったかも知りません。同じように神道研究の方々も原理の受容の道筋をつけれることを祈ります。

原理という文教祖が書いた(本人ではなく、別人が書いたという説もある)の結論は、文教祖をメシヤ~神の代身~として信じさせ、韓国を神の国として、全世界に宣伝すること。 今は韓鶴子氏を独生女としているだけで、内容は同じ。 日本の神道とは相容れない内容なのに、発展することは、ありえないでしょう。日本の神々は、統一教会の金や権力を愛する神とは、まったく違います。教団の信者は、文教祖の造語~真の神とか、真の父母とか、真の宗教、真の~、真の~などにより、絶対的に信じさせられている。 また、紛らわしい言葉、日本語にない言葉など、いくらでもある。そして、それらを、絶対的に受け入れさせようとする。呪文のような盟誓ー絶対服従(自己否定)、絶対信仰、絶対愛などもある。
キリスト教などの一神教系の宗教は、シツコク、最後まで、相手をねじ伏せようとする。 統一教会も同じ。信者も違法伝道などして、シツコク、アプローチしながら、相手の弱みにつけ込み、最終的にねじ伏せていく。コントロールしていくのである。 最高の洗脳技術をもつ黒幕によって作られたカルトだからである。

韓国発祥のこのカルトは、宗教でなく、有害な外来種ですから、日本には、必要ありません。蓼食う虫も好き好きで、自由ですが、これ以上社会や人々に迷惑をかけないでほしいものです。

いまだに、オウム以下であり、暴力団以下だと思われます。暴力団でも、義理や人情がありますが、統一教団には、真の愛なんてものは、ありませんからね。先回の記事で、2世の姉妹の教団の矛盾や不条理に対する怒りに対して、先輩の信者は、どういう助言、アドバイスをするのでしょうか。 

文教祖の本は、一般の書店でも売れてないし、知られてもない。
なぜでしょうか。 また、日本人には、法外な高額で売っている。なぜでしょうか。日本人に対して、自虐史観を植えつけているからでしょう。
文氏の自叙伝もウソばかりで、宗教指導者でありながら、正直に自分の歴史を書けないとは、情けないですね。

ということで、反日思想の洗脳本~自虐史観を教えるカルトは、日本に必要ありません。

個人でやるのは、自由です。 伝道や宣伝は、既に違法でしょう。



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