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宗教の卒業生とは(幸福とは欲望から自由になること)




イエスは「私を見た者は神を見た者なり」と言ったが、特別なことでもないようです。

以前、禅の修業・世界についてお話しましたが、小我を脱して大我を自覚し、真我に目覚めた時、真我の中に神を見ることが出来ます。創造本然の自分を発見するのです。

人は神に似せて創造されましたので、創造本然の自分の中に神性を自覚するのです。それは真・善・美・愛・聖に満ち溢れた世界です。

座禅を通して大宇宙の生命と一つになった境地に達した状態で、立ち上がったら立禅です。その状態で歩くと歩禅です。寝れば寝禅になり、食べれば食禅です。

生活の一挙手一投足が禅なのです。すなわち、「自分が神の中におり、神が自分の中にいる」自覚に満ち溢れながら日常の生活を送るのです。

すると、日常生活そのものが祈りになります。ここで言う大宇宙とは目に見える宇宙や霊視できる被造世界だけではなく、時空を越え、無形の状態で存在している神も含まれるのです。

そのような大宇宙と一つになることが宗教の目的ですから、そこに至れば宗教の卒業生です。そこに至っている自分の心は聖霊に満たされています。

ここで言う聖霊とは約2000年前のイエスの相対者の聖霊ではなく、イエスをマリアに宿す聖霊、すなわち神の霊、神霊です。

霊性に満ちた国々は沢山あるでしょうが、日本はまさに霊性に満ちた国の一つでしょう。

日本には霊山と言われる山が結構ありますが毎年沢山の人々が神の霊性に憧れて登りに行きます。日本人には自然に対する強い畏敬の念があるのです。これを単純に偶像礼拝と言ってはいけないのです。

人は周りがサハラ砂漠のような厳しい自然環境では、その中に神の恵みを見るのは難しいのです。したがって、宇宙自然界の外側に神が超越的に存在すると考えざるを得なくなるのです。これがユダヤ-キリスト教・回教の一神教です。

これに対して、日本人の直感は被造物である自然界の中にも創造主の神性の反映を感じるのです。山から創造主の神性の反映を感じれは畏敬の念を抱き山の神を祭るのです。海から創造主の神性の反映を感じれば畏敬の念を抱き海の神を祭るのです。

神は自然界を超越するが故に自然界に内在するのです。全ての存在は神の中に在り、神は全ての存在の中に在るのです。

したがって、日本の神は八百万の神だなどといってバカにしてはいけないのです。たとえ、文教主といえども例外ではないのです。

「鰯の頭も信心なり」と言いますが、鰯が大量に取れて、そのお陰で生活できる漁師においては鰯に感謝せざるを得なくなり、鰯は神様だという気持ちになるのです。これは自然に対する感謝の気持ちなのです。

したがって「自分」という字は自然から分かれたものという自然の一部の意味になるのです。これは「人間は自然を征服し万の物を支配すべき存在」という考えよりもより謙虚な姿勢なのです。

よく韓国語のハナニムは一神教の神を指しているのだ自慢する人達がいますが、それでは超越神だけで内在神がいないのです。

仏教には「一即他」という言葉がありますが、これは一にして全てを包括すると言う意味なのです。神とは一にして全てを包括する存在なのです。

・ヘブライズムのキリスト教がギリシャ・ロ-マの文化圏に受け入れられる過程において、キリスト教がギリシャ・ロ-マの文化、すなわヘレニズム文化を受け入れることによって受容されたのです。

そこにおいては理性による神の定義が発達し、神の本性は絶対、永遠、無限、全知全能・・・と定義され、同時に人間の本性は相対、時間、有限、不完全・・・と定義されて行ったのです。

その結果、神は自分の外側に客体、対象となりうる神となり、私達を超えて高いところにある超越神に重点が置かれるようになって行ったのです。

ギリシャ、ヨ-ロッパの真理探究の方法は主客対立を前提とし、主体が客体、すなわち対象の覆いを理性によって取り去ることで、対象の姿を認識しようするのです。そのお陰で、西洋では科学が発達したのです。

しかし、日本の伝統的精神風土においては、ものの真の姿を捉えるということは、主体の側にかかっている覆いを行為によって取り去って、根源の何かを現存させることなのです。

したがって、自分の眼を覆っている利己的かつ独善的な欲望のベ-ルを取り去りながら、自分を包んでいる神に開眼する努力こそ真我を覚醒させ、内在の神を顕現させる道なのです。

普通幸福とは欲望を実現して夢をかなえることだ思い込んでいますが、その逆の道なのです。幸福とは欲望から自由になることなのです。それこそが真の意味での絶対服従なのです。それは絶対自己否定なのです。

何を否定するかというと、自分の眼を覆っている利己的かつ独善的な欲望に満ちた偽我を否定することなのです。偽我を否定することによって真我を覚醒させることなのです。

真我とは神性である真・善・美・愛・聖に満ち溢れた姿であり、神が相対する絶対自己肯定の姿なのです。

オリンピックのアスリ-ト達が一見自分の夢を実現して喜んでいるように見えますが、そこに至る為には絶対服従の自己否定の道のりがあるのです。

それは外的な辛い練習だけでなく内的な修行の道でもあるのです。他にやりたいこともあるでしょうがその道のみに全力を注ぎコ-チの言うことに文字通り絶対服従して行く修行の道があるのです。

自己に勝利してメタルを勝ち取った時には皆から祝福されるのですがそれは人々を通して神が祝福している世界があるのです。これは一例に過ぎません。

・人は献金の量で救われるのではありません。それを説く宗教は邪教です。したがって、旧UCはくれぐれも注意をしなければなりません。

教会には献金で疲れ切った顔をした信徒が沢山います。このような信徒やその教会を見たとき、「私を見た者は神を見た者なり」とはとても言えないのです。

そのような信徒を踏み台にして宮殿を建てあぐらをかいて人々に命令をしている人がいるとしたら、世の人々にはどのように見えるでしょうか。神から遠い世界に見えるでしょう。

実体神殿とは「人は神の宮なり」というように信徒の一人一人がなるべき世界を指しているのです。それは木や石やコンクリ-トで造った神殿ではないのです。

そして自分が実体神殿であることに目覚めた信徒は宗教の卒業生なのです。



UCが献金集めを目的とするような宗教から脱皮して、一人一人の信徒が、偽我を否定することによって真我を覚醒させることのできる宗教に生まれ変わってほしいと思われた方はクリックお願いします。
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これまで、散々批判されても止む事なかったこの献金文化を中心とした
UCはまさに邪教ではないんでしょうか?『注意しないと』は、もう遅すぎますし手遅れですよね。

幸福になれないカルト

宗教の卒業生とは(幸福とは欲望から自由になること)って?

カルトには、絶対自由は来ないし幸福にもなれないってことですね。

納得ナットク~♪


そもそも、宗教なんて必要なし。

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師観

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