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原罪について考える(神のみ旨をなそうとして邁進している姿が大切)




原理は厳格に学問的、科学的観点から見れば、形而上学的仮説と言うレベルでしょう。

したがって、科学は仮説を立てて、片っ端から実験してその結果を見なければなりません。

実験した結果は統一家を見れば誰もが分かることでしょう。長女は離婚、次女は略奪婚、調教師との駆け落ち婚もあれば、末の娘たちにおいては事実婚です。

男子の長男は・・・、家庭は三つ巴の分裂闘争です。特に人類の真の母を自称する方が真の子女を自称する息子と裁判闘争を演じるとなると、信徒以外の人類はこの方々を人類の真の家庭とは見てくれないでしょう。

二世たちはとても客観的です。彼らの視点は人類とほぼ同じです。私共の二世たちも例外ではありません。反面教師にはなるでしょうが、従がうべき見本にはならないのです。

更に、無原罪を誇る統一家の実態がこの有様では無原罪の意義が無くなってしまうのです。無原罪はゴールではないのです。人格完成をするための通過点に過ぎないのです。


・私は塾生が大学卒業し、就職も決まったので、その塾生を連れて二世のための原理の泊りがけの修練会に参加しましたことがあります。

数日間、彼らと共に侵食を共にしましたが、その塾生は原理は素晴らしいが、一緒に参加した二世たちは社会に通用しない奴らばかりだという感想でした。

親に勧められてしぶしぶ参加しているので、主体性が無いのです。祝福も親に勧められて渋々受け入れる二世が多いのです。これが無原罪で生まれた子女たちの実態なのです。

そして、それは人格完成からほど遠く見えるのです。したがって、その塾生はそれ以上原理を聞こうとはしませんでした。

彼はその後、日本の高校で英語を教えているサラというアメリカ人と恋愛し、結婚しました。両方とも主体性が強くしっかりした方々です。


・私共にも三人の子女が授かり、全員父母マッチングで幸せに暮らしてします。お見合いから家庭を持つまでの間に、1年以上
おつき合いする期間がありましたので、その間に信頼し合い、互いに愛し合う愛を育んだとのでしょう。3人とも相思相愛に見えます。

3人とも光の子幼稚園で宗教教育を受けているので、実態はともかく、神と理想化され、神格化された真の父母、子女、家庭像が
潜在意識の中に刷り込まれているのです。

したがって、後は5%の問題なのです。いくら原罪がないといっても、アダムとエバが堕落したように、統一家も人間としての責任分担がありますから、色々あっても致命的影響は無いようです。むしろ、反面教師として受け止めているようです。


・原理であろうと、他宗教であろうと、同じ価値観を共有して家庭を形成することが重要なのです。それゆえ、二世たちは私と妻が二人三脚で助け合いながら歩んでいることが一番大きな影響を与えているのです。

私が家内のピアノ伴奏でオペラを家の中でも会場でも歌っている姿を子供たちは目の当たりで見て育ってきたのです。その姿は彼らにとってはロマンチックで憧れの姿に見えるのです。

https://www.youtube.com/watch?v=z9MqveUNGUA 

したがって、彼らにおいては原理も祝福も無原罪説を否定する理由は何もないのです。

彼らは全員自分達の子女たちが世俗の価値観に毒されないで、純潔を守ってくれることを願っています。これは祝福の子女たちだけでなく、この世においても、良識のある親たちは同じことを願っています。

原理を知らなくても、自分達の子供が未婚、時に未成年の時代に妊娠したり、妊娠させたり、エイズに伝染したりすることを望まないのです。


・重要なのは原罪があるかないかではなく、人格を完成または完熟しているかどうかなのです。

そこで、一般人を相手にアンケ-トを取ってみたらいかがでしょうか。釈尊、イエス、文師の中で、誰が一番、人格を完成または完熟しているかを聞いてみるのです。

恐らく、原理の宗教に染まっていない人なら釈尊かイエスと答えるでしょう。シックですら、文師や韓女史が人格を完成しているようには見えない人が結構いるのです。

一例を挙げると、文師が韓女史に絶対服従を要求し、持ち時間を延長してまでも怒り続けるものですから、女史が耐え切れず、途中でトイレに行きたい事を告げたら、その場で”やれ”と怒鳴ったと言う。

その場にいた人が私に会い来て、述べた感想は、人格完成した人の姿には見えなかった、というのです。

それはそれとして、文師の逝去後、女史がスイスかどこかの山に登り、そこで撮った写真が米本ブログに掲載されていましたが、文師の絶対服従から解放された「晴れ晴れ」とした顔が印象的であるという。

しかし、その顔を見て誰も人格を完成した顔だ!とは言わないでしょう。それでは余りにも人間的になってしまうからです。

 
・その後の女史の言動は「独生女」いっぺんとうといっても過言ではないでしょう。

S氏はファミリーのTMの巻頭言を1年間見て来たがTFのみ言葉は見たことがなく、もっぱら独生女論だけだったという。

自分こそが、2000年のキリスト教が待ち望んだイエスの相対者になる独生女だという。これを読んだ人達は、TMは自分こそがイエスの相対者であるという意識の方がTFの相対者であるという意識より強いのではないかという。きっとそうなのでしょう。

そこで、TFを二の次にして独生女を唱える姿は人格を完成した姿でしょうか?シックですらそのようには思わないでしょう。

まして、自分の実の息子と和解もしないで法廷で争うとしたら、その姿の中に人格を完成した姿を見ることが出来るのでしょうか?


・モーセがシナイ山で神は「私はありてある者だ(I am that I am.)」と答える場面があります。

原語では、「私は在りて在ろうとする者(I am that I will become.)」という意味もあるという。

神はすでに存在していますが、神の創造理想は未だ実現していないのです。その意味では、神も未完なのです。神ですら未完ならTFやTMが未完であったとしてもそれは問題ではないのです。

それよりも、神のみ旨をなそうとして邁進している姿が大切なのです。だから、「私もメシアになろうとしているし、あなた方もメシアに成らなければならない」というみ言葉が出てくるのです。

したがって、お二人に躓く必要はさらさら無く、かえって、み旨をなそうとする志を受け継いで前進する方がはるかに生産的なのです。




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結局師観さんにとり原罪が何なのか理解できませんでした。

読んでみて同じ宗教的価値観を共有する原罪ある人同志の結婚と原罪清算した人の結婚との違いが全くわかりませんでした。

師観さんは原罪清算はクリスチャンの洗礼と同じく一つのセレモニーと捉えられてるんでしょうか?

質問しても答えがないだろう虚しさを感じながらコメントしてみました。いつも通り他人批判のご自分自身の自慢ブログでしたね。



原罪、人格完成も絵空事

人間のモラルは民族でも違うし、それぞれの思考も違うので、人間としてどう生きるかも人それぞれです。

原罪なんてどうでもよく、衣食住を安定させて行くことのほうが重要。
原罪を持ち出し、人間をこけ降ろしたのがカルト統一教会であり、重要な衣食住を蔑ろにさせて、人間の自立を奪ったのが、カルト統一教会であります。

カルト文鮮明教祖は、今霊界があるなら地獄でしょう。

極悪カルトは滅んでほしい。

No title

「原罪」という概念はとても大きく、「原罪を清算する」為にはメシヤによって祝福を受けなければならないし、祝福を受けていない自分は救われないとずっと思っていました。

今は、自分の中のエゴや利己心を意識して葛藤する事は多いですが、「原罪」という概念に囚われず、自分の過去世で犯した罪や遺伝罪などがカルマとなって、自分に表れているのかなと思っています。

「堕落性」は「エゴ、利己心」の事で、「原罪」はエゴや利己心によって犯した罪が長い歴史の中で積もって今の自分が背負っている「カルマや因縁」の事なのかな?と、勝手に言葉を変換して考えるようになりました。

だから「原罪の清算」とは「カルマの清算」なのかなと思っています。そしてたとえ「カルマの清算」が成されたとしても、日々の生活の中ではいつも「エゴや利己心」との戦いはあると思います。

自分の中にあるエゴや利己心を克服した人が人格者となるのでしょう...。(私の場合一生無理だと思っていますが)

個人としてのカルマの清算は自分の努力で清算できるかも知れませんが、人類全体の罪悪歴史の清算はあまりにも大き過ぎて、救世主でなければできない事なので神様はメシヤを使わされたのだと思います。

間違ってるかも知れないし、勝手な思い込みかも知れません。生意気なコメントばかり書いてしまってすみません...。

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