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日本統一教会初期のころの話




知人から送られて来たメ-ルですが一読に値します。


ニ、 日本に統一教会が入る。

   韓国人による布教
     

 日本に統一教会が入ってきたのは、一九五八年、(昭和三十三年)である。単身、日本に伝道にやってきた、韓国名、崔翔翊、日本名西川勝によってもたらされた。

 西川は、既に統一教会を脱退しているが、彼は高橋数生とのインタビューの中でこう答えている。(『「カルトの正体」(宝島社文庫)』

「私が日本に来たのは、一九五八年(昭和三十三年)六月十六日。見送るどころか文鮮明氏たちとは太田で別れて、私ひとりが釜山に行って海を渡る手配をしたんです。船は貿易船でしたが、漁船のような形でベッドも何もなかった。そこには私は船員のような扱いで乗せてもらったのです。」

「小倉港では上陸できずに、岩国を出てから広島の呉まで来た。六月二十一日に海上保安部に密入国で逮捕され、広島の吉浦刑務所から山口刑務所に送検された。山口刑務所から今度は強制送還のために大村収容所に送られました。

 下関の収容所に行くとき、私は断食をしていたんです。長期間の断食で身体が弱っていたものだから、着くと収容所の人が私を病院に連れていってくれた。

そこで心臓弁膜症、結核であるとの診断が下り、下関の結核療養所に送られることになった。そして私は、その療養所から逃げた。汽車を乗り継いで、ほとんど寝ずに。気の休まるときはなかった・・・。」

「野宿したり、日本じゅうを転々とした。食べ物がなくて、何ヶ月もひもじい思いをしたけれども、それよりもっとつらかったのは、夜、寝るところがないということでした。」

「西川の熱心な伝道によって、一九五九年(昭和三十四年)十月に初めて入会者が生まれる。この年を日本統一教会は設立の年としている。その年、4人で初の礼拝集会を開いた。」


立正佼成会からの入信

 日本統一教会の会長および、統一教会の外郭団体である国際勝共連合会長を長らくやってきた久保木修己(平成十年、六十七歳で死去)は、もともと立正佼成会の教祖、庭野日敬氏の秘書室長だった。統一協会に入会したのは、同じく立正佼成会の青年部長であった小宮山嘉一から誘われたことがきっかけだった。

 久保木は『敬天 愛国 愛人 母性国家、日本のゆくえー』の中で次のように回顧している。

私が創価学会対策と共産党対策に苦しんでいる時、私を助けてくれた一人の友人がいます。(小宮山のこと)彼は私が会長秘書になる前、青年部の部長であったころ、同じ青年部の仲間で、私も彼とよく人生観や世界観、あるいは哲学等を議論しました。

法華経の教学にもかなり造詣が深く、私自身も彼からずいぶん学んだことが多かったです。その彼が、佼成会から忽然と姿を消してしまいました。


久保木は、新宿で「『統一原理による理想世界の実現』と書いた旗を竹竿にくくりつけ、それを背中にさして、汗だくになって叫んでいる」小宮山に会う。

小宮山は「東西のありとあらゆる哲学を乗り越えてあまりある素晴らしい真理をようやく発見したんだよ」と久保木に熱く語り、久保木は、統一教会を訪れることにする。

 久保木が統一教会に行ってみると、そこは、「今にも崩れ落ちそうな、あばら家のニ階」にある「六畳一間の狭い空間」で、会員と称する五、六人がたむろしていた。

しかし、説教が始まると、説教者はまるで数千人の聴衆を相手に大演説をぶっているような感じで、説教を始め、声の大きさと確信に満ちた堂々たる語り口調に圧倒されつつも、だんだん話に引き込まれていって、心の中で『そうだ!そうだ!』と頷いている自分を発見して驚いた。

 また、普段パンの耳をかじって食事にし、リヤカーを引き、廃品回収をしながら、伝道活動に励んでいる統一教会会員の生活に、大教団となった立正佼成会とのギャップを感じ胸が熱くなるのを禁じ得なくなる。



立正佼成会の幹部が統一教会へ

 西川は久保木に対し、「庭野会長に会わせてくれ」と言ったという。久保木は「とんでもない」と思いつつ、西川先生の熱心な申し出を断るわけにもいかず、私はおそるおそる庭野会長にその旨を申し上げました。

会長はしばらく間をおいて、じっと考えたすえ、『会ってもいいよ』と答えられました。

 庭野日敬に会った西川は「会長先生の率いられる佼成会の中で将来性のある若者を四十日間、私に預けて下さい。私のところで修行を積ませ、四十日後に立派な青年にして、会長先生の所にお返しいたします。」と提案する。久保木は驚くが、さらに驚かせたのは庭野の返事だったという。

会長は、しばらく考えていました。西川先生も私も固唾をのんで、会長の返事を待っています。『それは面白い話だ。では、早速人選をして、あなたの希望通り、あなたに預けますから、よろしく』と庭野は答えるたという。

 久保木はこの時のことを「この一瞬は今から考えてみて、歴史的な瞬間でした。日本における統一教会の基礎が、この時点で形成されることになったと言っても決して言い過ぎ過ではありません。」と記している。

 「会長の命令で、全国の優秀な青年を集めて、四十日間の修練が始まりました。当時統一教会はまだ七、八名を数える弱小教会でしたので、お金も会場もありません。これらのすべてを佼成会が提供してくれました。第一回の修練会には、約四十名から五十名参加しました。彼らが、四十日の修練会を終えると、燃えに燃えて全国の佼成会の支部に戻って行ったのです。」と久保木は誇らし気に記す。

しかし修練会が積み重なるにつれて立正佼成会には深刻な問題が持ち上ったという。

青年たちが四十日間の修練会を終えて、それぞれの支部に帰っていきます。すると彼らは統一原理の教えの影響で、全国の支部長とぶつかってしまうという現象があちこちでおこってしまったのです。・・・

修練会を終えた青年たちは、日本のこと世界のことを語り出します。彼らの中には、『自分たちが日本を救うのだ。佼成会のような偶像崇拝は必要ない』と言い出す者も出てきたりしたのです。彼らは佼成会の理念では駄目だと、何かにつけ支部長に楯突くようになりました。

当時、庭野会長は新宗教連合会の理事を兼ねていました。佼成会内部の統一教会をめぐる騒動はほかの教団にも知れるところとなり、庭野会長に忠告や警告が相次ぎました。

文部省の宗教法人課からも、忠告の指令が出されたのです。日本の宗教界が大混乱するから、この辺で青年を統一教会に送るのをやめるようにというものでした。

 ここに至って、庭野会長自身が四面楚歌の状態になりました。佼成会の幹部から突き上げられ、ほかの教団からも警告され、文部省からも指令が出る始末です。会長は私を呼び出して、『この辺で、修練生を送るのはやめよう』と言ってきました。

「統一原理によって佼成会を再建しよう」と燃えている久保木は、庭野の言葉に激しく反対するが、結局久保木は立正佼成会を去り、大勢の立正佼成会幹部とともに、統一教会に入信することになる。「結果的には、立正佼成会から大量に飛び出した精鋭エリートたちは、統一協会の原動力になっていく」のである。



日本人の善意を利用する統一教会

立正佼成会会長・庭野日敬には善意の日本人を見るように思う。

 よく言われることだが、日本人はイエス・キリストの誕生日であるクリスマスを家族で祝い、一月は神社に初詣でに行き、お盆やお彼岸にはお寺に行き墓参りをする。

 欧米のような宗派の違いで血で血を争う戦いをする宗教戦争はほとんどなく、色々な宗教に関して寛容であるといって良かろう。

 新宗教にしてみても、『万教同根』『万教帰一』という具合に、「すべての宗教に真理が含まれている」というふうに説かれることが多い。

しかし、そのような日本的な良さは、「しかるに神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人のお方を遣わし給うたのである、そのお方こそ、すなわち、文鮮明先生である。(原理講論)』といった、「文鮮明氏によってすべての宗教を統一していく」といった教えを持つ、統一教会のような教えを持つ破壊的カルトにとっては極めて都合が良いように思う。

 統一教会の会員は、この後も、「自分は統一教会である」ということは決して言わないまま、キリスト教や各宗教団体に入り込む。また、政治家の秘書として政党に入り込んだりしていくのである。

 西川は庭野に対しては次のように回顧している。

「庭野日敬先生は、青年部長の小宮山に対して大きな期待を持っていたと聞きます・・・庭野先生は本当にいい人だった。日本の宗教界で誰が一番立派な人かと聞かれれば、庭野日敬先生だと答えるだろう。私は日敬先生に対してすまなくも思い、ありがたくも思う。」

「でも、庭野先生は自分のところの青年たちが統一教会に行っても、恨みごとひとつ言わず、『真理の道は自分が道だと思う道をみつけなさい』と言っていた。私は彼とは延々とニ時間も話をしたし、大幹部が並ぶ前で私に講議もさせてくれた。」

 庭野にしてみれば、西川に出会い、その信仰姿勢に素直に感動を覚えたのであろうと思う。立正佼成会の幹部を統一教会の修練会に参加させたのも、こうすることが立正佼成会にとっても、統一教会にとっても、お互いのためになり、世の中を良くする一如になるだろう。と思われてのことと思う。

 庭野は、手記を読む限り、それまでは、法華経を中心に学んでいて、仏教以外の教え、例えば、キリスト教ーは、あまり学んでこなかったようである。

新宗教連合会の理事の役職にあり、世界の各宗教界ともつながりを強めていこうとした庭野は、西川との出会いの中で、「統一教会を通してキリスト教を学んでいこう」という思いがあったかもしれない。

 しかし、そういった庭野の善意が、結果的には、佼成会にいた幹部が、統一教会に流れ込み、統一教会を飛躍させて行くことになる。

見方によれば、久保木は、庭野を裏切ったのであり、庭野が統一教会の危険性に気付き、統一教会との関係を切ろうとしたのも、一つの大きな団体の指導者である以上、当然の措置と言って良い。

 久保木を始めとして多くの立正佼成会幹部が統一教会に流れていった後、平成十一年に亡くなられた庭野は、どのような思いでその後の霊感商法を始めとする統一教会の変貌を見つめていたのであろうか? 
 
(ちなみに、初期の日本統一協会を支えた上記三人の中で、久保木修己は一九九八年(平成十年)十二月十三日に、享年六十七歳で死亡。

小宮山嘉一は、行方不明、西川は統一教会を『私が日本を去ってアメリカに行ってから、日本の統一教会はあまりにも変わり果ててしまった』と言い、一九八五年(昭和六十年)に統一教会を脱会している。)




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No title

西川先生は 継続してクリスチャンを伝道するか
 普通の学生を導くべきでした。
 後の流れを見ていても 大多数なる日本食口は 聖書も読みませんし 滋賀では馬鹿にし 拒絶される方もたくさんおられ、イエス様をも馬鹿にする 
イエスを馬鹿にする者はその使わしたものすら馬鹿にする状態でした。
 その後 大山のお父さんがハッピーをやめたあと
 きみこさんによって F社長 を中心とする同和 部落血統圏と元共産主義者によって 統一教会霊感商法混乱時代を迎えました。

No title

庭野日敬に会った西川は「会長先生の率いられる佼成会の中で将来性のある若者を四十日間、私に預けて下さい。私のところで修行を積ませ、四十日後に立派な青年にして、会長先生の所にお返しいたします。」

ここで 西川先生の良心基準が問われる
 庭野先生が用意した メンバーを奪えば 約束不履行となり 関係性が崩れる
 学んだ先輩たちの傲慢さ頭でっかち ゆえに 立証佼成会を混乱させたことを通して
 彼らは 為に生きるという思想から 離れたただの堕落人間となるわけです。
 ハーーーイ西川先生 の良心基準の低さの失敗!!!

大嘘付いて乗っ取り構想

天地正教のようには、行かなかったのが立正佼成会ってことかしらね。
西川氏は、巧妙に仕組んだのでしょうが、庭野氏は見抜いたってことでしょう。


故久保木氏は、教祖が妻以外の女との「最中」を見ても従って来た男です。日本人幹部たちは、日本人らしからぬ人間となってしまっていて、潔さまるでなし!
暴力にすぐ出る朝鮮人、副島事件を見せつけられれば、自分もヤラレルって思って、家畜になるしかないわなぁ~。


家畜化されるって哀しいわね・・・。
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