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神観と救済論の問題




ユダヤ教の神観によると、神は愛と義という二つの属性をもった神なのである。

しかし、ユダヤ教の神は「原理」がいうような親なる神というようではなく、その義たる属性ゆえに人間の善行と悪行を計るはかりを持っている王のようである。

神は愛の神として罪人を含めた全ての人々を愛するのであるが義の神としては罪人を愛することが出来ない。

このような愛と義を和解するためにには犠牲が必要なのである。犠牲を捧げることによって、罪人は神の義を満足させる。

もし神が義だけの神であるのなら神は罪の為に完全な罰を要求することになる。しかし、それでは罰があまりにも重過ぎるので、人間に完全なる罰を要求する代わりに動物を捧げることを許された。

すなわち、罪の代価に対して動物という減少した条件を捧げることによって神の愛は罪人を許し、同時に犠牲を捧げたと言う条件によって神の義をも満足させると言うのである。

したがって、ユダヤ教による罪の贖いとは神に払うものなのである。


注:『真の神様』の第三章・一 旧約時代」には神様は「天使であった」という記述がある。天使が神の代理使命を果たしていたのでしょう。天使は神の僕ですから、神と天使の係り方が旧約時代には神と人間の係り方として人間界に展開されたのでしょう。



このような神の義を満足させるために犠牲を神に払うというユダヤ教の贖いの論理はパウロに受け継がれ、キリスト教の「血の贖い」の神学の基礎をなした。

そして、このユダヤ教的贖いの論理は中世においては、アンセルムスを通して「充足説」として展開され、ラテン型贖罪論を形成した。近世においては、カルバンを通して「犠牲と刑罰の代償説」として展開された。

そしてこのカルバンの贖罪論は今日のプロテスタントの正統派の贖罪論を形成しているのである。

イエスが放蕩息子の物語りを通して説く神観はユダヤ教の神観とはかなり違うようである。

神を離れサンザン放蕩した息子が心から悔いて帰って来た時に、無条件で受け入れ、真面目に父に仕えてきた兄が嫉妬するほどに大歓迎して最高のもてなしをする。

ここにおいて描かれている神は子供が心から悔い改め、詫びると、無条件で許す神なのである。

余談になるが、これは韓国の贖罪観とは随分違う。慰安婦問題で、河野洋平が少しでも詫びると賠償金を請求し、朴クネは1000年の怨みを置くという。

慰安婦問題の尻馬に乗って、UCの教主は16万人の日本の女性信徒に修練会と称して一人につき1万ドル(約100万円)の献金を要求する。

それだけに留まらず、教主の逝去後も日本の教会に、何時果てるとも知れない献金ノルマを課し続ける。教会の名称が変ってもそれは同じである。

原理の贖罪論では、イエスの贖罪論と同じで、親である神は子である人間が心から悔い改めて詫びると罪を許すのである。

しかし、いくら許したくてもサタンが原理を盾にして人間を讒訴すると神もどうすることも出来ないと言う。それゆえ、イエスの十字架の贖罪について神学論争が起きてくる。

すなわち、イエスの十字架の贖罪は神に支払われたのか、それともサタンに支払われたのかという問題である。

サタンが承認して初めて神も承認できると言うのだから、サタンに支払われたことになる。

聖書によれば実を見れば木が分かるという。それゆえ、統一家とその組織がいったいどんな讒訴条件をつくってしまったので今のような状態になってしまったのであろうか?




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