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いくら祝福を受けても人格がクリスチャンよりも優れているとは思えない




ある人から次のような質問を受けました。


UCの祝福において「法廷論的」視点での「原罪」は消失するのだろうかとも思えますが、「堕落生本姓」という「サタンの血統の残渣」ゆえに相対できない神でもあり、現時点で、「原罪問題」はどのように理解するのが正当なのでしょうか?



これに対する師観のコメント:

原罪について私が出した結論は神による創造本然の真の性愛から生まれた子女は無原罪であり、人間的性欲から生まれた子女は有原罪で生まれるということです。これは祝福を受けても同じです。

祝福の儀式は人間的性欲から神による創造本然の真の性愛に転換するための儀式であって、それが出来なければ条件的祝福になると思います。

そこで、問題になるのは実体が伴わない条件的祝福に一体何の価値があるのか?ということなのです。そこで、「法廷論的」解釈が出てくるのです。

いくら祝福を受けても人格がクリスチャンよりも優れているとは思えない。霊感商法や身体障害者の真似をして物品販売をする人格や貴方は統一教会か、と聞いたら違うと答えたが良く見ると祝福の指輪をはめていて、へいちゃらで嘘をいう人格とはいかがなものか?などと、牧師から問い詰められたそうだ。

その頃、神学者のハ-バ-ドリチャ-ドソンから 原理の救済観がプロテスタントの契約神学に通じる救済観であるという解説が出てきたので、それに跳びついたようです。

分かりやすく説明すると、どんなに優れた人格を持っていても、法的に北朝鮮人でしたら、その主権の下ではあらゆる自由が束縛され、食べていくのもままならないような地獄でしょう。

しかし、法的に主権国家が変り、アメリカ人やイギリス人になれば、人格に関係なく自由を謳歌し、経済的にも人並みの暮らしが出来るでしょうから天国なのです。

祝福という法的手続によってサタンの所有から神の所有に移行すれば、そこは救いの世界だと言うのです。

但し、この救済観の弱点は祝福という法的手続さえすれば、天国にいけるのだから人格完成などする必要はないという問題が出てくるところです。

堕落性はサタンから由来した性質ですからそれを脱がない限り、サタンが相対し、実質的にはサタンの所有になっているのと同じ状態になるのです。

だから、儀式は怖いのです。何故なら、儀式を受けただけでは堕落性が脱げた訳でもないのに、脱げたような錯覚に陥るのです。

献金もそうです。多額の献金をしたら、堕落性が脱げ、人格完成でもしたような錯覚に陥るのです。

特に経済摂理が中心になると、サタンの性質である堕落性を脱いで人格完成を説くことがおろそかになり、献金ノルマを達成した人が心情も人格もある人という評価に変って行くのです。

このような人達の問題点は家庭を犠牲にしてまでも献金してしまうものですから、子女教育が疎かになり、子女は反発し親と逆の道を行くようになるのです。

ノルマ達成の為に東奔西走し、親の帰りが遅くなり、子供たちが登校拒否になっていく家庭は決して少なくはないのです。




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少し心配です

両親の愛の動機によって「原罪」の有無を判断されたとしたら、ひとつの家庭の中で動機が同じとはいえない兄弟が生まれた場合、子供はどのように考えたら良いのでしょうか?

「原罪」は心情の問題だと思います。曖昧な概念を現実の家庭に当てはめる事は、問題を作ってしまうような気がします...。



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師観

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