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発想の転換(今のUCの生き詰まり状態を乗り越えるためには)





師観のブログを読んで、統一教会の行き詰まりについて相談に来る人が多い。

どこで行き詰っているかというと、統一家の家庭の実態と教会が三分裂して戦っていることである。

今まで原理とそれを説いた教祖(メシア)が絶対と思い、信じてすべてを捧げて邁進して来たが真の子女様がたの非原理的な行為(麻薬、浮気、不倫、自殺、暴力、自殺問題など)や教会の分裂がこの道の結論となってしまうと行き詰まり、今後の展望が見えてこないというのである。

ごもっともな悩みであり、シック全員が直面している問題であろう。

そこで解決策の一つとして、発想を転換してみた。

私どもが原理を聞いた初期の時代は歴史の同時性から見て、メシアは1920年には再臨しているに違いない止まりであった。それでも原理が素晴らしいので献身者が続出した。

私などは大学時代にカトリックのクリスチャンだったが自治会に入り、マルキストたちと日夜論戦していた。

カトリシズムの欠陥はマルクスの史的唯物論のような体系だった歴史観や経済理論や国家観がないことだった。

せいぜい個人の魂の救い止まりである。そんな時に、マルキストから原理に転向した私の霊の親が自治会に乗り込んで来て、自治会の左翼モサたちと互角以上に論戦していた。その迫力に魅了されて原理を聞くことになり、献身したのである。

当時の歌い文句は唯心論と唯物論を統一できる原理だというので、左翼から原理に転向する学生が沢山入ってきた。

以上から分かるように、実態のメシアが明かされなくても原理の思想性とビジョンに共鳴して入信する人たちが結構いるということである。

キリスト教はその典型的な例であろう。教祖であるイエスの実体はすでになくなっているにも拘わらず、キリスト教の伝道が進み、やがてはロ-マの国教になってしまうのである。

仏教もイスラム教も教祖が死んでも拡大し続け、今日に至っている。

すると、真の父母や家庭の理想としてのビジョンがあれば実態が必ずしもなくてもよいことになる。現実的には今の実態ではかえって障害になりかねないということになる。そこで、この問題に対する意義づけが必要になってくる。

神は旧約時代には万物を供え物として摂理を進め、新約時代には子女(イエス)を供え物にし、成約時代には真の父母とその家庭を供え物として摂理を進められた。

その結果、供え物になった真の家庭は今のような状態になったのである。

イエスは十字架につけられ、息を引き取る時に、すべてが終わったと言ったが、文師は完成、完結、完了を宣言した後に逝去された。

そのおかげで、我々信徒は地上天国実現に向かって邁進できるのである。

文教主は筆舌に耐えがたいいばらの道、例えば六マリアなどのスキャンダルに曝される蕩減の道を歩まねばならなかったが、我々は純潔を守って神の家庭を築き、氏族メシア活動に従事出来るのである。

イエスは家庭を持たず、釈尊は出家して理想の家庭の見本を築いた訳ではないが、信徒たちは教祖の教えに基づいて家庭、社会、国家を築き、世界的文化圏を形成するに至っている。

同様に、我々も教祖の家庭がどうあれ、説かれた原理に基づいて本然の家庭を築けることが出来るのである。

ところで、世の人々は祝福家庭の連合体である現在の家庭連合から創造本然の神の社会や国を見ることが出来るであろうか?

答えは、否である。韓国の赤字事業体や箱モノの維持のために、いつ果てるとも分からない献金奴隷にされ続けて呻吟している信徒はいい加減に解放されねばならない。

そのためには、日本の家庭連合の韓国からの独立が急務でしょう。

それと同時に内村鑑三ではありませんが無教会派が必要です。それは氏族メシア教会の先駆者的存在です。


『文鮮明先生マルスム選集』  (589-149、2008.5.14) によれは、

統一教会を解体しなければなりません。私が、自分が解体してしまわなければなりません。

何故なら、解体してしまってこのまま生きていけば、この程度で滅亡しないで残ります。そこから芽が生えれば、一代、二代、三代、何十年腐らないで、この伝統がずっと増えていきながら、そこから新しい芽が出て、・・・

教会が目指すべき目的は、神様の国を求めて建てることです。神様の本来の創造理想は、国を中心として一つの世界をつくることです。

そういう創造理想であるがゆえに、教会が目指すべき目的地は、教会を建てることではなく、神様の国を建てることなのです。

今後、教会時代は過ぎ去っていきます。人類が願うのは、教会ではありません。

教会は堕落圏内で、復帰の運命の道を行く際に必要なのであって、新たな時を迎えれば、教会時代は終わるのです。

それゆえ統一教会は、教会活動をするのではありません。教会の名で社会に適応し、社会を改革し、社会の廓清(浄化)運動をするのです。

そうすることが、その国と民族、そして世界に住む人類には果たすことのできない、開拓者の使命を成し遂げることになるのです。今こそ皆さんは、この道を行かなければなりません。

教会が一つから二つに分かれ、そのようにして三回分かれると、神様は去っていきます。天理の原則はそうなっています。そうして家庭的に集まります。

恵みのある人は家庭的に集まるのです。教会には行きません。家庭でひれ伏して祈祷します。そのようになるかならないか、見ていてください。

文鮮明師のみ言葉引用終わり


以上は、み言葉ですが、我々が氏族メシアによるホームチャーチhを形成するにあたり、内村鑑三の無教会活動は大変参考になると思いますので、ここに紹介しておきます。

内村は海外にから来る宣教師がカトリック・プロテスタント・その他の教派の争いを日本に持ち込まれることを反対したのです。

我々もTM派、H1派、H2派、などの宗教論争に巻き込まれない無教会活動が必要なのです。



内村鑑三(うちむらかんぞう)の主張したキリスト教のあり方。

内村は、札幌農学校在学中から、宣教師による教派主義の弊害を知り、札幌に独立の教会を設立した。その後、フレンド派のキリスト教の影響、強い独立精神、ナショナリズム、教会との関係などから、積極的に無教会主義を表明することになる。

「無教会」ということばは、1893年(明治26)に刊行された『基督(キリスト)信徒の慰(なぐさめ)』の「第3章 基督教会に捨てられし時」にみいだされ、1901年(明治34)には雑誌『無教会』を創刊して、そこで「無教会」を「教会の無い者の教会」(第1号)と述べている。

また同誌の第3号において「無教会主義」の語も初めて用いられている。内村によれば、教会の建物はもちろん、教師の資格も洗礼や聖餐(せいさん)などの儀礼も、キリスト教に不可欠のものでない。

しかし、教会やその儀式・制度をすべて否定するのではなく、のちには「無教会は進んで有教会となるべきである」とも記している。

内村は、聖書講義と伝道誌の発行を中心として、その無教会主義のキリスト教を存続させたが、その没後も、無教会主義をめぐる神学的解釈には若干相違があったとしても、ほぼ同じような方法で多くの集会が日本各地で続けられている。[鈴木範久]



日本にいる韓国人牧会者は韓国に帰っていただき、日本教会は韓国教会から独立して、神の本来の目的である氏族メシア活動に邁進すべきではないかと思われた方はクリックお願いします。
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