キリスト教の超越性と仏教の内在性とUCの現実

butsuzou



この写真の仏像は私が1961年に父が所有する山に行きホウの木を探し当て切り倒して、般若心経を唱えながら彫った作品です。それは’60年安保の翌年で、私が大学1年の時でした。

自治会に入ったがよいが、周りは全員全学連で革マルや民青ばかりでした。私だけがクリスチャンで唯物論者を相手に毎日論争です。その時に、イスラエルのキブツとヤマギシズムに出会ったのです。

両者とも「能力に応じて働き、必要に応じて分配する」という社会を形成していたのです。

私の主張はとても単純で、イエスが説くように、自分を愛するように隣人を愛すれば、自動的に共産社会が出来るという主張でした。

事実、初代のクリスチャンは使徒行伝に書かれているような小規模ではあるが、共産社会を形成していたのです。

残念ながら、日本においては、そのようなクリスチャンの社会は何処にも出来てはいなかったのですが、ヤマギシズムがすでに般若心経の境地で仏教的共産社会を形成していたので、私もメンバ-になり共産生活を実践していたのです。

したがって、革マルや民青が束になってかかって来ても微動もしないのです。そ れは、口先だけの理論だけを語る者と実践している者との差なのです。

私は彼らに共産主義を唱えるのなら、全ての所有権を公的にして自分たちで共産生活を実践して見せろと迫るのです。すると、彼らは口ごもり言い訳だけするのです。

ヤマギシズムの所有の意味は所に有るという意味で、誰かの所有という意味はないのです。したがって、無所有、無固定、一体の理の実践生活になります。禅の考案のような問いが出され、「汝の正体は何か」というのです。

実例を挙げれば、私は75歳ですが、75年前は存在していたかということになるのです。形を変えて存在している訳で、すなわち、父の精子と母の卵子という形で存在していた訳です。

したがって、もし父が別な女性と結婚していたのなら、私という個性真理体は存在していないことになります、同じように、祖父母が別な人と結婚していたり、どちらかが存在していなかったなら、今の自分は無いことになります。

そのように先祖を一つ一つたどって行くと、人間の元祖まで行き、さらに、それを生み出した生命の元祖に遡り、全ての存在の源の神まで行き、その中にすでに潜在していたことになります。

そうなりますと、自分とは生命の流れそのものに還元されることになります。すなわち、小我を越えて大我に目覚め、自分とは有形・無形存在を含めた大宇宙の生命そのものになるのです。

これが無の正体であり、生命の流れとして絶えず変化してしますから、固定した自分は存在しないのです。だから、無固定の連続体ですから無形有形を含めて一体ということになるのです。

悟りを開いた山岸氏もその境地に達した仲間たちも、上下の関係は無く、皆、能力に応じて働き、必要に応じて分配する生活を営むのです。

それゆえ、ここでは金持ちも貧乏人もいないのです。全く平等の万人一家族の理想世界を営んでいるのです。

しかるのに、旧統一教会、家庭連合はどうでしょうか?教祖は宮殿に住み、韓国幹部はその恩恵に与かり、日本の信徒は借金してでも献金を要求され、自己破産させられ、自殺者までも産出する有様です。これが神が願った地上天国でしょうか?誰が見ても神から遠い世界です。

家庭連合がアフリカに拡大して行くことは大変喜ばしいことではあるのですが、その内容が問題になってくるのです。

共生共栄共義の万民一家族の世界の代わりに韓国至上主義の絶対君主制の文(韓)王朝が出来上がるとすれば、前近代国家に逆戻りし、民主主義を形成して来た先進諸国から相手にされないことになるでしょう。

・「 般若心経」と言えば、色即是空・空即是色があたかもその代名詞のようになっています。これを、分かりやすくするために、
有即無・無即有に置き換えると、私共にもっとなじみのある言葉になるかと思います。

無形存在である神から有形存在である大宇宙(被造世界)を創造し、星星はやがて寿命を迎えて大爆発を引き起こし、宇宙の塵となり、あるいは無形のエネルギ-や万有原力に還元されて行くのです。

このように、無から有が生じ、有は無に帰り、循環するのです。ここから、仏教の輪廻転生の循環の人生観、世界観が生まれてくるのでしょう。

・日本の仏教文化の中での先人達の目指した境地は、「無」であり、それは無常無我の無であり、無私無心の無であり、即天去私の無です。

孔子は儒教の元祖ですが、「欲する所に従がえども矩(法)を超えず」は世俗的欲望からの自由になった無といえるでしょう。

昨年の12月にアウンサン・ス-チー氏と一緒に民主化運動に参加して6年間も投獄された医師であり作家であるマ・テイ-グ女史が上智大学に招かれて講演をしました。

彼女は、独房の中で座禅を組み、修行をする中で釈尊が到達した心の自由すなわち”無”を体得したという。

そして、小生もまた任地で投獄されたが心は自由であった。それは無我になると神が相対してくれるからです。
 
・キリスト教は超越性の原理に基づき、仏教は同一性の原理に立脚しています。超越性の原理においては、真の存在とは我々にとって超越的なもの、すなわち神です。

それゆえ、神を絶対主体として我々人間が対象としてこれに正しく係ること、すいなわち信仰のあり方が大切になってきます。

これに対して、同一性の原理では、真の存在と我々は本質的に同一的なものなのです。それゆえ、この同一性を自覚してその一つの存在(真我)に成りきることが最も大切なことになります。

したがって、私は神学的立場からキリスト教の神のあり方を超越性と理解し、仏教の同一性の原理を神の内在性として理解するのです。すなわち、神はいかなる時空をも超越するので、いかなる時間と空間にも入り込み内在できるのです。

それゆえ、超越性と内在性(同一性)は、神という一つの存在の両側面の相対的関係をを言っているに過ぎないのです。

聖句を用いて説明すると、「私が父の内におり(内在的超越すなわち同一性)、父が私の内におられることを(超越的内在)を信じないのか」(ヨハネ40/10)ということになるのです。すなわち、仏教は「原理」の観点からいえば、個性完成をした人間を先取り論じているとも言えるでしょう。


注1:

元来仏教は無神論であり、神も霊魂も存在しません。というよりか、確実に存在するかどうか分からないものを論じることに時間を費やすよりも、確実なものに時間を費やすことを説いたのです。

したがって、キリスト教の神や大乗仏教の阿弥陀仏を立てることによって自己の主体を確立するという相対的主体ではなく、無始無終、自存の絶対主体の自己の確立を説くのです。

それゆえ、麻原彰晃を絶対化して盲従したり、大川隆法の金の像を造らせて拝ませるようなことはしないし、文鮮明夫妻の写真の前で敬礼したりはしないのです。釈尊は崇拝の主体ではないので、仏像も造る必要もないのです。

ヤマギシズムの創始者である山岸氏は意図的に一枚も写真を残してはいかなかったのです。それは、崇拝の対象にならないようにするためです。

親鸞も自分は「非僧非俗」であることを弟子たちに申しつけ、死んだら死体は魚の餌にしてくれることを遺言していったという。


注2:

文教主のみ言葉によると:

「神様と人間が真の愛で一つになり、人間が真の愛で為に生きれば、宗教も祈祷も必要ない。・・・こうした状態は堕落前の状態と同じで、宗教も宗主も救世主も要らない。・・・良心を絶対視して生きれば天国へ行く。宗教も祈祷も必要なく、完全解放である。蕩減は良心の全てを共有して解放する為である。・・・家庭理想生活を送れば、堕落前のエデンの園の創造理想が実現することによって宗教はなくなる、宗教撤廃である。」
(み言葉選集265巻P117より)

「祈祷よりも奉仕することを神様は願われる。・・・良心と私に命令しなければならないので、祈祷が必要ない」
(み言葉選集474巻P180-1)

「神の家庭になれば教会が必要ない。これからは皆さんに会わなくてもよい。卒業証書も与えたし、伝統が分かる訓読会もしたし、み言葉集もある。祝福中心家庭は祝福に対する責任を自ら負わなければならない。だから神様も先生も必要ない。全て教えてやった。」
(み言葉選集370巻P305)


「神様も先生も必要ない」という意味は訓読会のみ言葉集があれば十分であるという。とすれば、キリスト教の神や大乗仏教の阿弥陀仏を立てることによって自己の主体を確立するという相対的主体ではなく、無始無終、自存の絶対主体の自己の確立を説く原始仏教に酷似してくる。

・余談になるが、2016/12/30、430双祝福家庭以上の元老婦人を招集し、韓鶴子女史の「原罪を持って生まれたお父様は、原罪なく地上に生まれた独生女に会って原罪を清算した。したがって、お父様は私に会う前に、他の女性との結婚をしてはいけなかった」の発言は大変な物議を引き起こしています。

その理由は、第一にメシアが女性になってしまい、その女性によって原罪を脱いだ文師は格下げになってしまった。女メシアの登場である。

そのようなメシア観をセネガルの国家的指導者達が受け入れて韓女史を歓迎したとしたら、主客転倒したメシア観の家庭連合が出来てしまう。

もっとも、この国は90%以上がイスラム教徒だという。イスラム教にはメシアという思想・概念は無い。有るのは預言者という思想だけです。

したがって、イエスも一人の預言者として理解されている。韓国は賄賂の国だから、セネガルの国家的指導者達にも同様にお金を上げて人集めしたのでしょうという報告もあります。なので、真相究明が必要でしょう。

第二は文師は1920年に生まれ、25歳までには原理が解明されたので、1945年に公生涯を出発した。再臨は真の父母の立場だから、その時までには第一のお母様と聖婚されていることになる。

この時、韓女史は2歳ぐらいである。いくら公生涯といえども、2歳児の幼児とは結婚できるものではない。しかし、第一次7年路程は失敗したので、第二次7年路程を遅くても1953年には出発しなければならないので、第二のお母様を迎えていなければならないことになる。

しかし、これも失敗し、結局第三次7年路程を出発するために、1960年に40歳の文師は17歳の韓女史を娶らざるを得なくなったのである。

したがって、自分(第三の夫人)が17歳になるまで、アボジが結婚してはいけなかったとなると、公生涯を40歳から自分の娘みたいな年齢の女の子と始めなければならないことになる。これこそクワバラ、クワバラ・・・でお笑いか悲劇になる。

成熟した人格の持ち主なら、”第一の夫人や第二の夫人が失敗しなければ、文師は自分のような娘のような者を娶らずに済んだのに!”と文師に対して深い同情を示すのが道理であろうと人々は言う。私も同感です。

したがって、組織を維持するためにはお母様はお父様と一体だとは言うが本音でそのように思っていない幹部や信徒は沢山います。

メシア家庭が三分裂し、韓国の反日が固定され、韓国の家庭連合のTMも含めて幹部から平信徒に至るまで、北朝鮮寄りの文大統領を支持する限り、神の願いから遠いものとなって行きます。

すると、摂理が肉のイスラエルから霊的イスラエルのクリスチャン国家へと移っていったように、摂理の中心はもはや韓国ではなく今日の霊的イスラエルへと移って行くでしょう。日本もその国の可能性を大いに持った国でしょう。




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人格完成の虚像と実像(いつからこのようになってしまったのか)



み言葉によれば:

「我々は、真の父母および、その父母から生まれられた真の子女と一体化することによって、再び生まれるための条件を立てていくわけであります。…カインの立場にあるものは、アベルであるところの真の父母、真の罪なき子女と一体化しなければならないのであります。

彼らと一体化することにより、我々は復帰された子女として、同じ恵みを受けることができるのであります」
(御旨と世界 p140)だという。

ところが、桜井夫人によれば、「教会内で、少しでも子女様を擁護したり、一つになるべきだ、などと発言した時点で”分派”とされてしまうでしょう」という。

さらに、K氏の証しによれば:

現場の信徒達が返済の苦労をしながら、あるいは、生活苦で信仰をすてた者達。先輩方はそういう信徒達の生活苦を聞いてはいるだろうが、自分のことではないので、その実体を知らない。

牧会者達は、絶対信仰を振りかざして、本当の意味での信仰牧会をせず、まわりがなんとかするだろう・・・将来救われるだろう・・・と、しながら、何もしていないのではないでしょうか? ・・・という。



この二人の陳述を見ただけでも、UCとそれを構成している人たちの人格(特に幹部達の人格)は完成から程遠く見えます。

原理では、過去のいかなる義人、聖人も長成期完成級までしか行けず、人格完成をするためには、長成期完成級で祝福を受けて、原罪を脱いで、メシアと共に完成期を歩まなければならないといいます。

そして、我々も含めて、彼らはメシアより祝福を受けてメシアが逝去するまで歩んで来た人々です。

たとえ、子女様方がどんな状態になろうとも、人格者たる者は子女様を擁護したり、一つになるべきだと発言すべきものです。それはご父母様に反逆する意味で、子女様を擁護したり、一つになるべきだと言っているのではないのです。

また、子女様が見かけは反逆しているかのように見えても、心情的には反逆している訳ではないのです。むしろ、誰よりも父母様を愛していることでしょう。

人格者とは立場が違っても、敵に塩を送ったり、駆逐艦”雷”の工藤艦長のように、困っている時には敵兵を救ったりするものです。

然るに、教会は意見が違うだけで、相手の人格や心情を無視して、すぐ”分派”のレッテルを張ろうとします。これをやると、原理の人格完成は虚像になってしまいます。なぜなら、言っていることとやっていることとが余りにも違うからです。

K氏の証を見れば、人間の価値を人格完成におかず、献金額においているように見えます。これは、献金を沢山する人は、信仰のある人、人格のある人という信仰観、価値観を想起させます。

もう一つ加えれば、週間ブリーフィングでも再三報告されている、祝福活動(430組氏族メシア祝福活動)も、人格完成という側面は、なおざりにされ、何組が儀式に参加したか?という事に重きが置かれて、数の理論になっていると思います。

数を集めて儀式をする事が、あたかも氏族メシアの使命であるかのような扱いです。

これでは、結果として、統一教会のアイデンティティは、人格完成は虚像で、献金や数を集めて儀式をする事が実像になってしまい、信徒達を”分派”扱いするところは既存のそこらの宗教と何も変わらないということになってしまうでしょう。

そして、世の人々はこれが、統一教会の正体だと思うことでしょう。

クワバラ、クワバラ・・・



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韓国は本当に選民国家か?(本当の選民の資質とは)



韓国に長く住んだ方が、次のようなコメントを書かれました:


韓国に三年以上住んで、多くの韓国人と深く付き合ってみてください。なぜ選民なのかに気付くでしょう。


これに対する私のコメント:

・このように、思えることは大切なことであり、この方においては、それが宝だである、と言って過言ではないでしょう。

韓国人においても、自分で自分のことを選民と言うよりは、日本人にそのように思ってもらえることは、ありがたいことでしょうから、我々も、それを批判したり、冷ややかな目で見る必要もありません。むしろ、異なった実存を尊重することが大切です。

但し、皆がそのように思えるかと言うと、答えは違うようです。桜田淳子や山崎浩子などが受けた三万双の祝福の時、アボジが韓国の教会長に、祝福の数のノルマを掛けるものですから、地方の教会長はありとあらゆる知恵を絞ってノルマを達成する為に、あの手、この手を考え出すのです。

統一教会に入ったら、日本から大学出の持参金付きの女性を嫁にもらえるぞ!と言うのです。

祝福の条件として、数日間の原理修錬会に出ることが条件でしょうが、動機が原理を聞きたくて参加しているのではなく、嫁欲しさに聞いていますので、中には世俗的な価値観を転換してくれる人もいるでしょうが、残念ながら、その多くは嫁さえ手に入れたら、教会とは疎遠になって行くのです。

特に、日本女性に取っては、相手が酒を飲み、タバコを吸い、働かないで不倫をも辞さないとなると、それは地獄です。

事実、そのような夫を殺してしまった事件すら起きている始末です。被害を受けている日本女性から見ると、選民ではなく、賤民に見えるのです。

そのような夫も持ってしまい、子供を連れて、騙されたという恨みを抱いて、日本に帰って来る女性は少なくありません。実は、私の妻の霊の子女はそのような苦い経験をした一人です。

それは人間を手段として扱ったから、このような悲劇が起きるのです。これについては、哲学者のカントから学ぶものがあります。

彼によれば、「人間は人間自身が目的であって手段ではない」というのです。いかなる組織も、いや、国家ですらも人間を手段に出来ないというのです。

それでは、神なら人間を手段にしてもいいのであろうか。み言によれば、神すらも人間のために生きていますから、人間は神が愛する対象、即ち目的であって手段ではないというのです。

それでは、神の摂理のためなら、人間を手段にしていいのでしょうか?

すなわち、摂理のためなら人間を犠牲にしてもいいのでしょうかという問題です。一見いいように見えるのですが、摂理は人間の救援摂理というのですから、人間を手段にすることではなく、救済することが目的です。

然るに、祝福の数のノルマ達成が自己目的化してしまい、ノルマだけを達成してしまえば、アボジに責められずに済むとか、褒められることが目的になってしまい、祝福後の日本人女性の幸せなど考えなくなってしまうのです。これは、人権を無視した天法第一条の心情の蹂躙罪です。

そして、これは人間を人間として扱わないで、物扱いした結果なのです。サタンは結果責任を追求し、それを指示した総司令官であるアボジに帰結するので、アボジを讒訴するでしょう。その結果、メシア家庭が蕩減の代価を払わされ、今日の悲惨な状態になってしまうのです。

選民の資質に話を戻しますと、セウル号の船長やそのクル-たちの自己中心な振る舞いやナッツ姫の我がままな振る舞いと言う事実から鑑みて、ロ-マ法王から、韓国は生まれ変わなければならないと言われてしまうのです。

更に、韓国の歴代の大統領が辞任した直後、ほぼ例外がないほど、汚職事件で本人、または、家族、血縁関係の者が逮捕されているのです。

このような実態から判断して、韓国民族が選民だというのは、洗脳されたUC信徒を除いて、人類である世界の人々にとっては言語道断であるというでしょう。




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メシヤのみことばの価値(本当に世界を変えるためには)




ある人から以下の質問がありましたが、コメントを致します。



非常にカイン的な質問をしますが、回答を頂ければ感謝です。
皆様は「メシアの御言葉」には本当に価値があると思っているのでしょうか?

「メシアの御言葉」には人性と神性があると言われています。

そして「メシアの御言葉」には矛盾するような表現もあり、多様に解釈できるものが多いと思われます。また、和訳時には、日本人が躓く様な「メシアの御言葉」は削除されるということも見聞します。

私たちは、それがメシアの語った言葉と知っているから価値があると思うのでしょうか?それとも、誰が語ったか知らなくても、言葉の内容が素晴らしいから価値があると思うのでしょうか?

例えば、アボジの御言葉選集から適当に抜き出した10個の文章と他の著名な宗教家の本から適当に抜き出した10個の文章をランダムに並べて、感銘を受ける文章を10個選択すると、全てアボジの御言葉になるでしょうか?

世界を変える事が出来るのはやはりメシアの御言葉です。




これに対する師観のコメント:

誰が言ったかではなく、何を言っているのかが問題です。

神が太陽が地球の周りを回っているといったら、小学生に神といえども笑われてしまうでしょう。何だ、神様って大したことがない方なんだ、と言われてしまうでしょう。

裸の王様に対しては大人の中には素晴らしい着物だという人もいるのかも知りませんが、子供は正直ですからありのままに言えるのです。

UCにおいては、大人とは信徒のことです。子供とは第三者の人類です。「世界を変える事が出来るのはやはりメシアの御言葉です。」は信徒にはそのように思える人がいても第三者はそのようには見ないでしょう。

他宗教の信徒達はそれぞれ「世界を変える事が出来るのはやはり我々の教祖様の御言葉です。」と言うでしょう。

一番公平な評価のやり方として、特定の思想、信条、宗教に属さない人々を集めて、それぞれの教祖の名言集を見せて投票をさせることです。


>それとも、誰が語ったか知らなくても、言葉の内容が素晴らしいから価値があると思うのでしょうか?


・これが一番公平な判断でしょう。メシアとはヘブライ語でマ-シ-アハであり、油を注がれた者の意味です。

ヘブライの聖書(旧約聖書)には39人のメシアがいます。その内、王は29人です。メシアとは使命においてメシアであって、ただの人間です。被造物である人間を崇拝すると偶像礼拝になるのです。

アリウスはイエスは人間だと言い出したものですから、キリスト教会は慌てふためいたのです。なぜなら、自分達がやっていることが偶像礼拝になってしまうからです。

そこで、アタナシウスはイエスは本質において神と同質(ホモウシア)と言い出したのです。

今統一教会で同じようなことが起こっています。TMは自分を神と同じ立場に位置づけているようです。

自分のことを神の実体だ、と言ったら、神と同じになってしまうのです。TFもそうです。人間を神扱いする信仰はヘレニズムです。それはギリシャ神話を見れば一目瞭然です。

そして、恐ろしいことはUCの多くの信徒がこれに陥っていることです。

ちなみに、厳密な意味では、神の実体と神の実体対象とでは意味が違って来るのです。対象なら神の実体でなくても被造物は対象にはなり得るのです。



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神性と人性の問題




私の友人の中には、摂理に詳しい人がいて、時々最近の教会の様子を語ってくれる。

その中で昨年の11/12にワールドカップスタジアムで開催されたという8万人大会についてのお話を紹介しましょう。

何人集まったかは知りませんが、とにかく8万人大会というそうである。この大会の表向きの名前は「南北統一の世界大会」だったので韓国の統一省もスポンサ-になった。

2000台のバスを動員して人が集まったが、開催直前に統一省がスポンサ-から降りたという。

その理由はクリスチャンを中心とした反統一教会勢力がなにやら良くない噂を垂れ込んだからだと言う。

それは、この大会が「南北統一の世界大会」とは言うが、実際の中身は韓鶴子女史の独生女論と彼女を神格化する大会であるという。

事実、蓋を開けたらその通りだったと言う。そんな事で、韓国のVIPはほとんど手を引いてしまったが、海外から来たVIPは参加した。

しかし、韓女史のスピ-チは一番最後なのだが、途中でもう終わったと思った来客が寒さも手伝って早々と帰ってしまったという。

そのせいでしょうか、11/23の天正宮での祝賀会では急に韓女史はご機嫌が大変悪くなったという。

韓国FFの会長は解任され、代わりに平清の修練所長が会長になり、FF本部はソウルから天正宮に移り、韓国とアメリカは5地区体制になった。日本もそのようになるであろうと言う。

ここで、私の韓女史についての印象を語ってみましょう。

アメリカで文教主の横で座っていた韓女史についての印象は清楚な美しさを感じさせ、聖霊の実体がじっと座っているような印象でした。したがって、神性を強く感じたのです。

ところが、最近の韓女史の言動から来る印象は神性がどこかに消えてしまい、人性のみを感じるのです。その言動の例をあげると:


1:私の所に相談に来る家庭連合に籍を置いている多くの信徒の悩みは、韓鶴子女史が大会で語る内容は文師を証すメッセ-ジではなく、自分が独生女であり、メシアであることのメッセ-ジであるという。これはフアミリ-の中に書かれている女史のメッセ-ジも同じだと言う。

それゆえ、女史はキリストを告白する聖霊の役割を果たしているようには思えないという。


2:「私は腹中から3代一人娘の母系として血統転換し、原罪を清算して純潔で誕生した独生女だ。ところがお父様は原罪を持って生まれた。私は一人娘として生まれたが、お父様には複数の兄弟がいる。お父様が原罪なく生まれたなら、その兄弟たちも原罪がないという話になる。したがってお父様は原罪なく生まれたのではのではないということだ」(2016/12/25 天正宮にての発言)

    
「原罪を持って生まれたお父様は、原罪なく地上で生まれた独生女に会って原罪を清算した。お父様は私に会う前に、他の女性と結婚してはいけなかった」(12/30 430双以上のの元老夫人たちを招集した時の証)
 
姜賢實先生の声明(2016/12/21)によれば、「ところがある日、晴天の霹靂のような言葉が聞こえて来ました。お母様は「私は原罪なく腹中から生まれた時から3代がきれいな純潔で生まれましたが、お父様は原罪と共にお生まれになった」と言いました。いくら理解としても理解が出来ず、数日間苦痛の中でもがき苦しみました。私の良心では受け入れることができません」という。


3:聖霊の実体になるべき方が、神山さんの言動ぐらいで除名に処するとは心が狭すぎて人類の真の母にはなり得ない。

これでは、韓鶴子女史を見た者は聖霊の実体を見た者なりとは言えないでしょう。


以前にも話しましたが、説教者がどんなにすばらしい説教をしても、説教者が去った後で、その人の印象が残ったら、その説教は失敗だったと思え、というのです。


我々もそのようにならないように気をつけなければいけません。西川美植ママの話によれば、当時韓国に有名なある牧師がいたと言う。

その牧師が語るみ言葉は聖霊に満ち溢れ、多くの人々が感動したと言う。しかし、聖霊が語るみ言葉以外は一切語らなかったと言う。

我々もいかにも聖霊が語っていると思える時と、自分が語っているのが分かる時を何度も経験しています。要するに、神が語っているのか、人が語っているのかを判断することが最も大切な基準となるのです。

それでは、次にその観点から、イエスのみ言葉を見てみましょう。残念ながら、当時は録音措置がなかったので、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書を通してしか見ることが出来ません。

マタイ、マルコまではイエスと神が区別されていますが、ルカでは美化され、ヨハネではイエスは天地創造の前から神と共にいて、イエスが天地創造をしたようなお話になり、完全に神格化されてしまいます。

これでは人間が神になってしまい失敗です。旧UC・FFも同じ道を踏襲しないことを願います。

ところで、H1やH2はどうでしょうか?神が語っているのでしょうか、それとも人間が語っているのでしょうか?

語っている内容に、よりけりですが、実際に、その場にいて聞いたわけではありませんが、私にはどちらも人間が語っているように思われます。

特に、H2は王冠を冠り、銃とナイフを持ったいでたちで登場してくるとそれだけで、論外になってしまうのです。H1の論文を読む限りでは、日本について何も言及していないということは神の関心とは違うと言うことになります。

神は日本に関心がないのでしょうか?違うでしょう。UCが世界的にここまで拡大できたのは日本のUCなくしてはありえないことなのです。

H1が主管しているUCIはもとをただせば、全部日本の献金のお陰で出来た物だといっても過言ではないでしょう。

余談になりますが、幸福の科学の大川隆法は神であるエルカンタ-レの化身・実体になってしまい、人間が神になっています。

彼のスピ-チを二度ほど聞きましたが、ただ、大声で叫んでいるだけで聖霊は全く感じられない人間のスピ-チでした。しかし、内容は正論でしたので、それはそれで良いでしょう。


国家メシアはUPFと相対するので私は創価学会や幸福の科学に働きかけて芸術活動(音楽)を通して超宗教活動を展開しています。

文教主がアベル国連を立ち上げた時に、それに相対するのは統一教会という一宗教法人ではなく、超宗教・超国家のUPFなので、UC・家庭連合も女性連合も全ての統一グル-プはその傘下に入れという方針だった。

しかし、H2が世界会長になった時に何を血迷うたのか(?)、統一教の傘下の中にUPFを入れて、主管してしまった。その結果、各国の平和大使は文師の超宗教超国家のUPF平和大使であって、統一教会の下に入ったのではないと言い出して、離れて行くのです。

ところが、TMはマジソンスクエアガ-デンの大会の後に、FFとUPFを並列に分けた。韓国の総会長が帰国した後は、FFの会長は徳野氏、UPFの会長は勝栗正義氏という並列の立場になるのでしょう。

いずれにしても、誰であろうと神格化してしまうと偶像礼拝になってしまうのです。



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